『ボルサリーノ』②~「詩(心理)的レアリスム」の伝統をジャン・ポールとともに①~

 アラン・ドロンにとっては、盟友、そしてライバル、長期間にわたって敵対関係でもあったジャン・ポール・ベルモンド。彼らは、ほぼ同世代、同時期のデビューであるとともに、双方とも国際的な超人気スター俳優であったことなど、多くの共通点がありますが、個性においては全く異なる者同志でもあります。
 ジャン・ポール・ベルモンドは、デビュー当時から、この『ボルサリーノ』でのアラン・ドロンとの共演までの間に数多くの「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品に出演してきました。
 ジャン・リュック・ゴダール監督の『シャルロットと彼女のジュール』(1957年)、『勝手にしやがれ』(1959年)、『女は女である』(1961年)、『気狂いピエロ』(1965年)、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』(1959年)、ルイ・マル監督の『パリの大泥棒』(1967年)、フランソワ・トリュフォー監督の『暗くなるまでこの恋を』(1969年)、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の『いぬ』(1963年)等々。
勝手にしやがれ デジタル・ニューマスター版
/ ハピネット・ピクチャーズ





女は女である
/ ハピネット・ピクチャーズ





気狂いピエロ
/ アミューズソフトエンタテインメント





二重の鍵
/ ジェネオン エンタテインメント





パリの大泥棒
/ 紀伊國屋書店





暗くなるまでこの恋を
/ 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン





いぬ
/ アイ・ヴィー・シー





 アラン・ドロンがイタリアでの「ネオ・リアリズモ」や自国フランスの「詩(心理)的レアリスム」などの体系での作品を中心に出演してきたことと対照的で、彼は新時代の「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品でスター俳優としての位置を確立してきました。

 ところが、『気狂いピエロ』の出演後に、ジャン・ポール・ベルモンドは「二度とゴダールとは仕事をしない」と宣言したそうです。また、ジャン・リュック・ゴダール監督も1970年に「商業主義の映画を嫌う」と表明し、最も使いたくない俳優のひとりとしてジャン・ポール・ベルモンドを挙げたと言います。残念なことに彼らの信頼関係はここで破綻することになってしまったのです。

 そういった観点で考えると、わたしは、彼が1966年にルネ・クレマン監督のオールスターキャストのドキュメンタリー作品『パリは燃えているか』に出演したことが思い浮かんでくるのです。
 ルネ・クレマン監督は、作品のシナリオにジャン・オーランシュとピエール・ボストのコンビを多用していた演出家です。つまり、はっきりと「ヌーヴェル・ヴァーグ」傾向の演出家とは異なると言えるのです。
 それどころか「ヌーヴェル・ヴァーグ」の演出家が、徹底的に批判した脚本家コンビを使用していたことが理由で、『居酒屋』や『禁じられた遊び』に対する評価がフランス国内では賛否両論の評価を持つ結果となってしまい、現在でもそれは払拭されていないのです。
禁じられた遊び/居酒屋
/ アイ・ヴィー・シー





 また、ジャン・ポール・ベルモンドはフランス人の大好きなコメディ・アクションの作品で多数の傑作に出演し、純粋な娯楽・商業映画としての主演も非常に多い俳優です。このことはジャン・リュック・ゴダール監督の“商業映画作品の否定”の考え方とも相容れなく拡がってしまったようです。
 ジャン・リュック・ゴダール監督は、彼のこれらの実績である“ジャン・ポール・ベルモンドの長所”とも言える多面性と器用さを、無節操であると解釈したのかもしれません。

 わたしは、アラン・ドロンが本当の意味で敵対意識を持っていたのは、ライバルであったジャン・ポール・ベルモンドではなく、実は自分の師匠たちを、批判し攻撃していたジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなどのカイエ派の映画作家たちだったのではないかと考えることがあります。そうでなければ、この『ボルサリーノ』での自分の共演者として、ジャン・ポール・ベルモンドに出演交渉をするはずがないからです。
(※残念ながら映画撮影後日、プライドの高すぎた二人は決裂してしまい、何カ年もの間、友好を深めることが出来なくなってしまいました。)

 そして、その理由については、その4年前の1966年、『パリは燃えているか』で顔を合わせた経験などから、彼が『いぬ』(1963年)でのシリアスな「フレンチ・フィルム・ノワール」作品や『タヒチの男』(1966年)、『大頭脳』(1968年)などのコメディ・アクション作品への出演経験を持っていて、シリアスな内容と明るい喜劇的な要素が盛り込まれた『ボルサリーノ』の主人公に最も適した俳優であると考えたからだとも思えます。
 更に、彼が人気やギャラの点では自分よりも上位に位置していた当時において、自分と共演すれば、世界的なヒット作品になることは間違いないとの確信に至り、この企画・共演に賛同を得られるはずだと考えたような気がするのです。
大頭脳
/ ビクターエンタテインメント/CIC・ビクタービデオ





 しかも名プロデューサーともいえるアラン・ドロンの才覚において、「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品への対抗戦略として、前述したジャン・ポール・ベルモンドとジャン・リュック・ゴダール監督との確執がこの時期にあったことを利用した、極端に言えば“ジャン・ポール・ベルモンド引き抜き戦術”の側面もあったのかもしれません。
 その理由としては、この作品には「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の要素が欠片ほどにも見当たらず、むしろ「詩(心理)的レアリスム」作品としての要素が全編を通して特徴付けられているということが挙げられます。

 また脚本家の選定においても、その観点での特徴が非常に目立ちます。
 1930年代のトーキー映画の初期、ルネ・クレール監督の作品から始まっていった「詩(心理)的レアリスム」の時代よりも前の1920年代、クロード・オータン・ララ、ルネ・クレール、ジャン・グレミヨンたちとともに「アヴァンギャルド」の作品で映画の詩学を目指していたルイス・ブニュエル監督の『小間使の日記』、『昼顔』、『銀河』で、脚本を担当していたジャン・クロード・カリエールを起用しているのです。彼は「ドイツ・ニュージャーマン・シネマ」の旗手フォルカー・シュレンドルフ監督の『ブリキの太鼓』、『スワンの恋』、『魔王』など、文芸作品の多くを手がけています。しかも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」系統のルイ・マル監督の『パリの大泥棒』、『ビバ!マリア』のシナリオまで担当しており、実に器用で多彩なライターです。
小間使の日記
/ ビデオメーカー





昼顔
/ バンダイビジュアル





銀河
/ ビデオメーカー





ビバ、マリア
/ 紀伊國屋書店





ブリキの太鼓
/ ハピネット・ピクチャーズ





魔王
/ 日活






 そして、フランスで最も権威ある文学賞のひとつであるゴンクール賞『神のあわれみ』の著者である文学者ジャン・コー、マルセル・オフュルス監督の『バナナの皮』やジョゼ・ジョヴァンニ監督の『皆殺しのシンフォニー』、『墓場なき野郎ども』やアラン・カヴァリエ監督などの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の多くを手がけた、演出家でもあるクロード・ソーテをシナリオの担当に選んでいます。
墓場なき野郎ども





 ジャック・フェデール監督(マルセル・カルネ助監督)の『外人部隊』(1933年)やジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『我等の仲間』(1936年)の脚本シャルル・スパーク(『女が事件にからむ時』)
 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『望郷』(1937年)の脚本アンリ・ジャンソン(『フランス式十戒』、『黒いチューリップ』)
 マルセル・カルネ監督の『霧の波止場』(1938年)の脚本ジャック・プレヴェール(『素晴らしき恋人たち』)
たちの描いた古き良き時代のシナリオを重視したクラシック作品として、「詩(心理)的レアリスム」を復活させるねらいがあったことは明らかです。
 これらは「詩(心理)的レアリスム」の戦後第2世代であるクロード・オータン・ララ監督やジャン・ドラノワ監督、そしてクリスチャン・ジャック監督、ルネ・クレマン監督等々、ジャン・オーランシュとピエール・ボストの脚本家コンビ(『学生たちの道』)に引き継がれていきますが、『ボルサリーノ』のシナリオ担当者の選定には、このような過去の「詩(心理)的レアリスム」の文学的特徴と、そのなかでも特にノワール的色調を持ったこれらの作品群をモデルにしたのではないかと思うのです。
※注~(  )内はアラン・ドロン出演作品

 ジャック・ドレー監督の演出と、ジャン・クロード・カリエール、ジャン・コー、クロード・ソーテの脚本には、古き良きフランス映画の良質の伝統が感じられます。そして、その伝統的な凝ったセリフやキザな言い回しは、アラン・ドロン演ずるロック・シフレディとジャン・ポール・ベルモンド演ずるフランソワ・カペラの別れのラストシーンに集約されています。

 フランソワは、マルセイユを出てニースに行くことをロックに告げます。しかし、ロックはそれを納得できません。
 二人の寂寞の感情がスクリーン全面から痛いほどよく伝わってきます。

>ロック
なぜ、行く
>フランソワ
俺たちのためだ
>ロック
わからん
>フランソワ
簡単さ 俺たちはボレロを殺し“ダンサー”とマレロも殺した とめどがない、いつかは俺たちも殺し合いになる だからだ、そうなれば、俺が先に手を出す 他に道はない 分かるだろ
>ロック
もし俺が出ると言ったら?
>フランソワ
君が
>ロック
今行く
>フランソワ
コインだ、負けた方が行く、いいな?
>ロック
よし
>フランソワ
どっちだ
>ロック


 コインを投げて出たのは表でした。

>フランソワ
俺の負けだ

 ロックはコインを奪い、両方とも表であることを見破ります。

>フランソワ
知ってたか
>ロック
インチキをな、だが今日は見逃せん
>フランソワ
元気でな、つきが消えたよ

 ロックを置いて外に歩いていくフランソワ、淋しそうなロックの表情をクローズアップで映しだします。
 そのときでした。ロックとの決別を決意し外に出ていたフランソワに銃撃が襲いかかったのです。
 驚いてフランソワに駆け寄り、彼を抱え上げるロック。

>フランソワ
ロック、つきが・・・消えちまった

フランソワはこう言い残して死んでいきます。

=その後、ロックがどうなったか誰もしらない=


 ロックがフランソワを抱きかかえ、途方に暮れるラストシーンのストップ・ショットに挿入されるこのテロップから、「詩(心理)的レアリスム」諸作品の“シナリオを優先した文学性”と同一の傾向を感じるのはわたしだけでしょうか?


 助演している女優、特にカトリーヌ・ルーヴェル演ずるローラが、この作品の素晴らしさを更に高めています。1930年代のマルセイユの夜の酒場で生きる女性らしい優しさと強さを、その時代的雰囲気をもって演じていました。
 その女性らしい優しさは、フランソワのジネットに対する浮気心を、すべて許すことのできる包容力に現れていました。

>忘れられない? ジネットと本気で所帯を?

と優しくフランソワを優しく慰める天使のようなローラ。

 そのキャラクターには、かつてカイエ派のフランソワ・トリュフォーが、フランス映画の良質の伝統として、最も忌むべき系譜であると糾弾していったジャック・フェデール監督&脚本家シャルル・スパークのコンビで撮った『外人部隊』や『ミモザ館』、マルセル・カルネ監督&脚本家ジャック・プレヴェールの『ジェニーの家』などでのフランソワーズ・ロゼーを思い出すことでしょう。
外人部隊






ミモザ館
/ ビクターエンタテインメント





 そして、ジネットを演じたナタリー・ドロンにそっくりなニコール・カルファンも「詩(心理)的レアリスム」の諸作品での悲劇の女性たちに極めて近いキャラクターです。マルセル・カルネ監督の『霧の波止場』のミッシェル・モルガンやジャン・ギャバンが最も可愛いがっていたマルチーヌ・キャロルや、マリー・ベル、ダニエル・ダリュー、ディタ・パーロ、ミレーユ・バラン等々。

 コリンヌ・マルシャン演ずるリナルディ夫人やフランソワーズ・クリストフ演ずるエスカルゲル夫人も同様に、古き良き時代の気っ風のいい女たちでした。

 彼女たちは決して、ジーン・セバーグ、ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブ、アンナ・カリーナ以降の女優ではないのです。それは戦前のフランス映画黄金期からタイム・スリップして来たクラシック・キャラクターそのものだったのではないでしょうか?

 カットごとに変わるロックとフランソワのコートやスーツ、仲間達との海水浴での水着姿、映画のタイトルにもなっている「ボルサリーノ」の帽子(これは19世紀からの歴史を持つイタリアのミラノ郊外の帽子メーカーであるボルサリーノ社の社名です。題名に相応しく、あらゆるシーンでこれが登場します)。“ダンサー”のミュージック・ホール、そこでのレビューでの踊り子達にも30年代の雰囲気が満開です。出演者達のレトロ・ファッションを担当したのは『バーバレラ』、『世にも怪奇な物語(第一話「黒馬の哭く館」)』のジャック・フォントレーでした。
バーバレラ
/ パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン






 作品の時代背景は、アラン・ドロンが最も尊敬するジャン・ギャバンの活躍していたフランス映画全盛時代の1930年代です。
 この作品は、二つの世界大戦に挟まれたつかの間の平和な時代、人々の生活が技術革新により、華やかに変化し庶民の娯楽や文化も現代風に変化していった、新時代の港町マルセイユを舞台にした「フレンチ・フィルム・ノワール」として描かれているのです。
 『霧の波止場』(1938年)、『曳き船』(1940年)、『夜霧の港』(1942年)、『港のマリー』(1949年)など、ジャン・ギャバン主演のフランス映画作品の舞台には、港町での人々の生活を、「陰の人生」としてのノワール的色調によって、美しく描いている作品が多数あります。
 この『ボルサリーノ』作品中でも、ロックとフランソワの顧問弁護士リナルディの選挙の後、二人が丘から見るマルセイユ港の美しさには目を見はるものがありました。
曳き船【字幕版】





港のマリー
/ パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン





 1968年、アラン・ドロンは、自ら世紀の大スキャンダルの渦中にいたマルコヴィッチ殺害事件に開き直り、主人公が完全犯罪を遂行するストーリーで『太陽が知っている』を制作し、強烈な印象を残しました。俳優生命を絶たれるかもしれなかったこの時代に、最も自分を理解してくれたジャック・ドレー監督と脚本家のジャン・クロード・カリエール。彼らの協力があってこそ、この作品を完成させることができたとまで言っても言い過ぎではないと思います。
 彼らが、この『ボルサリーノ』という野心作においても、アデル・プロダクションの意図する作風に同調し、スタッフとして作品制作に携わっていったことは、アラン・ドロンをどれだけ勇気づけ、この後の人気スターと名優、そして名プロデューサーとしての生き方に大きな影響を与えていったことでしょう。二人は、以後もアデル・プロダクションの作品の多くに携わっていくことになるのです。

 古き良き時代のダンディズムを貫きながらも、運命に抗うことが出来ずに挫折する二人の若いギャングたち、出口のないヤクザの世界を舞台としながらも良き仲間達に囲まれて生きることの出来た1930年代、クロ-ド・ボランのクラシック、美術・衣裳の時代的風俗。

 『ボルサリーノ』公開当時、フランス映画のオールド・ファンたちには、ルネ・クレール、ジャック・フェデール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネたちの演出を、今、目の当たりにしているような美しくポエジックな、そして懐かしい現実感に陶酔することが出来たのではないでしょうか?
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by Tom5k | 2006-08-25 00:37 | ボルサリーノ(2) | Trackback(3) | Comments(11)

『ボルサリーノ』①~ジュリアン・デュヴィヴィエ&ジャン・ギャバンからの影響~

 アラン・ドロンのキャラクターの印象は、ジャン・ギャバンの後継者としての「フレンチ・フィルム・ノワール」の大スターとしての側面が一般的なような気がします。彼は多くの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品を製作し、出演していますが、それらの作品を単にひとつの体系と解釈することが短絡的であると感じ、抵抗感を憶えます。

 特に、この『ボルサリーノ』は、クールで孤独な犯罪者を現代的・都会的に様式化していったジャン・ピエール・メルヴィル監督での作品や、社会で虐げられ疎外され、犯罪者とならざるを得なかった者たちの悲哀を描き続けたジョゼ・ジョヴァンニ監督の作品などと趣きが異なります。
 このようなことを考えると、彼の「フレンチ・フィルム・ノワール」の種々の作品は、フランス映画史との関連においての密接な影響が常に存在している、というところにどうしても行き着いてしまうのです。

 アラン・ドロンの映画デビュー当時の作品は、自国フランスでは「詩(心理)的レアリスム」戦後世代のクリスチャン・ジャック監督や、ピエール・ボストとジャン・オーランシュの脚本家コンビの作品、ボスト&オーランシュを多用していたルネ・クレマン監督の作品、戦前の「詩(心理)的レアリスム」の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の作品体系であり、イタリアの作品ではルキノ・ヴィスコンティ監督やミケランジェロ・アントニオーニ監督の「ネオ・リアリズモ」作品の体系を中心としたものでした。
 そして、その後、ジャン・ギャバンとの初共演作品『地下室のメロディー』を出発点にして、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の体系へと変わっていきました。
 そして、その時代とほぼ同時期の1950年代後半から60年代にかけてのフランス映画では、いよいよ映画史そのものの体系を覆してしまうほどのエネルギー「ヌーヴェル・ヴァーグ」が始まっていきます。しかし、アラン・ドロンの資質や出演していた作風とそれは相容れず、彼は俳優としての居場所をハリウッドに求めていくことになりました。

 マルコヴィッチ殺害事件の真相は未だ闇の中に在ると言えそうです。そして、その発端にはハリウッドでの彼の生活から始まっていたように見受けられる節もあります。
 作品の興業成績や映画スターとしての人気、フランスとハリウッドの映画制作環境の違い、スキャンダルへの危機感等、種々の原因により、彼はハリウッドを去り自国のフランス映画に復帰します。

 初期の彼に最も大きな影響を与えた演出家であったルネ・クレマン監督は、独自のリアリズムを追究しながらも『ガラスの城』(1950年)、『禁じられた遊び』(1952年)、『鉄格子の彼方』(1954年)、『居酒屋』(1956年)などで「詩(心理)的レアリスム」の体系で有名であったピエール・ボストとジャン・オーランシュのコンビをシナリオや脚色で起用していた監督です。
禁じられた遊び/居酒屋





鉄格子の彼方
/ 東映





 ハリウッドのワーナー・ブラザーズ社でのノン・フィクション作品『パリは燃えているか』(1965年)は、アラン・ドロンが渡米中に出演した作品でした。残念なことに、この作品がデビュー当時から組んできたルネ・クレマン監督とのコンビの最後の作品でした。

 彼は帰仏後、ロベール・アンリコ監督の青春映画『冒険者たち』(1967年)で新境地を開き、脚本を担当していたジョゼ・ジョヴァンニと巡り会い、いよいよ初めて、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の演出家ルイ・マル監督の『世にも怪奇な物語「第二話 影を殺した男(ウィリアム・ウィルソン)」』(1967年)に出演することができました。1968年には、これも「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先行者と言われていたジャン・ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』に出演し、以後の彼の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品でのキャラクターの確立に成功します。

 ここで、興味深い逸話が残っています。1967年に『サムライ』の企画が出たとき、戦前の「詩(心理)的レアリスム」の巨匠マルセル・カルネ監督のエージェントはアラン・ドロンのマネージャーに演出依頼の交渉をし、アラン・ドロンがそれを断ったというのです。そして、いよいよジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出での『サムライ』に主演しました。

 何故、彼はマルセル・カルネ監督を断ったのか?この原因として、アラン・ドロンはデビュー当時に彼の作品『危険な曲がり角』(1958年)のカメラ・テストで落とされた経緯があり、そのことを忘れていなかったようなのです。
【参考 『パリの風のなかで』 秦早穂子 著、講談社、1979年】

 また、すでにマルセル・カルネ監督は全盛期を過ぎた過去の演出家であり、『霧の波止場』(1938年)や『北ホテル』(1938年)、映画史上の大傑作『天井桟敷の人々』(1945年)を撮った頃の演出力はもう残ってはいませんでした。彼の旧式の演出で『サムライ』を撮るメリットが無かったとも考えられます。
 更にこの企画自体が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先行者とも言われていたジャン・ピエール・メルヴィル監督のものであったことなどの理由が推測できます。
霧の波止場【字幕版】





北ホテル/マンハッタンの哀愁
/ アイ・ヴィー・シー





天井桟敷の人々
/ ジェネオン エンタテインメント





 渡米以後、帰仏してからのアラン・ドロンのこういった諸作品やその製作過程を辿ると、彼はいよいよ新たな道を切り開き、しかもそれが、やっと波に乗ってきたような感があるわけです。

 しかし、彼は『サムライ』でマルセル・カルネ監督を断り、ジャン・ピエール・メルヴィル監督でその代表作品を撮り終えた後に実に不思議な出演作品を選びます。1967年、ルネ・クレール監督の後継、ジャック・フェデール監督やマルセル・カルネ監督と同様に戦前の「詩(心理)的レアリスム」の巨匠であったジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『悪魔のようなあなた』(1967年)です。

 何故、彼はマルセル・カルネ監督を蹴ったにも関わらず、そのすぐ後に、わざわざこのクラシックの老演出家の作品に回帰していったのでしょうか?

 アラン・ドロンは、この作品に出演しなくても、そのキャリアへの影響は全く無かったはずです。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督もマルセル・カルネ監督と同様、すでに過去の演出家でした。もちろん素晴らしい演出家ではあるでしょうが、全盛期に第一線で活躍していた頃とは違うのです。

 アラン・ドロンにとっては、ルネ・クレマン監督でさえも、『パリは燃えているか』を最後の出演作品にしてしまっており、ルイ・マル監督やジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出を受け、ロベール・アンリコ監督との『冒険者たち』を通じてジョゼ・ジョヴァンニのシナリオに巡り会っていたのですから、今更ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の演出を受ける必然があるとは思えないのです。

 不思議です。何故なのでしょう?

 アラン・ドロンにとっては、『地下室のメロディー』(1962年)で共演した大先輩であるジャン・ギャバンの存在は、俳優としても映画スターとしても、彼のモデルすなわち目指す姿であったとも言えましょう。彼は尊敬する俳優としてバート・ランカスターとともにジャン・ギャバンを挙げています。
 その代表作品をジュリアン・デュヴィヴィエ監督は7作品も撮っています。
 もしかしたら、アラン・ドロンにとっては、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督に敬意を示すことは、ジャン・ギャバンへのそれと同様のことだったのかもしれません。

 また、過去にジュリアン・デュヴィヴィエ監督の反「ヌーヴェルヴァーグ」の演出で『フランス式十戒「第6話汝、父母をうやまうべし、汝、偽証するなかれ」』(1962年)に主演しています。義理堅いアラン・ドロンのことです。自分を使ってくれた巨匠への恩義を忘れていなかったとも考えられます。

 もうひとつ推測できる重要なことは、『サムライ』で「フレンチ・フィルム・ノワール」に目覚めた彼が、すでに『シシリアン』(1969年)でのジャン・ギャバンとの再共演を視野に入れていたのではないかということです。過去、彼は『フランス式十戒』に出演した翌年に「詩(心理)的レアリスム」の巨匠マルセル・カルネ監督、戦後「詩(心理)的レアリズム」第二世代のジャン・ドラノワ監督やクロード・オータン・ララ監督の作品に多く出演していたジャン・ギャバンと『地下室のメロディー』で共演できた経験を持っており、ここでも同様のパターンを繰り返せると考えていたのかもしれません。

 そして、アラン・ドロンは以後の映画スターとしての全盛期をサスペンス作品や暗黒街を舞台にした作品などを中心にして主演していくのですが、その再出発点とも言える時期に、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の演出とジャン・ギャバンと再共演を果たしたことが予想以上の影響力をアラン・ドロンにもたらしたように、わたしには思えるのです。
ゴルゴダの丘
/ ビデオメーカー





我等の仲間
/ アイ・ヴィー・シー





望郷
/ ジェネオン エンタテインメント





殺意の瞬間
/ アイ・ヴィー・シー





 基本的にフランスの映画製作のほとんどはプロダクション方式で制作されており、映画の制作者自身が自分で金融機関やスポンサーを捜して資金調達の折衝を実施することが多いようです。映画制作に実際に携わっている監督や俳優が映画会社を設立して、作品をプロデュースすることは珍しい事ではなく、この『ボルサリーノ』も、その例に漏れずアラン・ドロンが『ジェフ』(1968年)に引き続き、自分のプロダクションで製作した作品です。

 アラン・ドロンにとっては、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『悪魔のようなあなた』の出演とジャン・ギャバンと再共演した『シシリアン』により、戦前からの伝統であった「詩(心理)的レアリスム」の作風を帰仏後に再度、直に肌で学んだ結果、「フレンチ・フィルム・ノワール」を自分のプロダクションで、その作風により製作しようと野心を持ったのではないかとも思います。

 「詩(心理)的レアリスム」が、1950年代後半から台頭してきた「ヌーヴェル・ヴァーグ」により、「フランス映画のある種の傾向」として、過去からの良質の伝統であるとシニカルに比喩され、徹底的に批判されていったことに対しての、アラン・ドロンによる反骨の作品が『ボルサリーノ』であったことは、この作品以前の彼を知ることからも推測できることのように思うのです。
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by Tom5k | 2006-08-22 13:10 | ボルサリーノ(2) | Trackback(2) | Comments(6)