>アラン・ドロン
傷はなかなか癒えないんだね。笑わそうとしてみたり無駄なこともした、それがトレードマークになってるな。
『もういちど愛して』は以外、あなたはコメディに出演したことはありませんね。
>アラン・ドロン
『もういちど愛して』以外はやったことがない、あの作品は悪くなかったんじゃないか?(コメディは)私には似合わない、感じないんだ。状況がおかしいという以外はね・・・うまく出来たためしがない、自分には無理なんだろう。笑わすと言うのは難しいよ、一番難しいことだ。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18 「回想するアラン・ドロン:その6(インタヴュー和訳)」】
アラン・ドロンは、悲しい役が似合います。
ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』や、ハリウッド時代の「フィルム・ノワール」作品『泥棒を消せ』、そして、帰仏後の青春映画『冒険者たち』、人気全盛期の「フィルム・ノワール」作品『スコルピオ』や『ビッグ・ガン』、ジョゼ・ジョヴァンニ監督の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品群等々・・・。
このように、スターとして生涯に渉って発露されていったアラン・ドロンの悲劇的アクターとしての素養は、どの作品に端を発しているでしょうか?
『恋ひとすじに』は、アラン・ドロンが大恋愛のすえ、婚約までしたロミー・シュナイダーと初めて出会った作品ですが、彼の主演第二作目の西ドイツ=フランスの合作映画であるこの悲恋物語で、すでにそれは証されています。
その直近前作である初めての主演作品『お嬢さん、お手やわらかに!』(1958年)が、たいへん明るい青春コメディであることとは対照的であり、すでにアラン・ドロンの明暗両極端のキャラクターが、デビュー間もないこの段階の両作品に、はっきりと現れていることは非常に興味深いところです。
「自由とは何かわかっていない」
アラン・ドロンが扮する青年少尉フランツ・ロープハイマーは、ロミー・シュナイダーが演ずる貧乏な音楽家の娘クリスティーヌ・ヴァイリングに恋愛感情を抱いており、そのことに対するジャン・クロード・ブリアリが演ずる友人テオの忠告です。
しかし、フランツはそれを強く遮って言い切ります。
「彼女が大事なんだ 日曜日のデートだけでは物足りない 君の考えは分かっている 家族から反対され 友達には笑われる でも僕にはクリスティーヌしかいない」
アラン・ドロンらしい一途な面が、珍しく強くストレートに表現されているシーンでした。
しかし、フランツには以前から不倫の相手であったミシュリーヌ・プレール演ずるレナ夫人がいました。あるとき、そのことが露見して彼女の夫であるエッガースドルフ男爵がフランツの自宅に訪れ、夫人との関係の責任を問いつめることになってしまいます。
このときのアラン・ドロンの演技は、全盛期の悲劇のヒーロー像の土台となるメソッドとも思えるものでした。男爵に決闘を申し込まれて、死を決したフランツの精悍で悲壮な表情は、それ以前の彼の表情とは全く異なります。
それは、彼の代表作の一本となる2年後のルキノ・ヴィスコンティ監督『若者のすべて』で、兄シモーネの残した多額の借金の支払いを許諾し、最も忌み嫌っていたボクサーとなる決心をしたときのロッコ・パロンディの表情なのです。死と絶望を美学とするアラン・ドロンの悲劇性は、ここに端を発しているように思います。
親友テオにすべてを打ち明け、証人になってくれるよう依頼し、心配をかけないようクリスティーヌには実情を話さずに・・・。
最愛の彼女と踊るワルツ。
「君を愛してる 愛し続けるって 誓って言える」
それにしても、このショットから、エッガースドルフ男爵の射撃練習にカット・バックさせるとは・・・何て残酷なモンタージュなのでしょうか。
エッガースドルフ男爵との決して勝つことの出来ない決闘を受けることになったフランツが、初めてクリスティーヌの家を訪れたときの彼の悲しみに満ちた演技ほど、観ている側が悲しくなるものはありません。
アラン・ドロンは、どうしてこんなに悲しい表現ができるのでしょうか?
きっと、彼は若くして既に、淋しくて悲しいことを普通の若者よりもたくさん知っていたに違いありません。
クリスティーヌの留守宅を訪れ、義父となるはずの楽団員のチェリストである彼女の父に迎えられ、彼のチェロが奏でる『アヴェ・マリア(Ave Maria)』にじっと聴き入るフランツの様子から、この貧困層の家庭に対する敬愛の気持ちが伝わってきます。
そして、そのチェロの演奏に、クリスティーヌのミディアムのクローズ・アップ、彼女が歌うシークエンスにクロス・カットするのです。
まだフランツの悲壮な決意を全く知らないはずの彼女が、歌手になるための選考検査で選んだ曲はフランツ・シューベルトの『アヴェ・マリア(Ave Maria)』でした。歌う哀しみと愁いに満ちた表情の美しさ・・・。
原曲は、イギリス詩人のウォルター・スコットの叙事詩『湖上の美人』で処女エレンが父の罪が許されるよう聖母マリアに祈る詩にシューベルトが曲を作ったものです。わたしには、クリスティーヌの歌う様子が、このエレンと同様に、フランツの罪の許しを切実に願っているように見えました。それほどまでに、二人の結びつきは強く、掛け替えのないものになっていたのです。
きよしこの夜バトル(キャスリーン) ハーレム少年合唱団 ニューヨーク・コーラス・アーティスツ 聖ルカ・オーケストラ スラトキン(レナード) プレトリウス シューベルト / 東芝EMI
※ 母マグダ・シュナイデルのクリスティーヌが選んだ歌曲は、ヨハネス・ブラームスのドイツ民謡『Schwesterlein』でした。
【旧作『恋愛三昧』(1933年)でのフランツの訪問とクリスティーヌのオペラ歌手選考のシークエンス】 ※
後方でチェロを奏でる父親と前方のフランツの横顔のクローズ・アップ、両者を鮮明にするスプリット・フォーカスにクロス・カットします。
「音楽はお好きで?」
「ええ 今日は特に 音楽は不可能な事を 思い起こさせる」
「君の若さで何を言う?」
心配で不安そうなクリスティーヌの父・・・もうこの段階でフランツは死を選択するしかなかったわけですから・・・。
帰宅したクリスティーヌはオペラ歌手としてデビューできることになったこと、帰ってきたときに恋人が待っていたことで大喜びです。彼女のはしゃぐ様子が、逆に悲しさを強いものにしてしまいます。
ここからの二人の会話のやり取りは、あまりにも悲しい・・・彼女の3週間後の舞台デビューの日程をメモに書けないフランツ・・・。
「有名になった私を自慢して 嬉しいって正直に言って」
「嬉しいよ 君の家にこうして居れる事が」
家の中を見回すフランツの悲しそうな表情・・・。
「ここに来たのは初めてだが そんな気がしない」
クリスティーヌの部屋では
「こんな部屋を想像していた ここで君と暮らしたい」
ピンクの壁紙の可愛い部屋、シラー、シェークスピアの著作に、フランツ・シューベルトの肖像画・・・。
そして、二人の思い出の写真が写真立てに飾られ、デートのときに積んだ花を活けた花瓶・・・。
「次の日曜にまた摘みましょう。」
悲しいことに、フランツには次の日曜日はないのです。
彼の様子から、何か不安を察したのでしょう。クリスティーヌは何とか彼との愛情を確認しようとするのです。
「あなたほど愛した人はいない これからもずっと 会えないなんて嫌よ フランツ答えてったら」
フランツとエッガースドルフ男爵との決闘の日、テオとミッツィが駆けつけたときの1度目の銃声は男爵のものでした。彼らミドル・ショットからクローズ・アップ、不安そうに見つめ合うテオとミッツィ・・・2発目の銃声は響かない。
思わず走り出すテオの後ろ姿のショットに、ルードウィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『シンフォニー第5番「運命」』第1楽章が流れるのです。
このドラマティックな演奏効果は、小劇場でのクリスティーヌの父親の楽団の演奏場面にカット・バックしてからも続きます。彼は二人の親友からフランツの訃報を受け、クリスティーヌのいる自宅に向かうのですが、これらのシークエンスは、父親の「クリスティーヌ」の一言のセリフだけなのです。フランツの死からクリスティーヌへの訃報の知らせまでのこのサイレント映像の表現技法は素晴らしく、わたしなどは、これぞ映画芸術である!と思ってしまうのです。
※ 【旧作『恋愛三昧』(1933年)のラスト・シークエンス】 ※
※ ロミーの母親は旧西ドイツの女優マグダ・シュナイデルで、マックス・オフェルス監督の『恋愛三昧』でロミーと同じクリスティーヌ・ヴァイリングを演じた女優です。この旧作は「ヌーヴェル・ヴァーグ」のカイエ派が絶賛し、特にフランソワ・トリュフォーはマックス・オフェルス監督を最も敬愛している演出家のひとりとして挙げています。 ※
ベートーヴェン:交響曲第1番&第5番フルトヴェングラー(ウィルヘルム) ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ベートーヴェン / 東芝EMI
ベートーヴェン : 交響曲第5番 「運命」・第6番 「田園」・第7番・第8番NBC交響楽団 ベートーヴェン トスカニーニ(アルトゥーロ) / BMGファンハウス
そして、わたしはこの作品から、後に主演のロミー・シュナイダーとアラン・ドロンの師となったルキノ・ヴィスコンティ監督の作品である『夏の嵐』(1954年)を想起してしまいました。
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ルキノ・ヴィスコンティ監督本人も言っているように、『夏の嵐』は、
「ロマンティックなリアリズムに新しい道を開こうとした作品」
であり、それは若き青年将校と夫のある年上の伯爵夫人との残酷な悲恋のメロドラマともなっています。
「わたしがメロドラマを好きなのは、それが人生と演劇との境界線上に位置するからだ。(-中略-)演劇やオペラ、それにバロックの世界。こういったものが、私をメロドラマに結びつける原因である。」
【『ヴィスコンティ集成 退廃の美しさに彩られた孤独の肖像「イメージ・ヴィスコンティ オペラ(海野 弘)」 P88)』 1981年 フィルム・アート社刊】
ヴィスコンティ集成―退廃の美しさに彩られた孤独の肖像 (1981年) (本の映画館/ブック・シネマテーク〈4〉)
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「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーは、メロドラマそれ自体を否定はしていませんが、旧時代のフランス映画「詩(心理)的レアリスム」に限ってのメロドラマ性を「知的で意味ありげな衣をまとって大衆をだました」と批判しています。
ところが、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の『夏の嵐』は、「詩(心理)的レアリスム」作品と同様のメロドラマであるにも関わらず、そのような意味での矛盾を一切感じさせることのない作品となっています。彼の作風は、フランソワ・トリュフォーが批判していったステレオ・タイプのメロドラマ性を超越し、背景の社会情勢から主人公達の恋愛を描く究極のリアリズム、そして、演劇やオペラなど音楽劇の要素を映画様式として確立させていったものでした。
このような矛盾を超越しているルキノ・ヴィスコンティ監督の作品には、彼が若い頃に助監督を務め、師でもあったジャン・ルノワール監督の言葉が生きているのではないでしょうか?
【映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい。(ジャン・ルノワール)】
『夏の嵐』は、冒頭でのベネツィア最大のラ・フェニーチェ劇場でのジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『イル・トロヴァトーレ』で始められ、劇中でもアントン・ブルックナーの『シンフォニー第7番』がバック・グラウンドで効果的に使用されており、メロドラマが音楽劇として様式化される試みが大胆に成されています。
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ブルックナー:交響曲第7番
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もちろん、『夏の嵐(官能)』の原作はイタリアの作家カミッロ・ボイトで、『恋ひとすじに(恋愛三昧)』のウィーン出身のアルトゥール・シュニッツラーとは無縁ですし、ロミー・シュナイダーが演じたような可憐で美しい娘との恋愛は描かれてはいません。
しかしながら、19世紀のオーストリアとイタリアの戦乱の時代に、クラシック音楽や劇場での上演シーン、舞踏会での優美なダンスなどを存分に物語に取り入れて、軍服を着たオーストリアの青年将校(偶然にもファーリー・グレンジャーが演ずる主人公もフランツです)と優美な公爵夫人(アリダ・バッリ扮するのはレナではなくリヴィアでした)を主人公にし、年齢差や階級の違う決して成就しない不倫の恋愛などを描いた音楽劇という点でも、この『恋ひとすじに』と『夏の嵐』の類似点は多くあります。
無論、『恋ひとすじに』が、世紀の巨匠ルキノ・ヴィスコンティが演出する細部に渉るリアリティや本質的な美的エレガンスに至ることは到底無理であったにせよ、「イメージ・ヴィスコンティ」ともいえる古典芸術の音楽劇の方向性には体系付けることのできる作品ではあったと思うのです。
そういった意味でも、ロミーとアランが後にルキノ・ヴィスコンティに寵愛されていくことの必然が、この『恋ひとすじに』への出演を契機としたものだったようにも思われ、わたしは深い感慨に浸ってしまうのです。
若く無限の可能性を秘めた二人の未来が、映画史の片隅にも忘れ去られてしまっている1958年のこのロマンティックな小作品に、多くのエッセンスを内包していると感じるのは、決してわたしだけではないはずです。
【ミシェル・ボワロン監督の『お嬢さん、お手やわらかに!』を若い頃、見た記憶があります。
>アラン・ドロン
商業的には大ヒットした作品だ。この映画で顔を覚えてもらったんだね。ミレーヌ・ドモンジョと共演した。ブリジット・バルドー、ジャクリーヌ・ササールやパスカル・プティと共にもう一人のフランス映画のスターだった。それからピエール・ガスパール・ユイの『恋ひとすじに』に出た。『若者のすべて』に起用してもらう前、撮影現場にヴィスコンティが私を見に来たんだ。『お嬢さん、お手やわらかに!』を見たルネ・クレマンも私を覚えてくれた。全くもって凄い年月だった・・・】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/4 「回想するアラン・ドロン:その2(インタヴュー和訳)」】

オリジナル・サウンドトラック盤(「恋ひとすじに」より<フランス映画の想い出>恋ひとすじに 序曲a)貧しい恋人たちb)恋人 森の小さなホテル)音楽:ジョルジュ・オーリック
Tags:#「アラン・ドロン」原型の形成期































