『リスボン特急』②~芸術として難解な「フレンチ・フィルム・ノワール」~

 最近、フィルムアート社から発行されている古山敏幸氏の著作『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』を読んで強い刺激を受け、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品を再見してばかりいます。

映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル

古山敏幸 / フィルムアート社



 その著作の中で、最もわたしの関心を惹いた項目が、「第7章-アラン・ドロン三部作 『リスボン特急』」でした。
 『リスボン特急』には、以前から非常に大きな魅力を感じていました。
 これは、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の遺作でもあり、アラン・ドロンの主演作品としては、彼らの最後の作品です。この著作を読みながら、ファンにとって、こんな当たり前のことを、あらためて再認識することができて、ますます興味を惹かれるようになったのです。

 また、わたしにとっては、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』、ロベール・アンリコ監督の『冒険者たち』に続く、「女性一人と男性二人の主人公(アラン・ドロン・シリーズ)」第四作目としている作品なのです。しかも、シリーズ第一作がルネ・クレマン、第二作がルキノ・ヴィスコンティ、そして、この第四作目がジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品ですから、彼の映画俳優としての最大級の3人の師匠の作品ばかりであり、いわゆる彼の引退作品であるパトリス・ルコント監督の『ハーフ・ア・チャンス』で完結することになるものとして、アラン・ドロン主演作品史としての極めて重要な位置にある作品として解釈しています。
 また、「詩(心理)的レアリスム」の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の遺作『悪魔のようなあなた』と、初めてジャック・ドレー監督と巡り会った『太陽が知っている』、そして最愛のミレーユ・ダルクを主演にして撮った『愛人関係』を、このシリーズに入れるか否かは非常に悩むところではあります。

 それはさておき、この作品は、ほとんどの批評等で失敗作と評価されています。また、主役のエドワード・コールマン警部を演じたアラン・ドロンでさえ、後年、次のように述懐しています。

【>『サムライ』でメルヴィルは刑事モノと言うジャンルを浄化させたと思います。この作品は今活躍している多くの監督たちに影響を与えていますね、タランティーノやジョン・ウーとか。
>アラン・ドロン
>もう少し早くこうなってくれなかったのが残念だ!ウーはメルヴィルに影響を受けているのは間違いない。人はよく誰かにインスピレーションを受けているが、メルヴィルはそうではないことを忘れてしまっているね。彼は自分の世界、彼の映画の考え方、視点を確立していた。誰にでもお手本がいるんじゃないか。私の場合はジョン・ガーフィールドだ。(注:米国俳優1913-1952:代表作に『紳士協定』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』がある)不運にもメルヴィルは若くして亡くなった、まだ一緒に映画を撮るはずだったのに。『リスボン特急』は中途半端な失敗作になってしまったからね。メルヴィルはとても落胆していた。果てしない議論もしたが、監督は本当に頑固一徹でね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/1 「回想するアラン・ドロン:その5(インタヴュー和訳)」

 また、現在では、世界一といっても良いほどジャン・ピエール・メルヴィルの熱烈なファンであり、信奉者であるマサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」での『リスボン特急』のレビュー記事でも厳しい評価となっていますし、『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』でも、「贔屓目にみても傑作とは言い難い」旨の記載があります。
 ですから、これは一般論と言えるでしょう。

 しかしながら、作品が優れたものか否かは別として、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が、この作品を撮った直後に非常に興味深い発言をしています。

【少し前から・・・せいぜい数ヶ月位前からだったが、私は自分がついに芸術家になったことを感じている】

 彼は、何をもって芸術家の自覚に至ったのでしょうか?彼はこの発言の前段で、

【(-略)『リスボン特急』については、少し難解だというような批評もあった。だが、私は最近になって、映画というものは単なるスペクタクル芸術ではないということを発見したのだ。私は非常に長いこと映画はスペクタクルだと信じ込んでいたのだが、ここ数年の新しいアメリカ映画の諸作品を見て、自分が間違っていたことに気がついたのだ。(-中略-)映画は文学、音楽、絵画の三つを結合して、我々の文化に取って変わったのだ。映画は総合芸術だ。多数の芸術なのだ】
【引用 「キネマ旬報」1972年12月下旬号No.595】

とも発言しています。

 わたしは、これが文芸的題材で撮った初期の『海の沈黙』や『恐るべき子供たち』を完成させた時代の発言であれば、彼の映画作家としての自覚として、すんなりと納得はできるのですが、捜査プロットを全面に表出させた典型的な「フィルム・ノワール」作品として、スター俳優のアラン・ドロンとカトリーヌ・ドヌーブを主演させ、1940年代のハリウッドB級「フィルム・ノワール」に最も近づいたとも思える『リスボン特急』の完成時のものですので、たいへん不思議な印象を持ったのです。
 同じアラン・ドロンが主演している「フレンチ・フィルム・ノワール」ではあっても、『サムライ』や『仁義』の方が、その要素が内在している作品のように思います。

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 わたしは、『サムライ』で「サイレント映画」時代、『仁義』で1930年代の「ギャングスター映画」時代のアメリカ映画を再現したジャン・ピエール・メルヴィル監督は、この『リスボン特急』で1940年代の「フィルム・ノワール」を再現し、その実践を完成させたように感じています。
 更に、「『リスボン特急』については、少し難解だというような批評もあった。」という当時の批評も、この作品のテーマを解釈するうえで、やはり非常に不思議で興味深いものです。これは、映画芸術を脱皮してポリス・アクションの閾値に辿り着いた作品であるように感じる印象とは、あまりにも懸け離れている解釈のような気がするのです。
 どちらかと言えば、それは難解ではなく、分かり易い失敗作というのが現在での批評の一般論ではないでしょうか?

 しかし、それが、例え失敗した結果だったとしても、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の意図していた『リスボン特急』、そのエッセンスの理解に努めることは、あながち無駄なことではないと思っています。
 わたしは、彼が映画作家として『リスボン特急』を完成させた意味において、常に自分の過去の作品を超越しようと試みていた実践の帰結であったように思え、そのことを踏まえれば、そろそろ再評価の取組みが必要になってきている時期だとも考えます。

 そこで、わたしなりに、この作品のいくつかの印象深いショットを挙げてみると、

 まず、コールマン警部が殺害現場に向かう途中のパリの街のネオン・サイン、これは「フィルム・ノワール」の原点ともいえる夜の都会の描写であり、それは、クリスマスで賑わう表側の世界から見えない隠れた裏社会を想像させる魅惑的な犯罪都市の情景でした。

 そして、到着した事件の現場での殺害された売春婦の死体と、それを上から覗き込んで検死するコールマン警部のクロ-ズ・アップを交互にカット・バックするモンタージュ・ショット、ここは実に前衛的なフォトジェニーとして映像化されていました。

 また、法医学研究所の解剖室でのアンドレ・プッス演ずるシュミット(マルクの偽名)の検死体を視察するときのポール・クローシェ演ずるモランとコールマン警部の会話でのセリフ
「-人間が警官に対して感じざるを得ない感情が二つある。うさん臭さと嘲りだ。嘲り・・・」
の後、コールマン警部を演じたアラン・ドロンの精神不安定な外観の描写は、権力批判の客観描写にまで昇華させて、そのクローズ・アップを「シャドウ」で撮っています。
 ルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジョセフ・ロージーの演出であったなら、いや、過去のジャン・ピエール・メルヴィルであっても、間違いなくここで「鏡」に映ったアラン・ドロンを撮ったはずです。
 これは、俳優アラン・ドロンのアイデンティティの喪失を描写するには持って来いのショット、18番のカメラ・ワークであり、彼に対する最も効果的な基本描写ともいえます。
 『太陽がいっぱい』、『若者のすべて』、『フランス式十戒』、『パリの灯は遠く』・・・。
 しかし、ここでのジャン・ピエール・メルヴィル監督は、権力の権化である官憲の姿、その表情を「無」として表現したのです。
 わたしは、過去にアラン・ドロンを撮った巨匠たち、そして過去からの自らのカメラワークをも超越させた瞬間だったと考えています。

 警察の公用車の走行シーンも、クレーン撮影により高所から見下ろすショットが多くなっています。これは、権力機構の上部に位置しようとする警察権力を、作品を観る立場に立って、更に上部より見下しているとういう、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の映像作家としてのレトリックであるようにも感じます。

 コールマン警部がリチャード・クレンナ演ずるシモンの経営するバーから出たときの様子を「セット撮影」とし、そこからのパリの遠景や、強盗団の待ち合わせでのルーブル美術館内の様子を、わざわざ「背景画」としていることなどは、映画美術の新しい創造的営みを模索している印象を受けます。この書き割りはジャン・ピエール・メルヴィル監督自らの筆によるものなのかもしれません。

 そして、映画の冒頭、海辺の光景に面した海岸通りでのアパートメントの描写は、『太陽はひとりぼっち』でのあの人影の少ない閑散とした住宅街の描写ともイメージが重なり、眼鏡を掛けたアラン・ドロン演ずるホワイト・カラー、エドワード・コールマン警部が、警察庁舎内で、事件に関する書類を読んでいるときの姿は、まさに『太陽はひとりぼっち』の主人公、その後のピエロの姿のように見えるのです。わたしは、ピエロとコールマン警部の持つ虚無感に実に似通ったキャラクターの特徴を感じます。

 なお、古山敏幸氏は、著作『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』で、シモンとカトリーヌ・ドヌーブが演ずるカティの関係を『恐るべき子供たち』でのエリザベートとポールの焼き直しとしての近親相姦図として解説しており、それは非常に興味深い分析なのですが、わたしが関心を持ってしまったのは、ラスト・シークエンスのコールマン警部とカティの虚しい男女関係の崩壊の結論でした。わたしは彼女に、『太陽はひとりぼっち』でモニカ・ヴィッティが演じたヴィットリアを重ね、現代社会の「不毛の愛」を官憲とファム・ファタルの情愛として描写したのではないかと考えてしまうのです。

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 現代社会でのホワイト・カラーの憂鬱は、イタリアの「ネオ・リアリズモ」後期に活躍したミケランジェロ・アントニオーニ監督が表現し続けました。特にモニカ・ヴィッティという好逸材は、その「内的ネオ・リアリズモ」を鮮明にすることにおいて、素晴らしいモデルだったように思います。

 美しいブロンドの髪と妖しい魔性の美しさを持ち、妖婦としてのキャラクターを発露させた『昼顔』や『哀しみのトリスターナ』は、ルイス・ブニュエル監督に鍛え抜かれたカトリーヌ・ドヌーブの美貌の本質が表現されていました。この美貌の極致ともいえるカティによって実行される強盗団の仲間マルクの殺害は、その原型である『影の軍隊』でのシモーヌ・シニョレを完璧に超越しており、「フレンチ・フィルム・ノワール」においてのファム・ファタルとして、発展的に継承させたものだったようにも思われます。
 彼女は、性的な魅力で男を翻弄して破滅させる魔性の女としての存在感を最大限に発揮しているわけではなく、むしろ、それは、悲劇的プロットを担った役柄であるのですが、カトリーヌ・ドヌーブというスター女優そのものの存在感が妖婦のイメージを表出しているのです。

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 『太陽はひとりぼっち』でのヴィットリアは恋人に対して、常に「わからない」と、その憂鬱を会話にしていました。『カサブランカ』のイルザも、リックとヴィクター・ラズロの間で自己選択を放棄していました。しばしば、女性の主体性は、彼女たち本人にすら理解できていないのかもしれません。
 そういった意味では、『サムライ』でのヴァレリー、『望郷』でのギャビーにも共通の特徴が挙げられるような気がします。彼女たちは、存在していることのみで、結果的に男が破滅してしまう「死の女神」とも言えましょう。

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 これらの女性たちは、『マタ・ハリ』のグレタ・ガルボや『間諜X27』のマレーネ・ディートリッヒが演じた女性主人公が源流となっているようにも思いますが、この作品のカティも、女性特有の謎を持ち、すべての男を不幸にしてしまう結果を招きます。
 彼女は強盗団の首領シモンの情婦でありながら、権力機構の前線で活躍するその象徴的な位置に存在するコールマン警部からの情愛も一身に受けています。結果的に彼らの間で、あいまいな在り方のままに、人生における自己選択を放棄しており、最終的にはシモンを破滅させ、コールマン警部を孤独の奈落に転落させてしまうことから、ファム・ファタルとしての存在だと定義しても誤りではないでしょう。

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 また、コールマン警部にとっては、盗聴していたシモンからカティへの電話が、彼らからの疎外状況の現実を突きつけられた結果となり、それがシモンを抹殺する動機のひとつとなったようにも感じます。
 そして、アラン・ドロンにとってのその行為は、『太陽がいっぱい』でのフィリップとマルジュへのコンプレックスであり、『若者のすべて』での愛するナディアを巡る兄シモーネとの確執であり、『冒険者たち』でのローランを愛しているレティシアに対する報われない憧憬からの哀しみの再現でもあったのです。

 次に、シモンなのですが、彼は何故、自ら強盗団に身を落とし、自己抹殺を遂げなければならなかったのでしょうか?また、コールマン警部に対する彼の友情は、どのようなものだったのでしょう?

 この作品でのシモンは、その年齢を察すれば、戦中派のレジスタンス運動の若き闘志だったと推察できます。そして、現在の彼の生き方も、戦後のフランスのギャングの生態から考えて、稀有なケースでは無かったようにも思うのです。

【1923年パリで生まれる。
第二次世界大戦を契機に、レジスタンス運動の闘士になったが、戦後の平和に順応できずパリの暗黒街に身を投じ、35歳になるまでギャングとして生活を続けた。】
【引用「ル・ジタン~犯罪者たち~」《著者紹介》ジョゼ・ジョヴァンニ】

ル・ジタン―犯罪者たち (1976年)

ジョゼ・ジョヴァンニ / 勁文社



 セリ・ノワールの作家、後の「フレンチ・フィルム・ノワール」の映画作家であったジョゼ・ジョヴァンニは、日本でも人気があり充分に理解された映画監督・脚本家・原作者であり、彼を受け入れることができた日本人に『仁義』のジャンセンや『リスボン特急』のシモンを理解することは、それほど困難なことではないように思います。【注:死後、彼が実はゲシュタポ協力者であったことがわかり、私は少なからずショックを受けています。しかし、こういった逸話が一般にあったことは間違いありません。】

 また、シモンは恐らく、権力の論理に従ってしか生きることのできなくなったコールマン警部に対しては、強い同情心、哀れみのような感情を持っていたように思います。だから、彼が自分の情婦と恋愛関係にあることに気づいていても友人として兄のように温かく彼を受け入れていたのでしょう。

 この関係の設定は、『仁義』でのイブ・モンタン演じたジャンセンとブールヴィルの演じたマッティ警部との関係に更に焦点を絞っていったものだと思います。ジャン・ピエール・メルヴィル監督は映画作家として、彼らの関係を更に超越して描こうとしたのではないでしょうか?
 マッティ警部のような人情派の警察官を主役にした場合には、本質的な部分で警察権力機構の歪んだ矛盾を鮮明に表現するには不十分であり、ヒューマニスティックな情緒表現に終始したところで留まってしまうような気がします。

 また、治安や国益を守るためには、反社会的な行為は徹底的に悪として抹殺しなければならないのが、権力構造の論理なのですから、かつてのナチス・ドイツのゲシュタポのような冷徹な人材育成よって、戦後のフランス国家当局においてもコールマン警部のような警察官を育成してしまっていることを告発したスタイルに進化させているとも考えられます。

 そして、シモンのキャラクターは、強盗団の首領というキャラクターを通してアンチ・ヒーローのヒロイズムを描写したわけですから、彼がコールマン警部に逮捕されてしまうとすれば、その段階で彼が反権力としての存在を徹底することができなくなることを意味します。シモンが自己を抹殺せざるを得なかった必然は、ここにあるわけです。

 その結果、「フレンチ・フィルム・ノワール」の男の行動規範や行動論理は権力機構の歪曲によって、すべてを虚無に帰結させてしまうのです。これは、『サムライ』のジェフ・コステロの純粋なロマンティズムや『仁義』でのマッティ警部の孤独による哀愁を、イデオロギーのうえで、やはり超越させたものだったのでしょう。
 
 『仁義』でのマッティ警部とジャンセンの関係では、コールマン警部とシモンとの関係ほど、権力機構と反社会性のせめぎ合いが人間同士の信頼関係の崩壊と孤独を招いているところまでに昇華させて描写するには至っていなかったと思います。ここも、間違いなく『仁義』からの着実な進歩の実績と評価することが可能です。


 1930年代の「ギャングスター映画」から、1940年代のハリウッドのB級「フィルム・ノワール」への昇華、アラン・ドロンやカトリーヌ・ドヌーブを出演させた商業映画としての「スター・システム」の芸術的活用の実践など、ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、多くの贅沢な自らの願望を達成しながら、人物設定や舞台設定において、過去の作品を自ら超えようと努めていたように感じるのです。

 だからこそ彼は、
「少し前から・・・せいぜい数ヶ月位前からだったが、私は自分がついに芸術家になったことを感じている」
という自覚に至っているのでしょうし、アラン・ドロンから言わせれば
「・・・果てしない議論もしたが、監督は本当に頑固一徹でね。・・・」
などと述懐されてしまうのでしょう。

 いずれにしても、わたしのこの作品の解釈が正しくできているか否かは別として、『リスボン特急』のテーマ、芸術作品としての評価を正確に解釈しようと努めていくことは、今後の映画史での最も大きな課題でもあり、「フィルム・ノワール」の未来を切り開く端緒になることだと思っているのです。


 クライマックスを終えたラスト・シークエンス、新たな事件発生の現場に向かうパトカー内部での業務電話の着信音を無視するコールマン警部、それは現代社会に適応するため、非人間的で冷徹な生き方にならざるを得なかった彼が、ようやく人間的な孤独の感情を取り戻し始めた瞬間だったのかもしれません。

【ドロンは電話の受話器をはずしてデートに邪魔が入らないようにしており、受話器を戻したあとも、電話が鳴っても出ずにじっとしている。それは、仕事に忙殺されてきた男の初めての人間性の芽生えのようであるが、同時にそれまでもっていた唯一のコミュニケーション手段ももはや信じられなくなった、孤独の確認、と言っていいのかもかもしれない。・・・(「太陽はひとりぼっち」のラスト・シークエンスについて)】
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】
アントニオーニの誘惑―事物と女たち
石原 郁子 / / 筑摩書房





 やはり、ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、『リスボン特急』のラスト・シークエンスでのコールマン警部のクローズ・アップで、ミケランジョロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』の主人公、証券取引所のピエロと同系列に位置する現代人の再生に向けて、同様の目的で同様の表現をしたように、わたしには思えてしまうのです。
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by Tom5k | 2010-08-29 23:36 | リスボン特急(2) | Trackback(5) | Comments(8)

『リスボン特急』①~「フレンチ・フィルム・ノワール」の新しい在り方~

「映画というものは単なるスペクタクル芸術ではないということを発見したのだ。私は非常に長いこと映画はスペクタクルだと信じ込んでいたのだが、ここ数年の新しいアメリカ映画の諸作品を見て、自分が間違っていたことに気がついたのだ。(-中略-)映画は文学、音楽、絵画の三つを結合して、我々の文化に取って変わったのだ。映画は総合芸術だ。多数の芸術なのだ」
 ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、この作品の制作時にこう語ったそうです。

 わたしとしては、更に写真、演劇も結合要素であると考えていますが、いずれにしてもこの言葉からは、リュミュエール兄弟から始まってメリエス、エイゼンシュタインやシュトロハイム、グリフィス、チャップリンらの時代、映画初期からの映画理論と同様に、映画によって社会を激変させることが可能であることを想定している芸術家の志ともいえる熱いものが伝わってきます。
 また、一般的には絵画、彫刻、音楽、文学、建築、演劇につづく第七芸術といったのはイタリアの文芸評論家リッチオット・カニュードでした。

 わたしの『リスボン特急』の初めの印象は、いつもの地味なジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品にしては、ストーリーのプロットやアクション、キャスティング等、華やかで派手な作品となっているような気がしていました。しかし、その印象も彼が語っているように非常に斬新で個性的なものです。

 この作品のショット構成は独特です。ワン・シークエンスにおいてすら連続した展開のスピーディなモンタージュによる緊迫感が全編通しての特徴となっています。
 また、列車の疾走とヘリコプターのクライマックスともいえるシークエンスに、わざわざミニチュア模型を用いて撮影していることなどは、スペクタクル・シーンを、あえてフィルムの編集で表現しようとしたものであるような気がしてなりません。

 そして、アラン・ドロン演じるコールマン警部が、犯人のひとりであるルイ(マイケル・コンラッド)を背後から回りこんで取り押さえるときの場面が、わたしには、ストップ・モーションのアクション・シーンをインサートしているように感じられました。もし、それが本当にそうだとすると、実に独特の効果的な演出であり、極めて印象深いショットを狙ったものであったように思うのです。

【映像における効果としてのスローモーションは言うまでもなく、現実よりも遅い速度で再生することであり、通常は映画では1秒間に24コマだということですが、現在の技術では、これを「高速度撮影」により行うことが一般的で、24コマより多いコマ数により撮影し、画面のブレを防いでいるそうです。
 また、ストップ・モーションとは、アニメーション技法のことで、人形や写真などの静止画像を、少しずつ動かしたり連続させて、コマ送りによる一連の動きを創っていく映像技術の方法です。
 当初、わたしは「高速度撮影」ではなく、通常の速度で撮影したものをゆっくり再生したスローモーション映像であるように思ったのですが、メルヴィル監督は、ストップ・モーションを『サムライ』で使用したと語っていることから、この犯人逮捕の場面でも同様な意味で使用したのではないかと推測してしまいました。
 いずれにしても、意図的な視覚効果を狙ったワン・ショットの映像には、それがコンマ数秒の短いカットであっても観る者に強烈な印象を持たせる効果を持っています。】

 そして、わたしには、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が自らの作品である『いぬ』、『ギャング』、『サムライ』、『仁義』などとも異なったヨーロッパのアクション映画の新しい在り方を模索しているようにも見えるのです。
いぬ
/ アイ・ヴィー・シー





 キャスティングにおいても、スペクタクル映画の本国ハリウッドの名脇役のリチャード・クレンナを起用していること、フランスの大スターであるアラン・ドロンやカトリーヌ・ドヌーブの起用など、ハリウッドに対する前向きな挑戦をしようとしていたようにも感じます。

 それらは、脚本においても顕著です。
 リスボン往き特急列車の走行中に、ヘリコプターからワイヤロープを使って列車にしのびこみ、麻薬を盗み出すリチャード・クレンナ演ずるシモンの行動には、セリフがほとんど使われずに延々と寡黙なシーンが続きます。他の乗客と鉢合わせになり、煙草を吸ってごまかす場面や、特急列車の速度がヘリコプターの追跡可能である区間終了までの、時間経過との闘いなど、今では珍しい場面ではありませんが、やはりシモンに感情移入してしまいます。
 逆に、靴ひもを解いて靴を脱ぐシーンや、部屋に忍び込むときのメジャースケールと磁石を使って鍵穴を探すショットの描写は実に仔細でしつこいくらいです。これらのカットはメルヴィル演出の独特の特徴かもしれません。しかし観る側は、この描写があることによって、犯罪者シモンとそこに居合わせて実際に時間を共有しているような錯覚にとらわれます。
 この必要以上の丁寧な描写と、ヘリコプターと列車のシーンにあえてミニュチュア模型を使用したこととは、メルヴィル監督の主張の表と裏の表れなのでしょう。

 また、登場人物と作品のテーマとの関連においても、シモンの登場場面に多く映し出される凱旋門が印象的ですし、ルーブル美術館でのシモンのクローズ・アップとゴッホの自画像の連続ショットも同様です。

 逆に、コールマン警部の登場するカット前に常に挿入される警察庁舎の建物を、歪んで見えるように映し出している意図的なカメラワークは分かり易い比喩です。
【参考 キネマ旬報1972年12月下旬号No.595(「「リスボン特急」の映画的な魅力 メルビル映像の秘密 ドロンの刑事の位置は」白井佳夫)】

 こういった何気ないワン・ショットも作品テーマを伝達する方法として使われている場合には、非常に重要な意味を持つものなのではないでしょうか。
凱旋門
E.M. レマルク Erich Maria Remarque 山西 英一 / ブッキング





炎の人ゴッホ
/ ワーナー・ホーム・ビデオ





 これらの映像展開の時系列等のモンタージュは、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の編集技術で独自の緊迫感を創り出しており、はっきりした映像におけるテーマを表現しています。カメラワークやシナリオ、キャスティング、音楽を含めて、彼の種々の様々な新たな意気込みを感じ、わたしは、サイレント時代の映画を新しい様式で発展させた、アクション映画とは別のジャンルの作品であるとまで感じてしまうのです。

 それらのこととは逆に、カトリーヌ・ドヌーブ演ずる主人公の女性カティの描き方においても、「フィルム・ノワール」の古典技法の原則に非常に近いキャラクターを用いているような気がしています。もちろん、「フィルム・ノワール」というジャンルそのものが男性を描くことを主にしており、「フレンチ・フィルム・ノワール」、特にアラン・ドロンのそれにおいては、女性を完全に拒否しているほどの過剰な男性中心の作風が一般的です。

 この作品もその例に漏れているわけではありませんが、フランソワ・トリュフォーやジャン・リュック・ゴダール等のカイエ派が絶賛していた1940年代のハリウッドB級「フィルム・ノワール」に登場するファム・ファタル(暗黒街の女)の位置づけの特徴から、カティは基本原則に近い設定で意識的に登場させた人物と思えます。

【ハリウッド作品のフィルム・ノワールには、女性の特定な位置づけと、いくらかあいまいなイデオロギー的効果をつくりだす、次のような五つの構造的な特徴が見られる。それらは、
 1 物語が捜査という構成をもっているということ
 2 フラッシュ・バックやヴォイス・オーバーを多用するプロット構成であること
 3 多くの視点をもつこと
 4 ヒロインの性格描写がしばしばあいまいであること
 5 表現主義的な映像による女性のセクシュアリティの強調
(引用~『フィルム・ノワールの女たち~性的支配をめぐる争闘』E・アン・カプラン著、水田宗子訳、田畑書店、1988年(フェミニスト批評の方法ー意味の創造より))】

フィルム・ノワールの女たち―性的支配をめぐる争闘

田畑書店



 コールマン警部と強盗団の首領シモンの妻カティの恋愛は、彼らが初めて知り合ったときから、すでにシモンに気づかれています。このことは、その逢い引きのシークエンスでのフラッシュ・バックのプロットとして、ふたりのセリフに集約されています。

 あえてカティをファム・ファタルとして解釈したならば、
 彼女は、強盗団である金持ちの男を夫とし、集団強盗の論理によって殺人も厭わない、彼の旧友と不倫関係であり夫を裏切っていること、しかも彼が警察官であること、恐らく夫が最後には警察に捕えられること、もしかしたら彼の死までをも想定しているかもしれない・・・旧友との関係も最後には清算せざるをえない・・・ことなど。
 結果的に彼女は、すべてを破滅させてしまいます。

 人物描写のあいまいさ、すなわち古典原則「謎の女」を演じさせたというよりも、「女の謎」というものが描かれているといえそうです。

 カトリーヌ・ドヌーブが大衆に人気のあること、つまりスター女優としてのキャラクターを利用して、女性のあいまいさを表現したのででしょう。彼女の存在によって、コールマン警部が権力の論理構造に従ったがために全てを喪失してしまったことが暴き出されているように思うわけです。

 最後に夫からの電話に対して無言で対応したカティ、そして、ラストシーンでコールマン警部に夫のシモンを無惨にも殺されてしまった彼女は、死んだシモンも含めて、彼らとの関係をもう修復できる状況にはないのです。
 二人の男を惹きつけ続けた魅力的でセクシュアルなキャラクターでありながら、主人公の男達の持つハードでシニックなヒロイズムをも共有している印象を観る側に残させ、危険に満ちた強いセクシュアリティを持つファム・ファタルの古典的な基本を踏まえ、それを現代に発展させた悲劇的な女性の描き方であったようにも思います。

 また、カトリーヌ・ドヌーブの衣裳ブランドはこの作品でさえも、いつものとおりイブ・サンローランでした。この作品の最高の贅沢は、カトリーヌ・ドヌーブの起用だったかもしれません。
イブ・サンローラン―喝采と孤独の間で
アリス ローソーン Alice Rawsthorn 深井 晃子 / 日之出出版






 警察官の日常が、冒頭でのセリフとヴォイス・オーバーとで説明されます。
「毎日同じ時刻にシャンゼリゼへ巡回に出る」
「こちら8号車」
「私だ どこだ 今から直行する」
とパトカー内での電話連絡のセリフの後に、

「まだ街は夕暮れ時だが本当の仕事の始まりは街が寝静まってからだ。
 コールマン警部」

 ストーリーのプロットにおけるヴォイス・オーバーを使用する代わりに、メルヴィル監督は、いつものように作品の主張をはっきり分かり易く表現しています。
冒頭での
「警官に存在しない感情がふたつある。あいまいさと侮蔑である。」
のテロップとコールマン警部のセリフは、それを明確にしたものです。

 さて、この作品でもジャン・ルノワールの門下であるメルヴィル監督らしく、すべての登場人物を肯定的に描いています。ルノワール作品『ゲームの規則』での「映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい」というセリフを思い出します。
 同じ門下生ともいえるルキノ・ヴィスコンティ監督は自らの貴族の立場、下層の労働者や農民、資本家などの各階級の立場を描き続けました。メルヴィル監督は、決して正業に着くことが出来ない犯罪のプロたちの生態や、暗黒街で犯罪者を摘発しながらも、やはりそこでしか生きることのできない公権力の末端に位置する警察官らを描き続けました。

 アラン・ドロンは、この作品で初めての刑事役を演じました。そして、彼が扮したそのエドワード・コールマン警部という人物は、警察が民衆に嫌われており、侮蔑されている存在であり、またその理由も、その典型が自らであることも自身が一番よくわかっているのです。

 ただ、旧友シモンと彼が経営しているナイトクラブだけは、そこで働くダンサーたちも含めて彼の孤独に安らぎを与えてくれる唯一の場所でした。そして、シモンの妻カティは彼の愛人でもあったのです。

 しかし、コールマン警部が、自分の犬(情報屋)として使っている男娼との信頼関係を断ち切るあたりから、彼の孤独が浮き彫りになってきます。
【映画を見ないとわからないのだけれけど、ジャン・ドザイ扮する実業家の家へ忍び込んで、ブロンズ像を盗もうとして捕らえられる少年と、ドロン扮する警部が手先に使っている美人(?)の密告者は同一人物だから念のため。・・・】
【引用~キネマ旬報1972年12月下旬号No.595「外国映画紹介 新作情報 「リスボン特急」あれこれ」渡辺祥子】
(注~同一人物としての設定ながら、演じている俳優はそれぞれ別人だそうです。男娼を演じているのは、ヴァレリー・ウィルソンという女優だそうです。)

 ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、自らのレジスタンスの経験から仲間の友情と裏切りを何度も経験したと聞きます。そして、それは巨大な権力機構に対する人間の弱さをあらわすものなのかもしれません。しかし、人間としての最も強い孤独は、友情や人間とのコミュニケーションと断絶した権力機構そのものの中で生活していくことなのでしょう。

 自らの手で気の置けない大切な友人を射殺してしまい、愛する女性、そして厳しい仕事の合間に一息つける安らぎの場所を、権力構造の論理に従ったために全て失ってしまったコールマン警部・・・。

 それは『山猫』で演じたタンクレディや『太陽はひとりぼっち』で演じたピエロの後日譚でもあるようで、後年に『カサノヴァ最後の恋』で演じたカサノヴァの孤独とも似通っているような気がします。
 旧友シモンを自ら撃ち、愛人のカティも目を伏せ、コールマンの無表情も苦渋に満ちている、このような単発の短いショットの連続により、甘い感傷を払拭したクールでシャープなラスト・シーンを成立させており、各登場人物の全ての心情が一瞬のうちに伝えられています。

「こちら8号車」
「ただちに現場に直行する」

 コールマン警部とポール・クローシェ演ずるモラン刑事のコンビネーションも空しく、現場の向かうパトカー内部では、ふたりとも電話の着信音を無視します。

 そして、彼の背後には、歪んだ警察庁舎の建物ではなく、シモンが登場していたときのように美しい凱旋門が遠景に映し出され、窓の外に遠退いて行くのです。

 皆 間違ったほうの岸にいるのさ
 岸を洗う情熱の災いの流れ
 流れのまにまに漂う夢の末よ
 さらば かつてわれわれであったもの
 生きる者は生きて行くのだ
 運命にもてあそばれて
 訪れて来たこのこと あのこと
 そして ああ 今は心に悔いるときよ ああ
(作詞 シャルル・アズナブール、歌 イザベル・オーブレ、訳詞 三木宮彦)

「悲しいことだが、アランとの仕事もこれっきりだよ。(-中略-)私はもう彼のジャンルの人物のすべてをくみ取り尽くしてしまったのだ」

 こう語ったジャン・ピエール・メルヴィル監督は、アラン・ドロンとの映画創作の最後の作品が、彼の人生の終焉と同じ意味を持つ結果となることも予想していたのかもしれません。そして、このことが、その後のフランス映画界においての最も大きな損失でもあったのです。
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by Tom5k | 2006-05-14 20:27 | リスボン特急(2) | Trackback(5) | Comments(17)