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『カサノヴァ最後の恋』~恋ひとすじに、過去への郷愁~

 アラン・ドロン製作総指揮の『カサノヴァ最後の恋』は、ロミー・シュナイダーとアラン・ドロンが共演した1958年の『恋ひとすじに』と同じく、アルトゥール・シュニッツラーを原作としたものであり、登場人物の構成に多くの類似点があります。
 クリスティーヌとフリッツは、マルコリーナ(エルザ)とロレンツィ(ヴァデック・スタンザック)であり、エッガースドルフ男爵は、老貴族セルシ侯爵(アラン・キュニー)。エッガースドルフ男爵夫人であるレナ夫人は、セルシ侯爵夫人であるデルフィヌ夫人にあたるような気がします。
 2作品の人物を較べてみると、クリスティーヌはイノセントな封建の女性であり、マルコリーナはルソーやヴォルテールを愛読し、毎日を学術・研究に費やす自立したインテリ女性を志向する近代女性であること。ロレンツィもフランツと異なり、マルコリーナを愛してはいても、結婚する決断までは出来ておらず、実力以上のプライドや思い上がった上昇志向と野心を持つ生意気盛りの若者であることなど、『恋ひとすじ』での美しい精神世界を持った主人公たちとは随分と異なる部分も多くあります。
 ところが、映画という虚構の世界を離れたとき、女優であったロミー・シュナイダーは、アラン・ドロン夫人に納まっていられるような封建の女性ではなく、あらゆるものを犠牲にしても女優として生き抜こうとした自立を目指した女性であり、アラン・ドロンはというと、俗物で野心とナルシズムの固まりのような若者だったといわれています。後で考えれば、本当にロミー・シュナイダーと結婚する気があったのかどうか疑わしい面も無きにしもあらずかもしれません?
【アランと一緒に生きたかったのです。それならどこかの田舎の家でもかまわなかった。どんな寒村でもよかった。でも同時にわたしは映画に出たかった。自分の職業を愛していましたから。わたしはこの板ばさみの状態からどうしても抜け出ることができなかったのです。】
(『ロミー・シュナイダー事件』ミヒャエル・ユルクス著、平野卿子、集英社、1996年より)
【彼はひどい俗物でした。有名になってお金を稼ぐことしか頭になかったのです。いつか家中にルノワールの絵を飾るんだ、というのが口癖でした。】
(『ロミー・シュナイダー 恋ひとすじに』レナーテ・ザイデル編、瀬川祐司訳、平凡社、1991年より)

 そういう意味では、カサノヴァに対するマルコリーナの冷たい知的なキャラクターと、ロレンツィの上昇志向の強い生意気なキャラクターは、『恋ひとすじに』のクリスティーヌとフリッツとは異なっていても、実生活でのロミーとアランには近かったといえましょう。

 ロミー・シュナイダーとアラン・ドロンが共演し、ふたりの激しいロマンスが燃えさかった『恋ひとすじに』から何年を経たでしょう。1992年の『カサノヴァ最後の恋』まで、すでに34年も経っています。当時はまだ22歳の青年だったアラン・ドロンも、現在は57歳の初老の男性となってしまいました。作品中でもロレンツィやマルコリーナに侮蔑的に老人扱いされる場面が何度もあります。
 当然のことながら、アラン・ドロンはロレンツィを演じる年齢ではありません。

 そう考えて、この『カサノヴァ最後の恋』を観たとき、わたしは非常に面白い観賞ができたのです。いつもアラン・ドロンは自分の外に自らの分身を求めます。この作品も例外ではなかったのでは?と考えました。つまり、今回は過去の自分とその恋人にその対象を拡げたのではないかということです。
 この作品では、ロレンツィの意地の悪い態度とマルコリーナの冷たい拒絶がカサノヴァに襲いかかります。彼らと必死に闘うカサノヴァの姿は、自分たちの若い頃と闘う現在のアラン・ドロンの姿のようにわたしには感じられたのです。若い自分たちの分身に屈辱的な仕打ちを受け、最後に自らそれらを粉々に打ち砕くカサノヴァ。

 フランス文学が専門の映画批評家でもある松浦寿輝氏は、前作『ヌーヴェルヴァーグ』で、ジャン・リュック・ゴダール監督がアラン・ドロンを商品化せずに彼のスター意識をはぎ取ってしまっていることに注目しています。
【ここでのアラン・ドロンは、ドロンをドロンたらしめてきたあらゆる衣裳を剥ぎ取られてただよるべなくそこにいる。~(中略)~ドロンはここで自身の肉体を商品化していない、ただ、自分がアラン・ドロンであることをすがすがしく忘れてしまっているのである。】(引用~『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン1 30年前から、ゴダール!』フィルム・アート社、1991年)
 前作『ヌーヴェルヴァーグ』でのゴダールの演出で、自身を丸裸にされたアラン・ドロンにはもう恐いものなどなかったのでしょう。映画作品を創るうえで、自分を繕うための体裁も必要ではなくなっていたのだと思います。彼は現在の裸の自分で、過去の裸の自分たちと、正面きっての思い切った闘いに挑んだのだと思います。

 カサノヴァがロレンツィを剣で倒したときの彼への接吻は、自身の過去への愛おしさ、マルコリーナに対する恋は、今はもういないクリスティーヌを演じたロミー・シュナイダーへのセクシュアルなこだわり。甘い初恋の想い出は、実にリアルな自己への投影であったように感じます。

 最後にふたりを追い込んでいくカサノヴァは、『太陽がいっぱい』でフィリップを刺殺するときや『悪魔のようなあなた』でクリスティーヌと手を組み、居直って警察を欺くピエールのように、ルネ・クレマン監督やジュリアン・デュヴィヴィエ監督のアラン・ドロンが全開でした。
 カサノヴァは自らの過去であるロレンツィと剣を交えながら語ります。
「この20年間に出会った男の中で最高だ。剣を交えたくなかった。最後に教えておきたい事がある。たとえば甘美と残酷だ。絶望と生きる力だ。」
 これは、アラン・ドロンの自らの過去、すなわちロミーとアランのカップルに対する現在から過去への語りかけなのです。

 そして、ルイ・マル監督の演出で演じた『世にも怪奇な物語、第2話 影を殺した男(ウィリアム・ウィルソン)』のラストシーンと同様に自らを抹殺するのです。自らの死、生きながらの死、それはもはや自らの生きる術、すなわち良心を抹殺しての生でしかなかったのです。
 マルコリーナとロレンツィを破滅させた後、ヴェネツィアへの帰還の意味するところは、自分の良心を売り渡してしまった裏切り者として生きる覚悟です。そして、それを選び、受け入れてしまったカサノヴァは、誰の責任でもない自らの意志でイバラの道を歩む決心をしたのです。カサノヴァは裏切り行為においてすら『自由』を貫いたのだといえます。彼こそは、真の『自由人』といえましょう。
【わたしは狂おしいほど女を愛してきたが、つねに女たちより自由を愛してきた。】(『カサノヴァ回想録』ジャコモ・ジロラモ・カザノバ・デ・ザイン著、ジル・ペロ-編、大久保昭男訳、社会思想社(現代教養文庫)、1986年)

カサノヴァ回想録
ジル ペロー 大久保 昭男 / 社会思想社





 アラン・ドロン自身においても、ロミー・シュナイダーを捨ててハリウッドに渡り、成功出来なかった過去への投影もあったのでしょう。
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 ラストシーンのヴェネツィアの古い街並みの景観と恋人たちを映し出す見事なカメラワークとナレーション、フェード・アウトのテーマ音楽の哀愁、オーバーラップされるアラン・ドロンの無表情の演技は、カサノヴァの複雑な心象をすべて巧みに表現しています。そして、これからの残った人生に全ての過去を背負い続ける覚悟のアラン・ドロンに、老いというものの真の美しさと孤独な自由を見い出すことができるのです。
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by Tom5k | 2006-04-22 15:35 | カサノヴァ最後の恋 | Comments(12)