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『さらば友よ』~「詩(心理)的レアリスム」から新しい「フレンチ・フィルム・ノワール」へ~

 19世紀のルイ・フィリップの時代に創設された“外人部隊”は、フランス共和国の正規軍です。現在でもフランス陸軍に属しており、自国の兵士を使わず、他国からの傭兵を使って自国民の犠牲を最小限に抑える目的で継続されています。
 “外人部隊”では、従軍中の訓練により、死ぬまで戦うよう軍事教育されていたそうです。過去には、アルジェリア戦線、インドシナ戦線などに送り込まれ、膨大な数の外国人兵士が生命を亡くしています。最近でも部隊編成されて、アフガニスタンやコソボなどに派兵されていたそうです。
 “外人部隊”での生活とは、どんな生活なのでしょう。
 いつ死ぬともわからない敵軍との戦い、そして医療体制もままならないなかでの戦傷や伝染病など、生と死のはざまの絶望、そして空虚しかない生活なのだと思います。従軍が終わって、命からがら帰国したとしても、心に刻まれたトラウマは決して消える事がないのです。

【「フランス映画のある種の傾向」が、「心理的レアリスム」と定義された、1930年代から主流であった「詩的レアリスム」としての「良質の伝統」は、リアリズムの崩壊に寄与してしまっている。】

 映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」(1954年1月号)に批評家フランソワ・トリュフォーの掲載記事の批判内容です。
 「詩(心理)的レアリズム」作品の初期の代表的演出家には、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャック・フェデール、マルセル・カルネなどがいます。そして、彼らの名作のシナリオを担当していた脚本家のシャルル・スパークやジャック・プレベールの詩情豊かな名台詞の数々が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のカイエ派の徹底的な批判にさらされていきました。
 しかし、それでも普遍の名作群は、現在でも根強く新しいファンを生み出し続けていると、わたしは思います。
 特に、そのノワール的傾向の作品には“外人部隊”の兵士、および脱走兵などを“悲劇のヒーロー”とした傑作が多いことも、そのひとつの傾向であるような気がしています。

◯『地の果てを行く』(1935年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、シャルル・スパーク脚本、ピエール・マッコルラン原作)
 ジャン・ギャバン演ずるピエール・ジリエトは、殺人を犯した逃亡者です。最後の逃げ場所であるスペイン領モロッコの外人部隊に身を投じ、同国人であるルカスとミュロに出会いますが、実は、ルカスは懸賞金目当ての警察の密偵であり、彼らは追いつ追われつの死闘を演じます。ミュロとの友情やアナベラ演ずるモロッコ娘アイーシャとの恋。最後には、ピエールもミュロも死んでしまうという悲劇での幕切れでした。

◯『霧の波止場』(1938年、マルセル・カルネ監督、ジャック・プレヴェール脚本、ピエール・マッコルラン原作)
 ジャン・ギャバン演ずる脱走兵のジャンが、夜霧の港町ル・アーヴルでミシェル・モルガン演ずる薄幸の娘ネリーと巡り会います。愛し合ってしまった彼らは一緒に南米に逃げようとしますが、ジャンは、以前に叩きのめしたチンピラ、リュシアンのお礼まいりのピストルで撃たれ、ネリーの腕の中で死を迎えてしまいます。『望郷』と同様に、哀しい霧笛の響きが余韻を残すラスト・シークエンスでした。

◯『外人部隊』(1933年、ジャック・フェデール監督、シャルル・スパーク脚本)
 ピエール・リシャール・ウィルム演ずるピエール・マルテルは、マリー・ベル演ずる恋人フローランスとのトラブルから、外国へ亡命しなければならなくなり、モロッコの“外人部隊”に入隊します。ロシアからの亡命者の親友ニコラとともに、フランソワーズ・ロゼー演ずる女将ブランシュと、シャルル・ヴァネル演ずる彼女の夫クレマンが経営する安宿での生活が始まります。
 絶望的な生活の中で、ピエールは恋人だったフローランスと瓜二つのイルマ(マリー・ベル2役)と出会って、恋に落ち、フランスに帰国することを考えます。しかし、フローランスと偶然にも街角で再会したとき、心のどこかでイルマを裏切っている自分や、フローランスの心には、すでに自分が居なくなっていること、などに気付きます。ピエールはイルマ一人をフランスに帰らせ、間違いなく死ぬであろう“外人部隊”の、前線に向かう行進に参加していくのです。

 このように、これらの名作群の主人公たちの運命には、「追いつめられての死」を迎える絶望的な結末が用意されていたように思います。

外人部隊

アイ・ヴィー・シー



◯『大いなる幻影』(1937年、ジャン・ルノワール監督、シャルル・スパーク脚本)
 主人公ジャン・ギャバン演ずるマレシャルと、マルセル・ダリオ演ずるローゼンタールが、スイス・ドイツ国境を越えることに成功するラスト・シーンの映画史上に残る名台詞にも、ペシミスティックな絶望感が表されていました。
>マレシャル
もう戦争は終わりだろうな。そして、これが多分、最後の戦争だぜ。
>ローゼンタール
それは君のイリュージョン(幻影)に過ぎないよ。

 アラン・ドロンが主演した作品では、初めての彼のプロデュース作品であるアラン・カヴァリエ監督の『さすらいの狼』(1964年)や、渡米時代のハリウッド作品『名誉と栄光のためでなく』(1965年)などは、まさに“外人部隊”を舞台の設定としています。また、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の遺作であるサスペンス作品『悪魔のようなあなた』(1967年)では、ブルジョア間の醜い争いに巻き込まれる、アルジェリア戦線帰りの、酒と女とバクチにしか興味のない素性の知れないチンピラであるピエール・ラグランジェを熱演しました。
 そして、この『さらば友よ』の主演男優は、二人とも軍隊経験を持っています。
 チャールズ・ブロンソンは、第二次世界大戦中に空軍に入隊していますし、アラン・ドロンも映画デビュー前の1952年、17歳でインドシナ戦線に志願兵として従軍しています。後にアラン・ドロンは、“帰仏したばかりのころは金と女のためならどんなことでもやった”と苦渋の表情で語っていたそうです。

 チャールズ・ブロンソン演ずるフランツ・プロップとアラン・ドロン演ずるディノ・バラン。彼らが地獄のようなアルジェリア戦線での従軍を終え、フランスの港町マルセイユのジョリエット埠頭に帰還するところから、『さらば友よ』のストーリーは展開していきます。

 このような娯楽作品であるにも関わらず、プロップとバランの登場と出会いの強烈なファースト・シークエンスのタイトル・バックは古典的で、リアリズムの表現技術が透徹しているように思います。
ジャン・ジャック・タルベスのカメラの“トラック・ショット”
フランソワ・ド・ルーベのテーマ曲
チャールズ・ブロンソンとアラン・ドロンのリアリティ溢れた、しかもスターとしての存在、その両面のキャラクター
 などにより、リアルな効果が全面に表現されていながら、娯楽作品として観る者の好奇心を刺激する最大の効果も併せて上げています。

 カメラはマルセイユのジョリエット埠頭に帰港した軍用輸送船のタラップから降り立つ無数の帰還兵を全景で映し出し、その兵士の一人であるプロップを、ゆっくりパンニングで追っていくタイトル・バックで始まります。
 ここでは、テーマ曲であるフランソワ・ド・ルーペのテーマ曲を非常に効果的に使用しており、強烈な好奇心を喚起させられます。

 パーカッションの行進曲調のイントロダクションから、荒っぽい電子楽器のベースの音響とともに、プロップがウィスキーをあおりながら船のタラップから降り、その前方の埠頭をMPのジープが走り抜けるそのとき、いきなりヒステリックなピアノの独奏が鳴り出します。
 彼が、埠頭に降り立ってウィスキーを全て飲み干し、未練ありげに空ビンを確かめる上半身のミディアムのフレーミング・ショットから、テーマ曲は管楽器の主題部分に入り、同時にバランをスクリーン・フレームの左側より、プロップの後方から登場させ、周囲を伺いながら歩く彼をパンニングで追っていきます。
 プロップが、飲み干したグラスを船腹に投げつけた振り向きざま、彼はバランのズック袋にぶつかったときに舗道に落ちたリボルバーを興味深げに拾い上げ、弾丸穴を覗き込みます。
 テーマ曲は、ひとくせもふたくせもありそうなこの二人の、この交差までのショットを、電子楽器のベースと叩き付けるような激しいピアノの音色に木琴楽器を重ねた強烈な曲調によって場面を引き締めるのです。


 ここまでのカメラ技術は、無数の帰還兵の中から、プロップとバランという個人を選び出す作業を行うことによって、彼らが多くの兵士たちの中の任意の個人であることを表す効果を狙ったトラック・ショットと呼ばれるものです。
 アルジェリア紛争の時代、その光景は決して珍しくなく、どこにでもいた荒くれた帰還兵たち、プロップとバランにその大多数の兵士をシンボライズさせ、社会的な背景を強調したリアルな表現に成功した見事なファースト・シークエンスでした。

 また、ジャン・ジャック・タルベスのカメラと、フランソワ・ド・ルーペのテーマ曲との照応による一体感は、“視覚的リズム”と“音響的リズム”との照応、および一致における定義、すなわち音楽における運動と、映画の画面における造形的な運動との間に、極めて厳密な“一致照応”の関係があることを主張していた旧ソ連の大監督エイゼンシュテインの“トーキーの原理”を思い起こさせます。
 しかも、主役を演ずる俳優は、スターでありながら、実際の軍隊経験を双方持ち合わせたチャールズ・ブロンソンとアラン・ドロンなのです。【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年】

映画の理論 (1956年)

岩崎 昶岩波書店



 これら冒頭のカメラ・音楽・カット割り・俳優は、娯楽性の創出のみならず、リアリズムを追求しながら、実にサスペンスフルであり、観る者の好奇心を強く喚起する効果を上げることに成功しています。
 このタイトルバックの映像テクニックは、半端な熟練ではありません。すべてのドラマ・トゥルギーは、たった数十秒におけるこのシークエンスに集約され、観る者を無意識にスクリーン・フレームに釘付けにしてしまうのです。

 “外人部隊”の傭兵であるプロップと軍医バラン、自尊心の強過ぎる二人の男が主人公です。初めはお互い相手を不愉快に思い、遇うたびにいがみ合い、そして殴り合いのけんかばかりをしていますが、最後には無二の親友となっていきます。

 男というのは、何故か「ちょっと気になる奴」というものを自分の周りに持つことがあります。そして、そいつが気に入らないのです。とにかく癇に障り、常に腹が立ちます。いつもお互いが気になってしまい、とうとう、けんかを始めてしまいます。どうしようもなく腹が立って仕方がないのです。
 しかし、実は二人は「誰にもわかってもらえない誇り、苦しみ、孤独」を持っている者同士であることも直感的にわかっており、けんかをしているうちに、そういうものがお互いには見えてきます。
 そして、いつの間にか
「いつも損ばかりしてやがる馬鹿な奴だ。」と少しずつ実感できてくるのです。
 思いっきり殴り合っていると不思議なことに
「誰にもわかってもらえない馬鹿な奴だが、おれにはわかる。」
と相手のことが理解できてくるのです。

 ここまで来ると、相手に特別の心情をもつに至り、決してそのお互いを裏切らなくなります。仮にもし死の危険に晒されたとしても、絶対にその友情を裏切らなくなるのです。
 チャールズ・ブロンソンのフランツ・プロップも、アラン・ドロンのディノ・バランもお互いが、お互いを「ちょっと気になった」というわけです。
 わたしの大好きな場面に、バランがプロップに、自分にトラウマを残した戦地での経験を話すシーンがあります。閉じこめられた地下の金庫室で、

「あのリボルバーはなぜ弾丸が一つなくなっているんだ?」
ファースト・シークエンスでプロップが示した好奇心から、バランの独白が始まっていくのです。
「やつはあの音楽家と同じモーツァルトという名前だった。やつもおれのように医者だった・・・やつとおれはいつも一緒だった。試験も一緒にパスした。女の子をからかうのも、酒を飲むのも、喧嘩するのも一緒だった・・・おまえにはわからないだろうが、なにをやらしても器用な男だったよ・・・とくに、ばかげたことにはな・・・初め、おれはやつのことを他の連中みたいにろくでなしだと思っていたが、本当はりっぱなやつだった・・・それで、最後には、おれにとって兄弟・・・いや・兄弟以上のものになったんだ・・・」

 モーツァルトの話をしているうちに、バランの声が変わった。何か心をかき乱される思い出、暗いけれども二つとない真心をこめて思い出している思い出の中にひたっているようだった。
 プロップは次々に株券の松明を点しながら、バランの話を聞いていた。そして、短くなって持てなくなった松明の火先を次々に床に棄てた。
 今や、二人の男の顔はゆらめく光に照らし出されていた。
 バランが話を続けた。
「・・・アルジェリアで、ある夜、救護班が敵の攻撃を受けた。セティフでな・・・そして、おれは敵とまちがえて、やつを撃ってしまったんだ・・・」
バランは人差し指で額の真中を押えて、いった。
「・・・ここをだ!」
 彼は突然、コンクリートの部屋の真中で身体を起こした。汗にまみれていた。
「一時間後、やつの死骸をヘリコプターで基地に運んだ・・・そして、おかしなことに、その夜のはたらきで、おれは勲章をもらったんだ!・・・」
【引用~『さらば友よ』セバスチャン・ジャプリソ 榊原晃三訳、早川書房(ハヤカワミステリ)、1972年】

さらば友よ (ハヤカワ・ミステリ 1074)

セバスチャン・ジャプリゾ / 早川書房



 戦前の「詩(心理)的レアリスム」の演出家たち、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャック・フェデールならシャルル・スパークの脚本で、マルセル・カルネの作品であれば、ジャック・プレヴェールとの演出・脚本の名コンビネーション(カルネ&プレヴェール)で、この独白そのものを題材にして作品を制作していたことでしょう。

 ファム・ファタルに見事にはめられた二人の男、この地下室の絶望的な状況でのバランの苦悩の独白にフランソワ・ド・ルーペのテーマ曲をBGMとして使用していることで、よりドラマティックな構成となっています。
 暴力と殺戮の“外人部隊”での生活を生き抜いてきたプロップに、バランが思わず話してしまう自らの苦悩は、プロップだからこそ理解できるものだったのでしょう。

 男同士の奇妙な友情、これもクラシカルです。『地の果てを行く』、『我等の仲間』(1936年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、シャルル・スパーク脚本)、『大いなる幻影』、『外人部隊』などの主人公たちは、絶望的な逃亡生活や滅びゆく人間の運命のなかで、行きずりの恋とともに、男が、男らしく生きようとし、男同士の理解し難い友情を守るために、必死に何かと闘う姿が描かれていました。

 『さらば友よ』のあの有名なラスト・シークエンス。
 別件の軽犯罪で逮捕されることになったプロップと、本件の重要参考人としての嫌疑が晴れたバランは、固い友情で結ばれ約束通りに赤の他人を最後まで装います。
 連行する刑事から煙草をもぎ取り、火を探すプロップ、バランの横を通り過ぎようとしたそのとき、黙ってマッチを擦るバラン、がっちりと彼の手を覆って火を付けるプロップ、しかし二人は決して視線を合わさないのです。

 女は、バランが誤って殺してしまった親友モーツァルトの恋人。親友への義理立てのために、女の依頼に一肌脱ごうとするバラン。その内容は、彼女が勤務先の会社から盗み出していた株券を、誰にも見つからずに、職員の賞与2億フランが入っている金庫へ戻すことでした。しかし、苦労してやっと開くことができた金庫はもぬけの殻で、しかも同地階の一室には、警備員の死体まで遺棄されていたのです。
 オルガ・ジョルジュ・ピコとブリジット・フォッセーのファム・ファタルに、はめられてしまった事件の顛末は、過去の運命に敗北する絶望的なドラマであったクラシック、「詩(心理)的レアリスム」の諸作品とは異なり、男同士の友情によって運命に打ち勝つリアルでタフな物語に変貌しています。
 リアリズムの崩壊と批判されていた「フランス映画のある種の傾向」、詩情豊かな「心理的レアリスム」の「良質の伝統」は、新しい「フレンチ・フィルム・ノワール」として、このような形で現代に甦ったのでした。

 考えてみれば、『望郷』や『霧の波止場』での悲劇のラスト・シーンで使用されていた霧笛が、この作品では冒頭ファースト・シーンの帰港した軍用輸送船のワン・ショットで使用されてます。それは、まるでクラシックから現代への橋渡し、時代の連続性を象徴しているようにも感じ取れます。

 そして、フランスの反戦リアリズム作品の巨匠ルネ・クレマン監督、彼の中期の作品に出演し続けたアラン・ドロン、彼の歴史的傑作である『禁じられた遊び』に主演していたブリジット・フォッセー、このキャスティングに意図的なものを感じるのはわたしだけでしょうか?

【バランはリボルバーをケースの中に戻すと、再び歩き始めた。また、他の兵士たちの波が押し寄せてきて、彼は外人兵(プロップ)と離れてしまった。
 ある冬の朝だった。もう大分前から、アルジェリアでは多くの兵士たちが殺されていた。】
【引用~『さらば友よ』セバスチャン・ジャプリソ 榊原晃三訳、早川書房(ハヤカワミステリ)、1972年】

 この作品が、あらゆる角度から過去の「詩(心理)的レアリスム」や、フランソワ・トリュフォーの批判していた、その“リアリズムの崩壊傾向”を超越させようとしていると、わたしには思えるのです。

 この作品をプロデュースしたセルジュ・シルベルマンの作品には、『賭博師ボブ』(1955年)、『穴』(1960年)、『ドキュメント黒澤明 A・K』(1986年)、『雨の訪問者』(1970年)、『狼は天使の匂い』(1972年)、『ディーバ』(1981年)、『乱』(1985年)、『マックス、モン・アムール』(1986年)などの外に、ルイス・ブニュエル監督作品のプロデュースが最も多く、『欲望のあいまいな対象』(1977年)、『自由の幻想』(1974年)、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』(1972年)、『銀河』(1968年)、『小間使の日記』(1963年)などがあります。
 これらの作品から見ても、良識的な作品を商業的なセンスに結びつけることの出来る優れた天才プロデューサーであることがわかります。
 アメリカの二流アクション・スターであったチャールズ・ブロンソンを超一流のハリウッド・スターに返り咲かせることができたことも、このセルジュ・シルベルマンの手腕だったともいえましょう。
【参考~『さらば友よ』DVDライナーノーツ】

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 また『さらば友よ』は娯楽作品として、種々のプロットの隅々にまで、丁寧なエスプリやユーモアが散りばめられています。
 チャールズ・ブロンソンが、グラスのウィスキーの表面張力の限界を賭博にしたコインの賭け、勝ったときの“どんなもんだ”というような「イェー」という得意げな口癖。バランとプロップの友情に嫉妬するメルーティ刑事、バランの親友の「モーツアルト」という名前、ドミニックの「ワーテルロー」というニックネーム、“ワーテルローの戦い”での敗戦年月日が、金庫のダイヤル・ナンバーであること・・・。

 名プロデューサー、セルジュ・シルベルマンの功績はもちろんですが、娯楽映画としての要素とプロットを最大限に取り入れて、クラシック作品からの系譜を踏まえ、アメリカに輸出して各国に逆輸出が可能な映画作品を創り出し、チャールズ・ブロンソンのスターとしてのキャラクターを掘り起こすことにも成功したジャン・エルマン監督の才能にも眼を見張るものがあります。
 彼の残した演出作品が、この作品と『ジェフ』(1969年)、『太陽の200万ドル』(1971年)だけであるということは、あまりにも勿体ない、惜しいと言わざるを得ないのです。

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by Tom5k | 2006-10-28 00:17 | さらば友よ | Comments(26)