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『ヌーヴェルヴァーグ』⑧~アラン・ドロンの二重自我 その3 想起する「詩(心理)的レアリスム」~

 アラン・ドロンは、1957年『quand la femme s'en mele(女が事件にからむとき)』(日本未公開、後年TV放映)の端役でデビューしています。監督はイヴ・アレグレ、主演はエドウィジェ・フィエール、そして何とシナリオは、あの「詩的レアリスム」の巨匠ジャック・フェデール監督の脚本を書き続けたシャルル・スパークなのです。
 タイトルのキャスト表示が13番目の端役とは言え、すでにデビュー作品から彼の映画人生は定まっていた、とさえ言えるのではないでしょうか?
 
 また、代表作『太陽がいっぱい』のルネ・クレマン監督が多くの作品で組み、新世代「ヌーヴェル・ヴァーグ」のカイエ派に徹底的に批判された旧世代「詩(心理)的レアリスム」を受け継ぐピエール・ボストとジャン・オーランシュの脚本家コンビは、『学生たちの道』のシナリオを担当しており、マルセル・カルネ監督とともに「詩(心理)的レアリスム」を完成させた脚本家ジャック・プレヴェールは、『素晴らしき恋人たち』の第三話「アグネス」で脚本を担当しているのです。

 『地下室のメロディー』で共演したジャン・ギャバンやヴィヴィアンヌ・ロマンスたちも、「ヌーヴェルヴァーグ」の世代より以前の「詩(心理)的レアリスム」の時代の映画人たちでした。
 「アラン・ドロン」というキャラクターが、まだ完成する前段のデビュー間もない頃に、すでに「詩(心理)的レアリスム」の典型的な旧世代スタッフの中で育てられたアラン・ドロンだったのです。


 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、言わずとも知られているアラン・ドロンの尊敬するジャン・ギャバンとのコンビも有名で、数え切れないほど多くの傑作を生み出した戦前のフランス映画の大監督、「詩(心理)的レアリスム」の代表的な巨匠です。
 そして、2作品だけとはいえ、アラン・ドロンをハリウッド進出以前、フランス映画復帰後を通して使ったのはアンリ・ヴェルヌイユ監督と、このジュリアン・デュヴィヴィエ監督くらいなものです。
 さすがに彼は、すでにこの1作目のオムニバス作品『フランス式十戒』の第五話(日本公開版では第六話)「汝、父母をうやまうべし、汝偽証するなかれ」(やはりシナリオは、旧世代アンリ・ジャンソン!)で、主人公とその両親が血縁ではないというストーリー・プロットを通して、アラン・ドロンの内部矛盾による不確かさを、ピエールという医学生のキャラクターで描き出しました。

 このオムニバス作品は、悪魔の代弁者である蛇の狂言回しで繋がれていきます。

「この男の人生はうその上に築かれた」

冒頭から、アンリ・ジャンソンのこのショッキングなヴォイス・オーヴァー!

 主人公ピエールが、やはり旧世代の大女優ダニエル・ダリューの扮する実母クラリスに、自分の父親が実父ではないと告げられたときのショットには、恐ろしいまでのアラン・ドロンの本質が写し撮られており、最も注視すべきシークエンスとなっています。

 完膚無きまでに自己を否定されたピエールが、苦渋の表情で無神経な実母との会話をやり取りする様子がカメラに収められており、彼のその不確実で不安定な存在を、すべて「鏡」に映し出したシーンで表現しているのです。
 まさに古典芸術の映像テクニックといえましょう。

 『ヌーヴェルヴァーグ』での、詩人ジャック・シャルドンヌの詩の一節
「草はわたしにおいてあり、わたしなくしてないのか」

 この言葉に「詩(心理)的レアリスム」の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の、この「鏡」のショットを思い浮かべたのは、わたしだけでしょうか?
 「鏡」のなかの自分、虚構としての本当は実在しない自分・・・主人公ピエールの不安定な心象風景が、この「鏡」のシークエンスに浮かび上がってくるのです。

 絶対に確かなはずの自分という存在が、実はこの世の中で最も不確かな存在であったことに愕然とし、自分とは一体何者なのか?とあらためて自問するとき、人間というものは、もう一度自身の姿を確認したいと思ってしまうものなのでしょう。

「そしてアランもまた、彼は否定するかもしれないが、私の意見では、やはり自滅型であって、しかも自己のアイデンティティを探し求めるタイプだと言える。アランの人生はあらゆる面において極めて複雑で、多くの場合は矛盾をはらんでいる。(ジョセフ・ロージー)」
【引用 『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年】
追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー
ミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢 / 日本テレビ放送網






 ジョセフ・ロージー監督が演出した後の代表作『パリの灯は遠く』では、主人公のロベール・クラインが「鏡」に映った自分の姿を放心した表情で見つめるシークエンスが何度もあります。
 ジョン・ブーイ演ずるユダヤ人のセールスマンの男性から、ロベール・クラインがヴァン・オスターダの絵画とした「ある紳士の肖像」を安く買いたたいた後の別れしなの「鏡」を見つめて佇むショット、ラ・クポル・レストランでのユダヤ人クラインを呼ぶウェイターの声に、彼を探して「鏡」に映る自分に呆然と自失して佇んでしまうショット、シュザンヌ・フロン演ずるユダヤ人クラインの愛人が経営するアパートを訪れたときの「鏡」を覗き込むシークエンス・・・。

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、アラン・ドロンのデビュー間もない段階での、このオムニバス作品の挿話である『フランス式十戒』の一編の第六話「汝、父母をうやまうべし、汝偽証するなかれ」で、すでにアラン・ドロンの本質をえぐり出していたと言えましょう。

 しかしラスト・シークエンスではデュヴィヴィエ監督らしく、本当の自分の存在が愛情豊かに育ててくれた両親の元にあったことを確認して納得する、心が温まる倫理的なテーマで結論しているのです。

 ただ、最後のアンリ・ジャンソンの蛇の狂言回しは、皮肉とエスプリに富んだものとなっています。

「うそを食べうそを飲みこんで
 万事めでたいと
 この青年
 女を泣かすぞ」

 このように、自分たち旧世代に属する若いアラン・ドロンに対してさえも、シニックで厳しい予言で結んでいるのです。

「若い世代は将来有望だね
 ヌーヴェルヴァーグ万歳」

 更に新世代「ヌーヴェル・ヴァーグ」を皮肉り、その若手俳優ジャン・クロード・ブリアリ主演の第六話(日本公開版では第七話)「なんじ盗むなかれ」に繋げているのです。

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の恐ろしいまでの先見と反骨を感じます!
 28年後のジャン・リュック・ゴダールとアラン・ドロンは、この『フランス式十戒』を、どのように総括して『ヌーヴェルヴァーグ』を撮ったのでしょう?

 33年後、アニエス・ヴァルダ監督が映画百年記念作品『百一夜』で、アラン・ドロンとジャン・リュック・ゴダールの挿話の後に、同様にジャン・クロード・ブリアリの挿話を繋いでいる意味は・・・?


 そして、アラン・ドロンはハリウッドでの不成功の後、自国フランスの新世代の演出家であるルイ・マルやジャン・ピエール・メルヴィルの作品に出演し、ようやく当時の時流に乗ることができるようになります。

 しかし不思議なことに、何故かそのすぐ後、わざわざ旧世代の老巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『悪魔のようなあなた』に出演するのです。

 すでにアラン・ドロンは、メルヴィルやマルの作品に出演した後ですから、最も敬愛していたジャン・ギャバンの師とも言えるジュリアン・デュヴィヴィエ監督とは言え、全盛期を過ぎてしまっていた当時の彼の作品に出演することが、それほど大きなキャリアになるとは思えません。
 当然のことながら、それは映画興業のメリットを超越するものだったことは、容易に理解できることです。

 アラン・ドロンは、デビュー間もない頃にお世話になった巨匠への恩義を果たすと同時に、まるで「ヌーヴェル・ヴァーグ」以後のフランス映画に埋没しそうになっている自分自身と闘っているようでもあります。

 ストーリー・プロットは、大富豪ジョルジュ・カンポだと思い込まされたチンピラ、ピエール・ラグランジュが、喪失した自分の記憶を取り戻していく物語です。やはり、自分とは何者なのかに苦悩する《自己の分身や分裂》をテーマに扱った作品でした。

 最後に自分を取り戻したときの主人公ピエールの居直りは、大富豪ジョルジュ・カンポになりすまそうとするものでした。しかし強いカトリックの倫理に貫かれたデュヴィヴィエ監督の演出には、それを許すキャパシティは皆無です。
 最後に真実は暴露されてしまうのです。

 デュヴィヴィエ監督は、不確かなピエール・ラグランジュのアイデンティティを無産階級の象徴のように描き、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の象徴ジャン・リュック・ゴダールへのマオイズムの欺瞞と若さ、短絡を皮肉っていたようにも思えます。
 わたしには、彼が最後の力を振り絞って、愛弟子ジャン・ギャバンの後継者である若き伝統的俳優アラン・ドロンを使って、勇敢にも「新しい波」に対して、まだ何かを伝えようと誠実に向き合っているように映りました。

 もしかしたらゴダール監督は、やはりこの作品にも密かに感動してしまっていたのではないでしょうか?
 わたしにとっては、『ヌーヴェルヴァーグ』が、この作品をモチーフにしているように思えてしようがないのです。

 また、このジョルジュ・カンポという大富豪の名前は、後輩のルネ・クレマン監督がアラン・ドロンを起用した『生きる歓び』の「カンポサント」、記憶喪失の青年「ピエール・ラグランジュ」も、自身の演出で初めてアラン・ドロンを起用したときの優しい好青年の医学生「ピエール」へのオマージュだったとも思えます。


 次は、『黒いチューリップ』、「詩(心理)的レアリスム」第二世代のクリスチャン・ジャック監督の作品です。
 そして、こちらの脚本も、やはりアンリ・ジャンソンなのです!

 この作品でのアラン・ドロンの分裂は素晴らしい。最も典型的で魅力的なアラン・ドロンが開花しています。彼の演ずる主人公たち・・・兄ギヨーム、弟ジュリアンの二役、それぞれが扮する義賊「黒いチューリップ」を、彼が演じて展開していくのです。

 わたしには、この作品が痛快な娯楽大作であることはもちろんなのですが、「欲得にまみれた盗賊」である兄ギヨームが、「黒いチューリップ」というブラック・ボックスを通過することによって、弟ジュリアンの「共和の志士」としてのアイデンティティを確立する物語であるとも解釈しています。
 主人公たちをフランス革命による人民の成長に比喩しながら、かつアラン・ドロンの資質をすべて盛り込んだ作品であるような気がしているのです。

 そういった意味では、クリスチャン・ジャック監督は「黒いチューリップ」という素晴らしいキャラクターによって、ルネ・クレマンが、『太陽がいっぱい』のトム・リプリーから『パリは燃えているか』のジャック・シャバン・デルマスまで架かった6年間、そして4作品を経なければならなかった成長を、たった1作品で果たしてしまったとも考えられます。

 それにしても旧世代の監督たちは、このような商業娯楽の作品においてさえも、共和国の精神すなわち、恐らくは戦中のレジスタンス運動の闘いの誇りのもとで作品を撮っていたことに、わたしは驚きを禁じ得ず、フランス国民のプライドの高さと強さを痛感してしまいます。
 当然のことながら、アラン・ドロンもその多くの影響を直接に受けた経験から、ドゴール主義を信条としている現在に至っているわけなのでしょう。

 『ヌーヴェルヴァーグ』作品中でエレナが、ロジェ・レノックスに向けて言い放ったセリフ
「ニューヨークに連れて行くなんて良くないわ。フランス語でいうと?つまり彼女にはこの国がお似合いよ。あなたもね。」
から、このことを想起してしまったのです。


 戦前のフランス映画で活躍した巨匠ジャン・ルノワール監督は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちからは「詩(心理)的レアリスム」の枠に収まりきらない巨匠として、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先駆者、「映画の父」とまで崇められていた存在です。
 しかし、映画史家ジョルジュ・サドゥールが定義づけた「詩(心理)的レアリスム」を最も意識していたのもジャン・ルノワールだったと言います。
 彼のジャン・ギャバンを主演にした作品(『大いなる幻影』、『獣人』、『どん底』)などは、それを最も意識していた作品だったのではないでしょうか?
大いなる幻影
/ ジェネオン エンタテインメント





獣人
/ ジェネオン エンタテインメント





どん底
/ ジュネス企画





 また、ジャン・ルノワール監督は、『ゲームの規則』について、こう語ったそうです。
「ある種のレアリスム-外見からはそう見えなくても、まぎれもなく本物のレアリスム-と、ある種の詩的感覚の、両者に立脚したスタイルをめざしたんだ。(ジャン・ルノワール)」
【引用 『フランス映画史の誘惑』(中条省平著、集英社(集英社新書)、2003年)】
ゲームの規則
/ 紀伊國屋書店





フランス映画史の誘惑

中条 省平集英社



 「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家ジャン・リュック・ゴダールが、このジャン・ルノワールの思想を意識していないはずはありません。
 彼が映画においてのポエジーを表現、実践し始めたのは『勝手に逃げろ/人生』からだと言われています。
勝手に逃げろ/人生
/ ハピネット・ピクチャーズ





 そして、いよいよ、ジャン・ルノワール監督がジャン・ギャバンを主演にして独自のリアリズムと、ポエジックを表現したように、「詩(心理)的レアリスム」の伝統を受け継ぐスター俳優、アラン・ドロンを主演させ、彼が体現できるぎりぎりのリアリズムを通した詩的感覚で、ルノワール作品を再現、そして超越させようとしていたような気がするのです。

 詩人であり、女流作家、映画批評家でもあるドロシー・パーカーをロール・キリングに演じさせ、イタリア文学の最大の古典であるダンテの『神曲』、アルチュール・ランボーやジャック・シャルドンヌの詩も溢れんばかりにどのショットにも散りばめられています。

 『ヌーヴェル・ヴァーグ』でのゴダール監督の能弁は、アラン・ドロンの二面性というリアリズムとともに、これらのポエジーにおいて、最も意識的に表現されていると感じます。

「この『ヌーヴェル・ヴァーグ』というフランス映画史の総括的な作品は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を、更に過去の「詩(心理)的レアリスム」に止揚させて、いよいよ「超・詩(心理)的レアリスム」に体現させる域に辿り着くことができた。
 それは、ジャン・リュック・ゴダール監督が、「ジュリアン・デュヴィヴィエになってしまった」と批判したかつての同志、フランソワ・トリュフォーやクロード・シャブロルたちの「旧世代へ向かってしまった回帰」を、ジャン・ルノワールの思想のうえに発展的に超越しようとしたものだったのかもしれない。」

と未来における映画史に総括される作品なのではないか?とわたしは思ってしまうのです。
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by Tom5k | 2007-08-05 04:17 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Comments(15)

『ヌーヴェルヴァーグ』⑦~アラン・ドロンの二重自我 その2 伝統的キャラクター・アクター その2~

 アラン・ドロンの二重(面)性に眼をつけたのは旧世代だけではありません。新世代「ヌーヴェル・ヴァ-グ」の作家のひとりであったルイ・マル監督も、彼の二重(面)性を描きました。
 また、実はわたしとしては、アラン・ドロンが最もアラン・ドロンらしいと思うのが、『世にも怪奇な物語』の第二話「影を殺した男」のドッペルゲンガー、ウィリアム・ウィルソンなのです。

 何故、ルイ・マルがアラン・ドロンとの仕事を引き受けたのか、というたいへん興味深い疑問も湧き上がって来るところではありますが、あらゆる意味から、結果的にはこの第二話「影を殺した男」は素晴らしい成功を収めたといえましょう。
 ルイ・マル自身もこの《分身》というストーリーの核となっているテーマに非常に興味をもって臨んだとのことです。
 それだけヨーロッパ映画においては、自身の内面を統一しきれないときのもう一人の自分自身の存在の必要性、つまり《分身》というテ-マが多くの観客を惹きつける妖しい魅力を放っていたのかもしれません。

 このウィリアム・ウィルソンという主人公のキャラクターについては、ジャン・リュック・ゴダール監督も常に引用・言及しています。

【たとえば、『気狂いピエロ』について語る際に、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」と題された短編小説に言及し、この名前ないし偽名をめぐる小説としても興味深いテクストが示す、生身の人物とその双生児的な分身としての影像との関係から、ウィルソン=映画作家という視点を提出するとき(「わがピエロ」、一九六五年)にも明瞭に示される。】

 ゴダール監督が映画を語るとき、映画が現実世界を視覚に置換させるものとして、現実世界の翻訳によって成り立つこと、つまり映画の世界が観衆側の世界であることに最もこだわっているように思います。その言及は、作家の側の生気をフィルムに吸収させてでも、それを現実世界に還元させるものとして定義しているのです。

【『気狂いピエロ』において、「人生を撮影したとわたしが確信した瞬間、まさにそのためにわたしは人生を取り逃してしまったのです。」(「わがピエロ」)】

(【 】内、引用は『現代思想 総特集 ゴダールの神話 不在の神秘/神秘の不在 松浦寿夫』青土社、1995年10月臨時増刊)
ゴダールの神話
/ 青土社






 ゴダール監督の映画作家たることの意義にまで例えているこのウィリアム・ウィルソンの例示から考えても、アラン・ドロンがゴダールの同志ルイ・マルの演出において、『影を殺した男』でウィリアム・ウィルソンに扮した実績が、『ヌーヴェルヴァーグ』制作にあたってのこだわりのひとつとなっていたことは想像に難くありません。

 それに加えて思い出されるのは、『気狂いピエロ』でジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公フェルディナンと、アンナ・カリーナが演ずるマリアンヌの逃亡中の会話に、エドガー・アラン・ポー原作の小説「ウィリアム・ウィルソン」に触れる印象深いセリフです。

「彼は幽霊を見て殺そうと追いかけた 目的を果たしたら 死んだのは彼自身で 残ったのは幽霊だった」
気狂いピエロ
/ ハピネット・ピクチャーズ





William Wilson
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 『世にも怪奇な物語』については、どのブログ記事を読んでもフェデリコ・フェリーニの第三話「悪魔の首飾り」を絶賛しており、それは現在、一般的な評価となっているように思います。
 しかしながら、映画のテーマにしても、アラン・ドロンの名演にしても、成熟したアラン・ドロンのファン、もしくは映画ファンなら、間違いなくこの第二話「影を殺した男」を客観的な意味において最も高く評価するはずです。

 ウィリアム・ウィルソンは、フランケンシュタイン、ドラキュラ、ジキルとハイド、ターザン、ゾロ、オペラ座の怪人、怪盗ルパン、カシモド・・・などと肩を並べるほど魅力的で典型的なキャラクターであるように思います。特に現代においては、それは益々意味深いテーマとなってきていることは、現実世界の生活実感においても感じることが可能なほどです。
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 その魅力ある、そして現代的テーマの典型であるような主人公ウィリアム・ウィルソンをアラン・ドロンが演じたのです。しかもこれ以上のはまり役がないほど、彼はこの主人公と同化していたように思います。
 この作品に限っては、エドガー・アラン・ポー原作の古典でありながらも、アラン・ドロン以上のウィリアム・ウィルソンを演じることのできる俳優は、今後、もう現れないのではないだろうか、とまで思ってしまいます。

 フランケン・シュタイン=ボリス・カーロフ、ターザン=ジョニー・ワイズミュラー、ドラキュラ=ベラ・ルゴシもしくはクリスト・ファー・リー、ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリー・・・等々。
 それ以上のはまり役はないとまで言えるスター俳優のキャラクターへの同化と同様に、わたしとしては、アラン・ドロンが演じた強烈な個性の主人公たち、トム・リプリー、ロッコ・パロンディ、そして、私見でしかありませんが、ジェフ・コステロをも凌駕するキャラクターであったようにまで思うわけです。

 しかも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」体系の手法を持つルイ・マル監督が、エドガー・アラン・ポーの原作を演出したものです。フランソワ・トリュフォーの古典への回帰(この回帰主義に関わっては賛否の両論がありますが)を先駆けていたようにも思います。


 そして、わたしのなかに、さらに浮かび上がってくる作品がアラン・ジェシュア監督の『ショック療法』なのです。
 どうみてもこれは現代版ドラキュラもしくはヴァンパイアであり、いわゆるB級ホラー作品なわけですが、わたしとしては、できれば著作権など買い取って、ブラム・ストーカーの原作、カール・テオドア・ドライヤー監督の『吸血鬼(ヴァンパイヤ)』やF・W・ムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』、トッド・ブラウニング監督の『魔人ドラキュラ』などを新古典としてリメイクして欲しかったように思っています。
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 ひとり古城に住み、美女の生き血を求め深夜の街を徘徊する美男の伯爵、耽美的で魅力的なアラン・ドロンのドラキュラ伯爵を観たかったファンは、わたしだけではないはずです。
 ジャン・ギャバンがヘルシング教授となって、ドロンのドラキュラを退治するなど、わたしの勝手な想像力は留まるところを知りません。
 監督としては、ドロンの渡米前ならば、ジュリアン・デュヴィヴィエに演出してもらいたかったです。強い倫理観で勧善懲悪のテーマとなりながらも、神と悪魔の矛盾や民衆の賢さや愚かさなどに、詩情をあふれさせながらの大作となったように思います。

 アラン・ドロンの人気が全盛期の70年代なら、フランシス・フォード・コッポラ監督、もしくはスティーブン・スピルヴァーグ監督に演出してもらいたかった。
 まだ、商業娯楽に埋没する以前の「アメリカン・ニューシネマ」時代の精神で撮って欲しい。《疎外される緊張感》や《追われる恐怖》などを主題に新しい発想において、クラシック作品を復活させて欲しかったです。

 ジョセフ・ロージー監督のコスチュ-ム・プレイも観てみたいように思います。たいへん恐い作品になったのではないでしょうか?ブルジョア家庭の令嬢の血を求め、その一族が虐げられていた貧困な農民たちに八つ裂きにされていく、というようなサディスティックで恐ろしい前衛作品になったでしょう。

 80~90年代なら、フォルカー・シュレンドルフの演出で、ドイツ表現主義で描いていた吸血鬼(ヴァンパイア)を、ニュージャーマン・シネマのリアリズムで復活させてほしかった。ヴェルナー・ヘルツォークよりも風刺の効いたエレガントなドラキュラもドロンに似合うように思います。
 また、パトリス・ルコント監督なんか、どうでしょう。詩情豊かでロマンティック、かつシュールな作品となったかもしれません。
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 さて、この『ショック療法』でも、いつも通りにアラン・ドロンの二重(面)性は、最大級のうさんくささを発露させています。しかも、それはやはり魅力的なわけです。
 ブルジョアジーたちの若さや美しさへのこだわりこそ醜悪で、しかもその底辺には貧しき若者たちの犠牲があるという現代社会の縮図のようなエステ・サロンの院内を舞台としており、ブルジョアジーの欲求を最大限に利用し、弱者を犠牲にして成り立つビジネス社会、現代の引き裂かれた社会でのアラン・ドロンの二重(面)性が、それらを暗喩するように描かれています。

 そして、アニー・ジラルド演ずるエレ-ヌを乗せたセスナ機での遊覧飛行で、アラン・ドロンが演じた二重人格の主人公ドクター・デヴィレが本音を漏らすシークエンスに、わたしにとっての非常に印象深いセリフがありました。

「この国は何もかも中途半端で嫌いだ 文明と文化のゆりかご 一度は逃げた アマゾンの奥地へね だけどなじめなかった いやでも同国人ばかり固まるのさ 堕落のかぎりだ」

 当時の現実のアラン・ドロンのやりきれない想いが言葉になっているような気がしてならないのです。アイデンティティを引き裂かざるを得なかった哀しい男の居直りが垣間見える瞬間であったように思われ、わたしとしては実にリアルな説得力を感じ、アラン・ドロンが自身の内部に何故、二重(面)性を持つに至ってしまったかのヒントが隠されているようにも考えてしまいます。

 さらには、『ヌーヴェルヴァーグ』でアラン・ドロンの演じた主人公の超越、ロジェ・レノックスからリシャール・レノックスに超越した理由が、このドクター・デヴィレのセリフにあるようにも感じ取れるのです。


 そして、古典・クラシックの王道であるジョンストン・マッカレー原作「怪傑ゾロ」を映画化した『アラン・ドロンのゾロ』です。
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 この企画も意外なように見えながら、アラン・ドロンという個性としては典型的な作品であったようにも思います。
 この作品も、やはりキャラクターの二重(面)性、すなわち「主人公の《分身》」というテーマを扱っていることから、アラン・ドロンにおいての特に重要な作品として位置づけられると考えます。

 正義の義賊を演じていてもやはり、常に謎を秘めた魅力を発散させており、しかもこの怪傑ゾロというキャラクターには、存在しないはずのもの、すなわち民衆の願望ともいえる存在が、そこに実在しうるという、極めて魅力的な「不在性の神秘」が露呈されていると感じるわけです。

 『ヌーヴェルヴァーグ』で主人公リシャール・レノックス登場のシーンに、このゾロの初見参のシークエンスをオーバー・ラップさせたのはわたしだけでしょうか?

 「この人を見よ」という、このニーチェの言葉とともに登場するリシャール・レノックス。

 現代において神は死に絶え、力への意志のみしか生存(実存)しえない、そうまさに超人化することだけが現代人の生き方となるというニーチェの思想を象徴させているシークエンスには、怪傑ゾロが開拓宣教師フランシスコを救済することで民衆を解放するという実践を、現代社会に置換させたものだったとしか、わたしには思えませんでした。


「伝統的なキャラクター・アクターとして、かつ二面性に魅力を発露させていたアラン・ドロンは、あらゆるジャンルの映画においても、どんな監督から起用されても、特に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家、ジャン・リュック・ゴダール監督の演出においてさえも、その一貫性を貫いた。」

と未来における俳優史に評価されることは想像に難くないことです。
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by Tom5k | 2007-07-21 02:09 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Comments(15)

『ヌーヴェルヴァーグ』⑥~アラン・ドロンの二重自我 その1 想起するルネ・クレマンとの師弟関係~

 いまさら言うまでもないことかもしれませんが、この『ヌーヴェルヴァーグ』ではアラン・ドロンの人格の二重構造を描いています。

 そして、彼の出演している多くの傑作の中でも、その引き裂かれた人格を演じている作品が、特に魅力的であるようにも思います。
 また、ジャン・リュック・ゴダール監督にしても、それがこの作品を手がけていった動機のひとつでもあったようにも思います。

【長い間私はドロンと一緒に映画を作ることを望んでいた。そしてこの『ヌーヴェルヴァーグ』で、彼の役 -私には彼以外の俳優はあり得なかった- を見付けたのだった。例えば、彼には彼自身に対して、また他人との関係に於いて、《アラン・ドロン》であると同時にかつての《アラン・ドロン》でありえるのだ。それ故、彼はこの二重の役柄を演じることが出来たのである。(ジャン・リュック・ゴダール)】
【引用 『newFLIX vol.4 SEP.1990(小特集『ヌーヴェルヴァーグ』)】

 このことは、『ヌーヴェルヴァーグ』という作品を、さらにはアラン・ドロンを主演させた作品を突きつめていくうえで、特に重要な懸案の事項であるといえましょう。

 映画作品でのアラン・ドロンの分裂、すなわち二重性は、どの作品から、誰の演出作品から始まっていったのでしょうか?


 最後の「詩(心理)的レアリスム」の巨匠と呼ばれているルネ・クレマン監督は、アラン・ドロンのその二重性を最初に見抜き、その人格の分裂を統一させ成長させました。わたしとしては、彼らの師弟関係には、そんな側面もあったように思うわけです。

 では、アラン・ドロンはルネ・クレマンの下(もと)で、一体どのように成長を遂げていったのでしょうか?

 ルネ・クレマン監督はアラン・ドロンを、まず彼の出世作ともなった『太陽がいっぱい』で、モーリス・ロネが演じた大金持ちの友人フィリップ・グリンリーフに対して、短絡的な同一視から殺人犯人となってしまう主人公トム・リプリー役で起用します。
 貧困で惨めな主人公トムが、この現代ブルジョア青年フィリップに憧憬してしまったことを犯罪動機としたのです。「女」や「自由」、「品位」や「知性」さえも、金があれば全部手に入る、真面目に働かなくたって、あらゆる欲望がすべて手に入る。
 主人公トム・リプリーは、彼のその所有をすべて自分の手に入れたかった、いや彼はフィリップ自身になりたかったのでしょう。
 実に屈折して、歪んだ在り方であっても、映画評論家の淀川長治氏が言っていたとおり、トムはフィリップを愛してしまっていたのではないでしょうか?!

「ああ、おれはフィリップになりたい。金も女も自由も全てが欲しい!」

 しかし、あの衝撃的なラスト・シークエンスでもわかるように、クレマン監督はドロンに、

「どんなに苦しい思いをしていたとしても、ひとの命を奪って野心を果たすこと、すなわち犯罪に手をそめて自分を確立しても、それは偽物にすぎない、いつかは見破られてしまい、結局は最も悲惨な眼に会うだろう。」

と厳しく戒めているように、わたしには見えるのです。


 次にルネ・クレマン監督は、『生きる歓び』で、やはり貧困ではあるけれど、今度は、素直に淋しさを認め、お金よりも家族の愛情や純粋な恋を求める好青年ユリスを彼に演じさせます。しかし明るくて健康的なキャラクターであるとはいえ彼をまだ、自分に確信を持てずに何か他の物差しで自分を測り、他人への変身願望を主軸にしてしまう主人公として演じさせています。
 やはりまだ、彼は分裂せざるを得ないのです。

 つい背伸びをしてアナーキストの英雄カンポサントになろうとしてしまった主人公ユリス、このことがテロリズムという現代的なテーマを先取りして、大騒動を呼び起こしてしまうコメディ作品でした。

 ことが重大事になるに従って、カンポサントという人格を保とうとしながら、必死にテロリズムをくい止めようと奔走するユリスでしたが、最後には背伸びをしていた彼よりも素性の知れてしまった本当のユリスのほうが、暖かくバルバラ・ラス演ずるフランカに恋の対象として受け入れられる結果となります。

 このような結末でもわかるように、クレマン監督はドロンに、

「本当の自分を素直に表現することが、本当の愛情を手に入れることの必要条件なのだ。」

と彼を諭しているように、わたしには見えるのでした。


 次の『危険がいっぱい』では、ようやくアラン・ドロンの人格を統一させました。
 しかし彼に演じさせたマルクという主人公は、いかさまカード師で若い詐欺師の役です。マルクはいつも、いい加減に好きなことばかりやっている奔放な青年です。
 いくら正直な自分で生きていていたとしても、そして好青年のキャラクターではあっても、これでは正常な日常を地道に営めるわけがありません。
 そして、最後にはジェーン・フォンダ演ずる小悪魔メリンダに自由を奪われ、彼女の手元に囲い込まれてしまいます。素直にそして自分を偽ることなく正直に生きた結果、確かにメリンダに愛されたマークではありましたが、このような恐ろしい結末が用意されていたのです。

 この恐ろしいラスト・シークエンスを用意した師匠のクレマン監督の真意は?

 わたしは、何の裏付けもないチンピラのままでいながら、調子に乗って必要以上の野心、ハリウッド作品での成功願望を持ってしまった愛弟子アラン・ドロンに、すでにそこでの失敗を、はっきりとした裏付けをもって厳しく批判していたように思っています。

 実際にはどうだったのでしょうか?


 そして、いよいよ二人にとっての最後の作品になったハリウッド作品『パリは燃えているか』です。ここでは遂に、アラン・ドロンの人格の統一を完成させ、自国フランス共和国の祖国を守るレジスタンスの闘士、社会的に非常に重要な人物としての役割(柄)を与えています。
 また、ルネ・クレマン監督自身にとっても久しぶりの彼の原点、リアリズム作品の集大成であるレジスタンス映画です。『鉄路の闘い』や『海の牙』以来の熱い想いで撮った作品だったのではないでしょうか?
鉄路の闘い
/ ビデオメーカー





海の牙
マルセル・ダリオ / / アイ・ヴィー・シー





 彼にとっては、この作品はフランス国内のみでナチス・ドイツとの闘いを描いていた過去の実績から、同盟国、連合軍アメリカ合衆国との友情により、ハリウッド作品として飛躍させようとした大胆な野心作であったようにも思います。
 ナチス・ドイツの占領下、自由フランス軍を扇動した共和党のドゴール、彼の信奉者である現実のアラン・ドロンを投影しているようなレジスタンス運動の幕僚デルマス。このデルマスは、後の実生活のリアルなアラン・ドロンそのもののような錯覚すら想起させます。

 もし、この作品を撮っていたときにヨーロッパで大戦が起こったとしたら、アラン・ドロンはデルマスと同じ行動や言動を執ったのではのではないでしょうか!?

 とうとうアラン・ドロンは人格の統一、それも確たる思想・信条までを持つまでの立派なアイデンティティを確立するに至ることができました。


 『パリは燃えているか』では、フランス人のナチス抵抗運動の統一戦線は、握手を求めるナチス・ドイツのコルティッツ将軍に向け、それを拒否し
「レジスタンスは寄り合い所帯で確執も多い、しかし、今のフランスの敵は唯一ナチスのみだ。」
と言い放ちます。
 そして内部に矛盾を抱えながらも自由フランス軍・統一労働戦線レジスタンスは、フランス人にとってのただひとつの敵、ファシズムの象徴ナチス・ドイツに勝利するのです。


 ここでのルネ・クレマン監督は、アラン・ドロンに

「いくら自分の内部に多くの矛盾を抱えていても、決して自分を分裂させてはいけない。しっかりとした自分を持って勇敢に生きて行きなさい。もう、わたしが君に伝えることは何もない。さあ、自分で自分の道を歩んで行きなさい。」

と優しく語りかけているように思うのです。


 ハリウッド作品で大成することができなかったアラン・ドロンですが、帰仏後に『冒険者たち』や『サムライ』から会心作を生み出し続け、マルコヴィッチ殺害事件を乗り切って全盛期を迎えていった契機は、師匠ルネ・クレマンのこれらの素晴らしい教えの数々があったからではないかと、わたしは勝手な想像をしてしまい、感動で涙さえ流してしまうことを厭いません。


「『ヌーヴェルヴァーグ』ですごいと思うのは、ゴダールのような左翼とドロンのような右翼とが、互いに衝突しあうこともなく、一緒に仕事をすることができたということです。」
フィリップ・ガレルの言葉が思い出されます。


 わたしには、ゴダールとドロンが『ヌーヴェルヴァーグ』での共作に至った本質的な根拠が、クレマンとドロンの師弟関係の最後の作品であるこの『パリは燃えているか』に隠されているような気がしてならないのです。
 この素晴らしい師弟関係にゴダール監督は、密かに感動していたのではないでしょうか?

 クレマン&ドロンの作品は、映画史に燦然と輝くべきなのです。
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by Tom5k | 2007-07-08 20:28 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Comments(8)

『ヌーヴェルヴァーグ』⑤~ゴダール&ドロンの作品って!?~

 今から17、8年も前になりましょうか。『ヌーヴェルヴァーグ』の製作発表のニュースを映画雑誌で読んだとき、わたしは周囲の人間たちにそれを伝えました。あんまりにも驚いてしまったからです。

 まずは親しかった友人のひとりに・・・。

 彼の読書傾向はジョン・アップダイクやJ.D.サリンジャー、テネシー・ウィリアムズ・・・、SF小説はフィリップ・K・ディック、レイ ブラッドベリ・・・、推理小説はレイモンド・チャンドラー・・・。
 現代思想においては、ジャン・ポール・サルトルは古く(奴にとっては)・・・、彼は、ミッシェル・フーコーやレヴィ・ストロース、アルチュセール、ラカンなどの構造主義の信奉者でありました。
走れウサギ
ジョン・アップダイク / / 白水社





ライ麦畑でつかまえて
J.D.サリンジャー / / 白水社






欲望という名の電車
テネシー ウィリアムズ / / 慧文社





20世紀SF〈2〉1950年代―初めの終わり (河出文庫)
レイ ブラッドベリ / / 河出書房新社





かわいい女
レイモンド・チャンドラー / / 東京創元社





サルトルと構造主義 (1968年)
/ 竹内書店





 映画の嗜好は、ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジャン・リュック・ゴダール、ヴィム・ヴェンダースの作品、『パリ・テキサス』や『蜘蛛女のキス』等々・・・「ネオ・リアリズモ」や「ヌーヴェル・ヴァーグ」、「ニュージャーマン・シネマ」等々・・・。
ヴィム・ヴェンダースセレクション
ヴィム・ヴェンダース / / 東北新社





蜘蛛女のキス
/ ビクターエンタテインメント





 いわゆるインテリ嗜好の「知」的な人間ではありましたが、長く古本屋などでフリー・アルバイターなどをしながら、生活の苦労も充分に知っていた友人でした。まあ、わたしなどは、「似非のインテリ」などとよく彼をからかったりもしていましたが・・・。

「今度、ゴダールの映画にアラン・ドロンを使うんだってよ。」
 その友人は、わたしのこの貴重な情報を聞いて
「なんだって今頃、ゴダールはドロンを使うんだあ?はは。」
と嘲るように‘にやり’と笑いました。
 やっぱり、奴のインテリジェンスは偽物だ、とあらためて確信したものです(笑)。


 わたしの母親や父親は、50年代後半から60年代初めに青春時代をおくった世代です。アラン・ドロンともほぼ同世代で、美空ひばりや江利チエミ、フランク永井などが大好き、オードリー・ヘップバーンやエリザベス・テーラー、モンゴメリー・クリフト、アンソニー・パーキンスなんかが出ている華やかな洋画が大好きで、『陽のあたる場所』、『帰らざる河』、『昼下がりの情事』や、『スリ』、『刑事』、『道』などを観て、ハリウッド作品とイタリア映画などヨーロッパの作品(「ネオ・リアリズモ」などという映画用語はもちろんわかっていなし、わかろうともしない)の区別を「THE END」と「FINE(FIN)」くらいでしかつけておらず、映画を見終わったその足でダンスホールに通っていたという、本当にいい加減で尊敬できない世代です。
陽のあたる場所
モンゴメリー・クリフト / / パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン





マリリン・モンロー・ダイヤモンド・アルバム
マリリン・モンロー / / 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン





オードリー・ヘプバーン DVD-BOX
オードリー・ヘプバーン / / パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン





スリ
マルタン・ラサール / / アイ・ヴィー・シー





刑事
ピエトロ・ジェルミ / / アミューズソフトエンタテインメント






/ アイ・ヴィー・シー





 ジャン・ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』ではなく、アラン・ドロンの『サムライ』というように、わかる範囲でしかものの解釈ができない(する気もない)人間です。

「あっ、そうそう三船敏郎が出てたっけねえ。」

(おれ、もう話ししない)。


 その母親に
「今度、アラン・ドロンが有名な映画監督(ゴダールと言っても誰で何のことか、どうせわかりませんから)の映画に出るんだとさ。」
「へぇ~、まだ映画出てるんだねえ。」
「二重人格の役なんだと。」
「ピッタリだね。」

「・・・・・・」

(案外わかってるよな、おふくろも)。

 少し見直した次第でありました。

 これらが、わたしの周辺でのインテリの映画ファンと、一般的な普通のおばさんの典型的な『ヌーヴェルヴァーグ』という作品の予想でした。

 ここでもアラン・ドロンは、インテリには侮蔑され、庶民には愛され理解されている、スターでありヒーローであることが証明されているのではないかと思われます。

「ヒーローないしヒロインの精神を体現した肉体の美は、それを讃美する人々の民族的、階級的イデオロギーと憧憬とを正確に表現する。われわれは他人の顔の表情を読むように、その美を読みとることに習熟しなければならない。人々に好ましく思われる美は、ある社会層の欲求を、政治綱領以上によくあらわしている。」
【『映画の理論(第二十四章 ヒーロー、美、スターおよびグレタ・ガルボの場合)』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】

 彼は決して“ファッション・モデル”などではなく、映画作品での、そう銀幕での庶民の大スター、そして現代(60~70年代)を象徴していたヒーローなのです。


 さて、わたしはと言うと、ジャン・リュック・ゴダール監督がアラン・ドロンを使って映画を撮るということ、そしてアラン・ドロンがジャン・リュック・ゴダール監督の作品に主演すること、二人の間に何が起こったのか、フランスの映画界に何が起こっているのか、興味は尽きず、そして歓喜と驚愕に打ち震えました。

 何よりアラン・ドロンの演ずる役が、一人二役もしくは二重人格なのです。彼の最も特徴的な個性によって、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のゴダールが演出する作品。しかもタイトルが『ヌーヴェルヴァーグ』・・・。

 これは奇跡であります。

 しかし、ゴダールにとってアラン・ドロンを使うということは、批判していたかつての同志フランソワ・トリュフォーと同様に典型的な商業映画を撮ってしまうことになってしまいます。
 そして、アラン・ドロンにとっても、常に名優とか、演技者であるとかの建前に埋没せずに、庶民のヒーロー、もしくはスターであることを貫いてきた過去を、否定することになりかねない恐れが強くあったわけです。

 この二人のコンビネーションは、彼らにとってのメリットよりもデメリットの方が大きいことは明らかで、お互いが余程の覚悟をしない限り、一緒に映画を撮ることなどできなかったように察するところであったわけです。


 また、実際の問題として前述した誤解が先行したり、すでに彼らは人気の全盛期を過ぎてしまっており、一部のマニアでしかない「ゴダール信奉者」や「アラン・ドロンファン」にはもちろん、一般的な映画ファンにとっても興味を持てない作品になってしまったような気もします。
 そして、それは今だに、なお現在でも払拭されておらず、大袈裟に言えば意味不明な作品として、そのまま放置され続けているように思うわけです。


 例えば、
 ジャイアント馬場とアントニオ猪木は相闘わずして、プロレス人生を終えました。
激録 馬場と猪木〈第8巻〉競り合う両雄、分裂の萌芽
原 康史 / / 東京スポーツ新聞社





 ゴジラとガメラも共演したことがないし、今後も共演しないでしょう。(用心棒さんのブログでは共演していますが・・・
『ガメラ対ゴジラ 地球破壊計画』(200Ⅹ)第一部 太平洋の脅威
『ガメラ対ゴジラ 地球破壊計画』(200Ⅹ)第二部 G1とG2
『ガメラ対ゴジラ』(200Ⅹ)第三部 地球降伏命令
『ガメラ対ゴジラ』(200Ⅹ)第四部 地球最大の作戦)。
 これらは世の中の「禁じ手」であります。このようなタブーをゴダールとドロンの二人はあっさり破ってしまったのです(用心棒さんもですが・・・(笑))。


 いずれにしても、彼らはもうすでに一緒に作品を撮ってしまったのです。
 そして驚くことに、この作品に理解を示している映画ブログの記事がありました。
chouchouさんのブログ「映画の宝石箱★美しき菫色の刻に愛を込めて」の(2007.05.08 ジャン=リュック・ゴダールが語るアラン・ドロン主演の『ヌーヴェルヴァーグ』の記事)

 ほんとうに、この記事を見付けたとき、わたしはうれしさのあまり椅子からころげおちました。
 chouchouさんは、上記のわたしの友人や母親を大きく凌駕し、GG対決を記事にした用心棒さんと同等のレベルではないかと考えるわけです(笑)。
 冗談はさておき、このように、ジャン・リュック・ゴダールとアラン・ドロンのこの作品『ヌーヴェルヴァーグ』は、少数ではあっても、すでに映画ファンの記憶に刻まれてしまっているのです。


 そして、いずれ間違いなく、この作品は映画史に残ってしまうのです。

「彼ら(ゴダール&ドロン)は、言う「我々の性格をもってしたら、完成した作品は、ろくでもない代物か、芸術的傑作かのどちらかだろうね。」」
【引用 『newFLIX vol.4 SEP.1990(小特集『ヌーヴェルヴァーグ』)】
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by Tom5k | 2007-07-07 23:46 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Comments(7)

『ヌーヴェルヴァーグ』④~愛の再生・復活その1 現代思想の実践~

 ドミツィアーナ・ジョルダーノ演ずるエレナが、アラン・ドロン演ずるロジェを溺死させるショットの緊迫感の高まりは、この作品の頂点だと思います。物語の前半からのロジェの苦悩も切実な感情表現でしたが、この船上での二人の罵り合いには極限の緊張感が表現されています。
 わたしはエレナに溺死させられるロジェには強烈な感情移入をして、身震いしてしまったほどです。

 戦後のイタリアで「ネオリアリズモ」が台頭してくるより以前には、リアリズムといえば、ロシアがまだ旧ソ連邦であった時代の「社会主義リアリズム」のことを指すものでした。当時のソ連では、リアリズム作品の基本になる態度として「典型的な環境における典型的な人間を描け」というフリードリッヒ・エンゲルスの言葉がいつでも引用されていたそうです。
【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年】

 わたしは、そういった意味で『ヌーヴェルヴァーグ』の主人公ロジェ・レノックスにおいて、彼の環境設定と現代に生きるわれわれの疎外感、そういう意味での彼のアウトサイダーとしてのキャラクターが映画表現として実に典型的であることに注目します。

 さらにゴダール監督はこのロジェ・レノックスに、ルキノ・ヴィスコンティ監督初期の「ネオ・リアリズモ」の歴史的傑作である『若者のすべて』でアラン・ドロンが演じた、ロッコ・パロンディという労働者階級のキャラクターを投影させたとも考えます。
 もし、そうであるならば、それは非常に興味深いことです。

 アラン・ドロンの代表作、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』の主人公トム・リプリーや、ジョセフ・ロージー監督の『パリの灯は遠く』の主人公ロベール・クラインは、20世紀以降においての映画鑑賞におけるidentification(感情移入・主人公との同一化)が可能なキャラクターだったと思います。
 しかし、わたしは他のブログの投稿によるコメントから、『若者のすべて』のロッコは現代社会においては決して「典型的な人間」ではなく、19世紀より以前のキャラクターであるのではなかという疑問を持つことになったのです。
(ブログ「赤パン帳 (ΘェΘ)2005.10.19 Wednesday 若者のすべて」2006/01/10 6:52 PM、2006/01/10 8:01 PM、2006/01/11 8:13 PMのコメント参照)

 近代以前のドストエフスキーの『白痴』に登場するムイシュキン公爵のキャラクターをモデルにしているとも言われているロッコ・パロンディは、近現代におけるプロレタリアの人物像に当てはめるにはリアルではなく、あくまで比喩的な表現に留まらざるをえなかったのかもしれません。

 そういった意味では、ジャン・リュック・ゴダール監督はこの作品でロジェ・レノックスにルキノ・ヴィスコンティ監督のロッコ・パロンディを超越させようとしたのではないかとも思われます。わたしには、彼が現代においての「典型的な人間」としてのロッコ・パロンディ、すなわちロジェ・レノックスとして描こうとした試みが、ルキノ・ヴィスコンティ監督に対する前向きな意味での批判と挑戦だと感じたわけです。
白痴 (上・下巻)
ドストエフスキー 木村 浩 / 新潮社





白痴
/ 松竹





白痴
/ ビデオメーカー




ナスターシャ
/ ブロードウェイ






/ アイ・ヴィー・シー





皆月 デラックス版
/ ジェネオン エンタテインメント





 そして、ロジェが溺死した後のリシャールとしての再登場は実にセンセーショナルです。
 ここでは、19世紀後期の実存主義哲学者であるニーチェのあの有名な

「この人を見よ」

の言葉と同時に、エレナに挑むような赤のマゼラッティスパイダーで登場します。

「この人を見よ」

というニーチェの言葉は、

「神は死んだ」

すなわち宗教が意味をなさなくなったというニヒリズムを生きる現代人が、現代以降の神に代わる

「力への意志」

により、あらゆる限界を乗り越えるべく存在

「超人(超越者)」

として生きなければならない宿命を象徴しています。

 そういう意味からも、リシャールの何かを確信した自信に満ちた表情での登場は、エレナとトルラート・ファブリーニ家への挑戦的な関わりを予見させます。

 それは、不当で茶番な裁判を受けて不当な量刑を受けた開拓宣教師フランシスコ神父を助けるために、ドン・ディエゴが怪傑ゾロとして登場したことをも超越していたのではないでしょうか?

 この

「ニヒリズム」

においては、すでにロッコ=ロジェを超越するための

「超人」

の思想が貫かれており、今の若い人たちの使っている表現を用いれば、リシャールは「超ロッコ」であり、また「超ロジェ」として登場したのです。彼の個性は全て、ニーチェの思想によりロッコ=ロジェから解放されたことにより確定されているように感じました。
 恐らく、ゴダール監督のニーチェの引用は、特にロッコの聖人のようなキャラクター、つまりプロレタリアが宗教から解放されることをも、意識したものであったはずです。

 さらに、リシャールは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』で、アラン・ドロンが演じた青年ピエロをモデルにしていると思われますが、モニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアの

「ニヒリズム」

に巻き込まれた彼の「沈黙とあきらめ」が、リシャールには皆無です。ここでも、ニーチェの思想である、あえて

「ニヒリズム」

を生きることで、

「ニヒリズム」

を克服しようとする

「永劫回帰」

の思想が貫かれているのでしょう。
この人を見よ
ニーチェ F.W. Nietzsche 手塚 富雄 / 岩波書店





 このことも、ジャン・リュック・ゴダール監督特有の「新しい波」としてとらえることが可能であることのような気がします。
 しかも、それは「社会主義リアリズム」の時代に定義されていた20世紀以降の「典型的な人間」の型であることを彼は忘れていないのです。映画のラストシーンで楽しそうにジャンプするリシャールは、未来に展望のない虚無的な無気力に到達してしまったピエロを超越したキャラクターであり、さらに「超ピエロ」へと進歩しているのです。

 特に、ハワード・ホークス監督の『脱出(『持てる者と持たざる者へ』 アーネスト・ヘミングウェイ著)』からの引用は、ロジェからリシャールへの脱皮を象徴させています。
「死んだ蜂に刺されたことがありますか」
とユベール・ラヴェル演ずる運転手ロラン・マルセルは聞きます。『脱出』で引用されているのは、ローレン・バコール演ずるマリーとウォルター・ブレナン演ずるエディとの会話です。
【参考~『ヌーヴェルヴァーグ』DVD解説書】

「死んだ蜂は刺す?」
ロジェの1度目の答えは
「何のことだ」
ですし、2度目は
「さあね」
です。

リシャールの回答はテンポよく、『脱出』でエディとマリーが意気投合したように

リシャール「経験か?」
ロラン「裸足で歩くと」
リシャール「刺される」
ロラン「ただし」
リシャール「憤死した場合」
ロラン「そう」

 最後のロランの
「別人だ」
という言葉は、ロッコやロジェ、そしてピエロをも超越してしまったリシャールに対する歓喜の表現だったのでしょう。
脱出 特別版
/ ワーナー・ホーム・ビデオ






 エレナのキャラクターですが、ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の『裸足の伯爵夫人』のエヴァ・ガードナーが演じたエレナ・トルラート・ファヴリーニ伯爵令嬢からの名前を継承しているそうです。作中の彼女はマドリードのジプシーの踊り子から映画スターとなり、トルラート・ファヴリーニ伯爵と結婚し、伯爵夫人となりますが、最後は悲劇の死を迎えます。『ヌーヴェルヴァーグ』でのエレナもやはり、リシャールにより死を迎えますが、同じリシャールにより救われ、再生して愛を得るのです。
【参考~『ヌーヴェルヴァーグ』DVD解説書】

 リシャールの超越は、

「力への意志」

によって、エレナの愛までも

「超人」

化させることが可能であったといえましょう。
裸足の伯爵夫人
/ 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン






 1954年12月ソヴェート作家大会で、セルゲイ・ゲラシーモフの「ソヴェート映画のシネマトゥルギー」の報告のなかで、人間の性格の描き方の貧しさ、特にその恋愛描写の貧しさが指摘されています。恋愛を類型化し過ぎて、膠着させてしまった当時の「社会主義リアリズム」の傾向を批判したものです。
【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年】

 現在でもそれは、欧米、日本及びアジア各国などの先進諸国の映画やTVドラマにおいて、「ロマンティック・ラブ」という類型的で膠着しきった短絡の描写がほとんどであり、実に危険な風潮といえましょう。ここには恋愛の困難を単純化したマインド・コントロールともいえる、いわゆる「素敵」な恋愛表現が蔓延しています。

 『ヌーヴェルヴァーグ』では、
「男は女にとって不足か過剰かのどちらかである」
という言葉が繰り返され、女性の特質が男性の側から理解されています。前述したセルゲイ・ゲラシーモフの発言のひとつである
「恋人たちはたえまなく、けんかをし、仲直りする」
はずであるという意味での表現が、その原則の通りに描かれていると感じました。

 レノックスとエレナはたえまなく、けんか(どころか、たえまなく、殺し合い)をし、愛を再生・復活させます。ここでも現代社会での男女の複雑な恋愛感情を直視した『太陽はひとりぼっち』のピエロとヴィットリアの「愛の不毛」として描かれていた恋愛ニヒリズムを克服しています。
 しかも、この二人は、殺し合うという極端な比喩表現ではあっても、膠着した類型で描かれておらず、現代以降における恋愛関係にある男女、すなわち「典型的な環境における典型的な人間」として描かれているのです。


 映画での数学の引用は、古くはジャン・ルノワールの名作『ゲームの規則』が、それだとわたしは思っています。
 ゲームにおいての競技者による複数の駆け引きや戦略、配分利益などの行動に関する理論を展開させたハンガリーの数学者J・フォン・ノイマンの「ゲームの理論 theory of games」が、ストーリーのプロットに象徴されているような気がするからです。

 また、アルフレッド・ヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』でも、主人公であるガイの殺人容疑のアリバイを立証できる唯一の証人である大学教授が、酔っぱらって、彼と会っているときのことを憶えていないという場面がありました。その教授が泥酔しているときに「関数が与えられれば微分が求まる」などの時間と空間の概念から、アリバイ立証を比喩したセリフを使用していました。

 ジャン・リュック・ゴダール監督も『ヌーヴェルヴァーグ』では、数学の比喩を使用しています。
「集合Eの代数構造の定義Eにおける任意の元XとYに関数XYを対応させる合成規則を定める」
 集合の定義は「明確に区別できるものの集まりで、あるものが与えられたとき、その集まりに含まれているかどうかを確定できるもの」というものです。ここでは、資本家のエレナ、貧乏な給仕、ブルジョワに仕える庭師、作家ドロシー・パーカー、弱いロジェ、実業家リシャールなどの現代社会を象徴する人間たちの集合のことでしょう。 
 代数構造の定義からは、方程式の構造のことですから、集合Eのなかのどの二つの要素すなわち、任意の元XとYに対して、(X×b)や(Y×b)においてもEの要素として決まるこのEを群であるとしたガロアの理論が思い出されます。

 任意の元XとYに単位元bを対応させ、このbが、XとYの影に隠れて見えないものとして、ランボーの言葉である「もう一人の他者」を比喩したのではないかと考えました。それはレノックスとエレナの愛と同一の根源である愛であり、レノックスの語る「僕は僕以前にひとりの人間だ」というその悲痛な叫びが「ひとりの人間」であるという「単位元」なのだと考えました。
 関数XYを対応させる合成規則とは、合成関数のことでしょうか?Y=f(x)によってYがxから決まり、X=g(y)によってyからXが決まっているとすれば、ラストシーンの二人の愛の成就としての関数XYの合成規則であり、これによりレノックスとエレナの愛を関数XYとして、愛の再生・復活を比喩したと考えられます。

 この『ヌーヴェルヴァーグ』では、ロジェ(リシャール)・レノックスとエレナ・トルラート・ファヴリーニの破綻すべく愛情の再生と復活を、最も大きなテーマの主軸として展開させているのです。


【フランスの映画理論は、1919年に、ルイ・デリュックが、これこそ映画の本質であると称してフォトジェニーphtogenieという言葉とその概念を提出したときに、さらに一歩を進めたものと信じられている。(~中略~)それは「映画的再現によってその精神的特質を増すところのすべての事物、生物、及び魂のすべての面」として定義された。】

 その後、映画批評家であり、音楽批評家であったエミール・ヴュイエルモーズは「影像の音楽」という論文で、映画を「光のハーモニゼーションとオーケストレーション」と定義づけ、映画と音楽との親しい関係を、人間の視神経と聴神経は同じ振動の機能を持っているために、同じ理論的な前提を持つとしたのです。

 また、レオン・ムーシナックという映画批評家が、通俗的な劇映画である「叙事的映画」ではなく、「映画詩」という体系から、画面、シナリオ、演出、フィルム、編集においての「フォトジェニー」を具現化していった視覚的なリズム、影像のリズム等の「リズム」とういう概念の重要性を論じました。

 これらはその後、「フランス印象派」と同時期に活躍していく「アヴァンギャルド」という前衛的映画体系に大きな影響を与えていきます。それにより、ルネ・クレール、フェルナン・レジェー、ワルター・ルットマン、ルイス・ブニュエル、クロード・オータン・ララ、ジャン・グレミヨン、ヨリス・イヴェンス、マン・レイらがフランス映画界に輩出され活躍していくのです。
【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年 【 】内は引用】

 ゴダール監督の「水と新緑と光」の描き方は、前述した「フォトジェニーからリズム」の基調を原則とした古典的手法であると感じていますし、『ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)』という作品名にも「フォトジェニーからリズム」への概念が集約されているような気がします。

「草はわたしにおいてあり、わたしなくしてないのか」

という言葉はジャック・シャルドンヌの引用であると『ヌーヴェルヴァーグ』のDVD解説書にありますが、わたしは、これは大陸合理論の哲学者ルネ・デカルトが称えた「方法的懐疑論」の

「われ思う故にわれあり(コギト・エルゴ・スム)」

が意識されている言葉だとも思えました。
 作品テーマのひとつである、人間の自己の分身への投影、すなわち「新しい波」とも重なり合うテーマのような気がしているのです。そして、それは『パリの灯は遠く』でのクラインのユダヤ人クラインを追い求めて破滅した展開を、やはり前向きに捉え、「自分と他とのあいだにある同じものと違うもの」という両面を踏まえ、一人称としての存在である人間の主観が、実は共同社会への働きになるというデカルトの思想を「水と新緑と光」と言う自然界にまで拡げて応用した言葉だと思います。
方法序説
デカルト Ren´e Descartes 谷川 多佳子 / 岩波書店






「イメージ上の時間は視界の外。存在と時間は違う。光は存在と時間を超え永遠に輝き続ける」

という言葉も印象的です。これは恐らく実存主義哲学者ハイデッガーの「存在と時間」を意識しているように思います。
 つまり、他の存在者への配慮と交渉のなかで生きている世界内の存在である現代人は、例えば『パリの灯は遠く』のロベール・クラインのように自己自身を見失いがちで、平均的で無責任であり、主体性の欠落が一般化しています。われわれ現代人は、いつでも不安が多く、限りある存在として、自分以外の者との主体的な在り方を取り戻すことが容易ではない状況をつくり出してしまいました。ゴダール監督はそれを取り戻すため、つまり現代においての愛の昇華の可能性を達成させるために、エレナとロジェそれぞれに死を直面させることによる

「ニヒリズム」

を描いたのでしょう。
存在と時間
ハイデガー Martin Heidegger 原 佑 渡辺 二郎 / 中央公論新社






 このように、ゴダール監督の作品は前衛的でありながらも、映画の手法、学問の引用などには新しいものが少なく、もう古くなってしまった「実存主義」などの現代思想を応用して「現在」における「再生と復活」を描いているように見えるのです。

 彼は真実を求めるために、古きを訪ねて「新しい波」を創作する=温故知新=の映画作家であるとわたしには感じられるのです。
 その古典も「新しい波」であることに変わりはないのです。アラン・ドロン、そしてニーチェもハイデッガーも・・・。
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by Tom5k | 2006-02-26 19:34 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Comments(10)

『ヌーヴェルヴァーグ』③~ゴダール&ドロンの共通点、それは映画の大衆性ではなかったか?!~

 「ヌーヴェル・ヴァーグ」の時代以後、「BBC」の1980年代以前、丁度その中間に位置する1970年代、ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた世代の映画監督であるフィリップ・ガレルは『ヌーヴェルヴァーグ』を評して、次のように語っています。
「『ヌーヴェルヴァーグ』ですごいと思うのは、ゴダールのような左翼とドロンのような右翼とが、互いに衝突しあうこともなく、一緒に仕事をすることができたということです。」
【参考 『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン1 30年前から、ゴダール!』 フィルム・アート社、1991年】

 ジャン・リュック・ゴダール監督とアラン・ドロンが結びつくことなど誰もが思いつかず、全く想像できないほど違う次元で生きてきた者同士のように考えられていました。この作品においても、公開当時から現在まで、何故、彼らが一緒に映画を創ったのかがわからないという意見が未だに一般的であるようです。
 わたしは、『ヌーヴェルヴァーグ』の製作・公開当時から、この作品での二人の関係を理解したいと考えてきました。そのうえで、彼らの映画における「新しい波」を理解したいと思ってきたのです。

 アラン・ドロンが、ジャン・リュック・ゴダール監督や「ヌーヴェル・ヴァーグ」を意識していたことは想像に難くないことです。

 マリアンヌ・フェイスフルを登場させたゴダール監督の『メイド・イン・USA』(1967年)の翌年、アラン・ドロンも『あの胸にもういちど』(1968年)で彼女と共演しています。
メイド・イン・USA
/ ビクターエンタテインメント





 アラン・レネ監督が、ジャン・ポール・ベルモンドを主演させてユダヤ人問題を扱った『薔薇のスタビスキー』(1973年)の3年後には、フランスでは20世紀映画の古典とまで評価されている大傑作『パリの灯は遠く』(1976年)をジョセフ・ロージー監督の下に生み出しました。アラン・ドロンは、常にゴダール監督や「ヌーヴェル・ヴァーグ」を意識してきたように見えます。

 また、ゴダール監督にしてみても最も無視してきた商業映画のスターであるアラン・ドロンが、デビュー間もない時代にイタリアの「ネオ・リアリズモ」のミケランジェロ・アントニオーニ監督、ルキノ・ヴィスコンティ監督の代表作に出演していることまでは無視できなかったと思います。
 「ネオ・リアリズモ」は、テーマや思想基盤、そして映像技術においても「ヌーヴェル・ヴァーグ」の若手演出家たちのお手本ともいえる一体系であったからです。

 アラン・ドロンは、彼の代表作のひとつである『サムライ』(1967年)において、「詩(心理)的レアリスム」の頂点といわれている『天井桟敷の人々』を演出したマルセル・カルネ監督から、演出の希望についての交渉を受けています。
天井桟敷の人々
/ ジェネオン エンタテインメント





 しかし、マルセル・カルネ監督が演出した『危険な曲り角』』(1958年)で、まだ駆け出しのキャリアでしかなかったアラン・ドロンは、監督のカメラ・テストを受けることすら不可能で、ジャック・シェリエにその役を譲った経験を持っていました。負けず嫌いの彼は、9年後、『サムライ』の監督にジャン・ピエール・メルヴィルを選び、マルセル・カルネの交渉を蹴ったそうです。
【参考 『パリの風のなかで』 秦早穂子 著、講談社、1979年】

 こうした経緯を別としても、ドロンが
「ヌーヴェル・ヴァーグの先駆者」
「最もアメリカ的なフランスの映画作家」
「暗黒街映画の巨匠」
と言われていたメルヴィル監督によって『サムライ』を撮ったことは注目すべきことです。

 更にメルヴィル監督はその後、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の主流の作品とは一線を画し、「アラン・ドロン映画」のお抱え監督として、アラン・ドロンに取り込まれていきます。
わがフランス映画誌
山田 宏一 / 平凡社
P248~ 4 ヌーヴェル・ヴァーグ前夜 ヌーヴェル・ヴァーグ前夜ージャン=ピエール・メルヴィルー





 その後、いよいよ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の申し子であるライバルのジャン・ポール・ベルモンドと『ボルサリーノ』で共演を果たしました。

 そして、ジャン・リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』でジャン・ポール・ベルモンドが演じた気狂いピエロことピエール・ルートレル(作品中での主人公本人は「違う、フェルディナンだ」と答えていますが・・・)は、戦前の有名なギャングですが、アラン・ドロンも『フリック・ストーリー』の友人のロジェ・ボルニッシュの実録『友よ静かに死ね』の原作から、今度は刑事のボルニッシュ役ではなく、犯人役でベルモンドの役名に引用されていたピエール・ルートレル(気狂いロベール)を演じます。
 しかも、『ボルサリーノ』も『友よ静かに死ね』も「詩(心理)的レアリスム第三世代」?ともいえる?ジャック・ドレー監督による演出でのアデル・プロダクションによる映画化です。
(注~『気狂いピエロ』の原作については、一般的にはライオネル・ホワイト著の『十一時の悪魔』であると紹介されていますが、種々の引用の多いジャン・リュック・ゴダール監督作品であることから、ジョゼ・ジョヴァンニの『気ちがいピエロ』も原型のひとつであると思われます。少なくても原題である「気狂いピエロ(Pierrot le Fou)」は、戦後のギャング団のボスであったピエール・ルートレルの、このニックネームより引用されていると思われます。)
気狂いピエロ
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 そして、ルネ・クレマン監督が『太陽がいっぱい』で、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の名カメラマンだったアンリ・ドカエを起用したようにアラン・ドロンは『私刑警察』でジャン・リュック・ゴダール監督作品の名カメラマン、ラウール・クタールを起用したのです。

 これらのアラン・ドロンの動向をカイエ派(特にゴダール監督)が表面的には無視しても、本質的に無関心でいられるわけがありません。

 また、「カイエ・デュ・シネマ」誌の若き革新者たちは、ハリウッド映画のアルフレッド・ヒッチコック監督とハワード・ホークス監督の徹底した娯楽性の追求、映画資本に追随しない作家主義を貫いていた映画の創作スタイルを絶賛していました。
 そして、アラン・ドロンの過去の作品や演じてきたキャラクターは、ジャン・リュック・ゴダール監督やフランソワ・トリュフォー監督たちカイエ派の絶賛していたアルフレッド・ヒッチコック監督のサスペンス映画の作風、登場人物たちの類型に非常に近いように、わたしには感じられるのです。

 まず、同一の原作者で有名なものに『見知らぬ乗客』があり、『太陽がいっぱい』と同様にパトリシア・ハイスミスというアメリカの推理作家の作品です。
 『めまい』では、アラン・ドロンそのものの個性ともいえる一人二役をキム・ノヴァクが演じました。
 また、『間違えられた男』では身に覚えのない罪を苦悩するカフカ的テーマをノンフィクションの現代劇として創作していますが、作品のテーマは、ジョセフ・ロージー監督とアラン・ドロンが組んだ『パリの灯は遠く』と非常に類似しているような気がします。
 『サイコ』の分裂病患者も、やはりジョセフ・ロージー監督の『暗殺者のメロディ』での暗殺者フランク・ジャクソンの心神喪失的な役柄が、その系譜であったと思え、
 さらに、記憶喪失と精神分析の深層心理(夢)を扱った『白い恐怖』や、過去の異常体験から詐欺・泥棒・男性拒否に陥った主人公が、心身症状を克服するために過去に退行して自分を取り戻してい『マーニー』などは、『悪魔のようなあなた』での記憶喪失者を扱ったジュリアン・デュヴィヴィエ監督のプロットと同一であるように見えます。
 このように見てくると、アラン・ドロンの主演した作品とアルフレッド・ヒッチコック監督のサスペンス作品とは、多くの類似した傾向があり、わたしなどは、それに気づかない者のほうが少ないのではないかとまで思ってしまいます。
見知らぬ乗客 スペシャル・エディション
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間違えられた男 特別版
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サイコ スペシャル・エディション
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マーニー
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白い恐怖
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 ゴダール監督の『勝手にしやがれ』では、ジャン・ポール・ベルモンドが演じるミシェルが、くわえ煙草で「ボギー・・・・」とハンフリー・ボガードのポスターに呟くシーンがあります。これは、ゴダール監督による、ボギーを通してのハワード・ホークス監督の『三つ数えろ』など、アメリカのハード・ボイルド作品(「フィルム・ノワール」)へのオマージュの場面であることは有名です。
勝手にしやがれ
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三つ数えろ 特別版
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大いなる眠り
レイモンド・チャンドラー 双葉 十三郎 / 東京創元社
『三つ数えろ』の原作





 ハリウッドのB級犯罪映画のアラン・ドワン、ラオール・ウォルシュ、ウィリアム・A・ウェルマン、テイ・ガーネット、マイケル・カーティス、エドガー・G・ウルマー、ジャック・ターナーなどの職人監督たちを絶賛しているのはフランソワ・トリュフォー監督です。

「わたしの考えでは、ハリウッド的なセンスと力量を持っていたフランスの職人監督はジュリアン・デュヴィヴィエとクリスチャン・ジャックぐらいなものでしょう。」
【『わがフランス映画誌(4 ヌーヴェル・ヴァーグ前夜 フランス映画のある種の傾向 P246) (山田宏一著 1990年 平凡社刊)】
と語っています。
 さすがに墓堀人と呼ばれた彼でも、かつて批判してきた「詩(心理)的レアリスム」の巨匠たちを評価せざるを得ないこともあったようです。


 そして、ジュリアン・デュヴィヴィエとクリスチャン・ジャックは二人とも、アラン・ドロンを主演にした作品を制作している監督なのです。

 さらに、アラン・ドロンは、ハリウッドでの成功を目指して渡米する以前、ロミー・シュナイダーと婚約していた時代に、すでにハンフリー・ボガードの犯罪映画をくりかえし観て研究し、彼のジェスチャーはすべて記憶していたといいます。
【『ロミー・シュナイダー事件』 ミヒャエル・ユルクス著、平野卿子、集英社、1996年】

 そして、ハワード・ホークス監督作品の影響を受けていると思われる『望郷』、『霧の波止場』から『現金に手を出すな』までの作品などで活躍した「フレンチ・フィルム・ノワール」の大御所であったジャン・ギャバンは、アラン・ドロンが最も尊敬する俳優の一人です。
 そういったこともあってなのか、彼自身も映画スターとしての全盛期、1960年代後半から70年代にかけて、「ヌーヴェル・ヴァーグ」と縁の深いジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品から「フレンチ・フィルム・ノワール」の世界に入り込み、ジョゼ・ジョヴァンニ監督やジャック・ドレー監督と多くの犯罪映画を量産した後、『危険なささやき』と『鷹』をB級犯罪映画「フレンチ・フィルム・ノワール」の古典的手法で演出しました。


 このようなジャン・リュック・ゴダール監督とアラン・ドロンの過去の映画を遡ってみれば、ともに「ネオ・リアリズモ」、ヒッチコック監督とホークス監督、そして「B級犯罪映画(フィルム・ノワール)」において、実に近い距離にあったと言えるような気がします。


 『ヌーヴェルヴァーグ』では、レイモンド・チャンドラー原作の『長いお別れ(The long good bye)』の引用が非常に印象的です。
 作品中のレノックスは、レイモンド・チャンドラーを読んでいます。
「テリー・レノックスは店の前のロールスロイスの中ですっかり泥酔していた。」

 特に最初にテリー・レノックスという人間をロールスロイスで表現しているこの小説は、『ヌーヴェルヴァーグ』に出てくる自動車を使っての各登場人物たちのキャラクター表現に影響を与えた原因かもしれません。
 リシャールとエレナは色違いのマゼラッティに乗っています。メルセデス・ベンツ、ジャギュア、トヨタ、シトロエン、プジョー、リンカーン・コンチネンタルなどの自動車も各登場人物の個性に合わせて使っているそうです。
【『ヌーヴェルヴァーグDVD解説書』】

 主人公のレノックスという名前もチャンドラーの小説『長いお別れ』のテリー・レノックスからの引用です。
 この小説でも、妻が財力のある家の娘である設定で、彼は非常に卑屈な性格として登場してきますが、たいへん魅力的なキャラクターです。主人公の私立探偵フィリップ・マーロウも、彼の人間的な魅力に親近感を感じてしまいます。レノックスは、妻を殺害してしまい、失踪するのですが、マーロウは決して彼を疑わず、裏切りません。
長いお別れ
レイモンド・チャンドラー 清水 俊二 / 早川書房





 彼の有名なワイズ・クラック。
「こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。」
 そして、レノックスは別の人間となってマーロウの前に現れるのです。

 この『ヌーヴェルヴァーグ』でも、ロジェ・レノックスはリシャール・レノックスとなって再登場します。

 フィリップ・マーロウは、『三つ数えろ』でハワード・ホークス監督により、ハンフリー・ボガードが演じました。そういった意味で、この『長いお別れ』は、ゴダール監督とアラン・ドロンにとって、自分たちに最も近い存在の犯罪小説だったのではないでしょうか?
 だからこそ彼らは『ヌーヴェルヴァーグ』において、ボギー=チャンドラー、すなわちハワード・ホークス監督の「フィルム・ノワール」作品への郷愁を、息の合ったところで表現したのでしょう。

 しかし、彼らは既にフィリップ・マーロウ=ボギーを目指す年齢ではなく、目標や憧憬であったはずの分身を、既に自己に統一できるだけの経験を積んでいました。だからこの作品では、憧憬の対象であったマーロウよりも、彼自身が魅力を感じてしまったたテリー・レノックスを主軸にしたストーリーを展開させていったのではないでしょうか?
 目指していたボギーと同一になり得た彼らにとっては、レノックスを追求していくことの方が、成熟したテーマになりえたのでしょう。

 意外なことのようですが、この二人は全く異なる個性であるにも関わらず、このように実に多くの共通点を確認することもできるのです。

 では、映画人としての彼らの目指してきたものは一体、何だったのでしょうか?

 アラン・ドロンは、心ないインテリの映画ファンから、
「女店員と工場労働者にうける二枚目」とされ
「アラン・ドロンのファンは映画館のモギリ嬢かウェイトレス、都会に憧れる田舎娘ばかりだ。」
などと侮蔑されていたそうです。

【「映画ってやつはな、俺たちのためにできていないんだよ。なにしろ俺たちの芸術的、文学的伝統ときたら重みがありすぎて、俺たちは映画の方へ足を踏み入れることができないんだ。(~中略~)フランスの演劇はブルジョワ芸術さ。アメリカ映画は本質的に大衆のものなんだ。俺たちの間だけの話しだけだがね、実は俺は海の向こうの俳優仲間が羨ましいのさ、あんな観客を相手に芝居できるなんて。アイルランドやイタリヤからの、字だってほとんど読めない移民連中が相手だなんて」が兄の結論だった。】

 これは、『わがフランス映画誌』(山田宏一著 1990年 平凡社刊)の「2 ルノワールからゴダールまで」にジャン・ルノワール自伝からの引用転載で、ルノワール監督が、自分の兄の意見を述懐したものです。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」の若き革新者たちは、このルノワールの兄の発言、つまり映画が本来は大衆のものであるべきだとの主張に共感し、映画の気取った似非の芸術性(フランス映画のある種の傾向「良質の伝統」、具体的には「詩(心理)的レアリスム」の諸作品)を否定していった理由のひとつとしていたのかもしれません。
 ゴダール監督も、自国フランスではルノワール監督を最も偉大で優れた映画人として絶賛していますし、彼らの敬愛したヒッチコック監督やホークス監督も大衆映画の監督でした。

 似非の芸術を忌み嫌い、ジャン・ルノワール監督の自伝や、アルフレッド・ヒッチコック監督、ハワード・ホークス監督の作品づくりから優れた大衆文化を評価するジャン・リュック・ゴダール監督と、あらゆるコンプレックスから、自分の分身を追い求めながらも、自分のなかの本当に大切なものを守り抜いてきたアラン・ドロン。
 彼らががっぷり四つに組んで、この素晴らしい『ヌーヴェルヴァーグ』という作品を創作したことは、映画史上の必然の結果であり、映画監督フィリップ・ガレルが「すごい」という彼らの結びつきも、考えてみれば、何の不思議もなく、むしろお互いが尊敬し合える理想的な接点がこの作品だったのは、ごく自然な成り行きだったのだと思えるのです。

 残念ながら、この『ヌーヴェルヴァーグ』は1990年の第43回カンヌ映画祭のパルムドールにノミネートはされましたが、受賞した作品はデヴィッド・リンチ監督の『ワイルド・アット・ハート』でした。
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 ジャン・リュック・ゴダール監督は、かつてルイ・マル監督やフランソワ・トリュフォー監督らとともに上映ボイコット運動でカンヌ映画祭をめちゃめちゃにしました。

 また、アラン・ドロンは、
「カンヌ映画祭のようなコンペは、フィルム市場にとっても、また映画の威信にとっても必要なことであろうことは認める。しかし賞を予想するということは二次的な行為であり、全くバカげたことである。」
と映画祭での受賞を意識した映画批評や映画製作に対するシニカルな発言をしています。

 こんなことをしたり、言ったりしている人たちには、カンヌ国際映画祭でパルムドールに選定される価値観は無いようにも思います。

 彼らが映画は大衆のためのものであることによって初めて、真の文化・芸術になるということを最もよくわかっている、現在では数少なくなってしまった本物の映画人であることを再認識できるように思うのです。
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by Tom5k | 2006-02-23 18:19 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Comments(5)

『ヌーヴェルヴァーグ』②~映画とは? ゴダールの主張、そして巨匠たちの共通項「アラン・ドロン」~

 映画の初期は今の映画の概念とは異なり、単に風景や事件の「動く写真」でした。それがメリエス、エイゼンシュタイン、チャップリン、シュトロハイム、グリフィスなどの優れた映画の先駆者たちによって、モンタージュ、クローズ・アップ、カット・バック、フェ-ド、オーバーラップなどの技術的な試みがなされ、その後のトーキーやカラー映像の時代を経て、CGを中心とした特殊撮影など現在の映画の在り方まで、創り手も観客もようやく辿り着いてきたわけです。

 19世紀後半から20世紀初頭のフランスにおいては、映画の発案者リュミエール兄弟からトリック撮影の開発を試みたジョルジュ・メリエス、そしてパテ社やゴーモン社により映画が産業化された時代を経て、いよいよ1908年には「フィルム・ダール社」によって『ギーズ公の暗殺』と言う舞台演劇の延長のような作品が制作されます。「フィルム・ダール社」は、その後も多くの芸術作品を量産し、映画芸術を完成させていきます。
 このような歴史的経緯を振り返れば、やはり、映画の初期の勃興はフランスからであり、映画を芸術として「フィルム・ダール(映画芸術)」とした表現も、ここから始まっていったわけです。

 ジャン・リュック・ゴダール監督も村上龍氏との対談で、これらのことを踏まえ、映画の初期を解説しています。
「映画はシネマテークフランセーズで生まれ、ラングロワから学んだ。最初の映画は無声で30年間観客は困らなかった。むしろ、良く理解した。」

 しかし観る側にとっては、映画が特有の表現方法で次々に多くのことを表現できるようになる度に、逆に映画がわかりにくいものになることが多くなってしまったことも事実です。
 つまり観客にも映画を観るに当たっての学習が必要となっていったわけです。
 クローズ・アップなど、あの大画面のスクリーン上に人の顔や手を大写しにされても何のことだか分からず、カット・バックでそれぞれの状況を交互に展開させても、その意味が何なのか、画面転換のフラッシュ・バックに観客の苦情が殺到したり、観せる(創る)側、観る側の映画への創意工夫と解釈には常に困難なギャップが伴っていたようです。
 すべての映画の技巧は、ある約束に基づいて、観る側にようやく理解できるようになっていったものだと思います。むしろ、これらの矛盾こそ、映画の進歩とその原動力であったとも言えるかもしれません。

 ゴダール監督は自らのこの『ヌーヴェルヴァーグ』という作品について
「印象は思い出す。この映画はフランス印象派の最後の末裔です。」
と語っています。
 彼の言っている印象派とは絵画におけるルノワールやモネ、ドガ、後期印象派のゴッホやゴーギャン、センザンヌなどの画家のことを直接指していたようですが、わたしは、ゴダール監督の主張として過去の印象派と呼ばれる映画人たちのことを間接的に指したかったのではないかと思っています。

 映画史の研究家ジョルジュ・サドゥールは、映画芸術理論の映画評論家ルイ・デリュックをはじめ、アベル・ガンス、マルセル・レルビエ、ジェルメーヌ・デュラック、ジャン・エプスタンらの演出家たちのことを「フランス印象派」と呼びました。

 セシル・B・デミルの『チート』(1915年)から影響を受けたフランスの映画人(特にルイ・デリュックのリード)により、フランス国内では映画においての芸術運動が高まりました。
 ストーリーとは直接に関係のない表現技法が最も重要であるとし、映画技術の飛躍的発展に繋がっていきます。カットバック、ロング・ショット、クローズアップ、インサートカット、二重焼つけ、オーバーラップ、画面分割等々の斬新な手法を取り入れて「フラッシュ・バック」を完成させたアベル・ガンスの『鉄路の白薔薇』は、この印象派のテクニカル撮影の到達点だったと言えましょう。

 フランス映画界で新しい時代を創っていったのが、アベル・ガンス監督を筆頭とした印象派の映画人たちでした。後に彼は、『ナポレオン』という超大作で、三面スクリーンをシンクロさせ「トリプルエクラン」という巨大画面での映画上映を成功させ、後のシネマスコープやシネラマなどへの技術的先端を先駆けたのでした。
【参考 『フランス映画史の誘惑』中条省平著、集英社(集英社新書)、2003年】
チート
/ アイ・ヴィー・シー





鉄路の白薔薇
/ アイ・ヴィー・シー





ナポレオン
/ ジェネオン エンタテインメント





フランス映画史の誘惑
中条 省平 / 集英社





 ゴダール作品が難解なのは一般論です。わたしも他の多くの彼の作品を観る度に、いつも考え込んでしまいます。
 わたしには、彼が現在の映画とは異なる概念の映画創作を目指しているとしか思えません。

「この映画はフランス印象派の最後の末裔です。」

という発言から、彼は、まるでこのフランス印象派の時代までタイムスリップし、以降の映画史を創り直そうとしているのではないかとまで思えてしまうのです。

 仮に彼の作品(この『ヌーヴェルヴァーグ』も)が、そういった考えのなかで創作され続けてているのであるならば、彼は何故そのような試みに常に挑戦し続けているのでしょうか?

 彼は、前述してきたように今日の映画のすばらしい技術レベルの向上にも関わらず、
「映画は20世紀以降の芸術であるにも関わらず、19世紀型の芸術から抜け出せないでいた。だからヌーヴェル・ヴァーグが必要だった。」
と語っています。
 更に、現在の彼は、
「映画という手段は、その本来の使い道を見つけられないままであり、50年代後半の我々も、もうすでに遅かった。」
と自分たちカイエ派の作家主義についても総括しているのです。

 これらの言葉は、2度の悲惨な世界大戦という非道を映画芸術により食い止めることができなかったことを悔いているような多くの彼の発言、そして「ヌーヴェル・ヴァーグ」の諸作品のテーマ自体や、彼らがモデルとしてきた「ネオ・リアリズモ」の作風などからも理解することができます。

 そして、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちからの過去のフランス映画、良質の伝統「詩(心理)的レアリスム」への極端な批判に結びついた理由のひとつであり、またカイエ派のみならず、セーヌ左岸派の「シネマ=ヴェリテ(映画=真実)」の主張、特にアラン・レネ監督などの『薔薇のスタビスキー』や『二十四時間の情事(ヒロシマモナムール)』、『夜と霧』、アラン・レネ、クロード・ルルーシュ、ヨリス・イヴェンス、ジャン・リュック・ゴダール、ウィリアム・クレインが参加し、クリス・マルケルが総編集したベトナム戦争を批判した政治ドキュメンタリー作品『ベトナムから遠く離れて』などの作品における成果などにも活かされていった理由であったのかもしれません。
薔薇のスタビスキー【字幕ワイド版】
/ ビデオメーカー





二十四時間の情事
/ アイ・ヴィー・シー





夜と霧
/ アイ・ヴィー・シー





ベトナムから遠く離れて
/ コロムビアミュージックエンタテインメント





 しかし、この『ヌーヴェルヴァーグ』での彼は、年齢と経験から備えていった含蓄からなのか、従来とは異なったキャパシティから「詩(心理)的レアリスム」の諸作品も含めたフランスの映画史を発展的に辿るということを試みたようにも感じられるのです?
 しかも、決裂したかつての同士フランソワ・トリュフォーの葬列にさえ参加しなかった彼が、アラン・ドロンでこの作品を撮ったのですから、これは「奇跡」としか考えられません。

 彼からすれば、映画史の総括は現在から未来に向けた発展的な価値を見出すための試みと挑戦であったのかもしれません。そして、それは更なる「新しい波」を確信した作品の制作であったのだとも思います。
 これらのことが、アラン・ドロンを主演に迎えたことと、作品に『ヌーヴェルヴァーグ』と命名した意味とも重なって来るわけです。

 それでは、彼はこの作品で、具体的にどんなことを主張しようとしているのでしょう?

 『ヌーヴェルヴァーグ』についての村上龍氏との対談において、彼は
「問いであり、答えである。映画が問いに答え、問いかけるのは世界。この映画では理解すべき事は必ず数回反復されます。」
と語っています。
 わたしが、このことから印象に残ったこの作品のセリフは、フランスの文学者であるジャック・シャルドンヌの言葉の数々でした。

「わたしたちは貧乏人よ。」
「むかし、貧富の差があったと未来で言われる。」
「我々は貧乏だ。」
「この時代は終わりだ。良い時代だったと言われるときが来る。」
「良い時代だった」
「やがて生活習慣や感情の幾つかは消える。この社会は終わりだ。良い時代だったと言われる時が来る。いずれは言われるだろう。かつて貧富の差があった。出世の目標や禁断の欲望の対象があった。偶然もだ。」
「言われるだろう。かつて、貧富の差があった。出世も目標や禁断の欲望の対象があった。」


 そして、レストランの場面ではロジェ・レノックスがエレナに語ります。

「考えたことがありますか?僕の過去を。エレナ聞いて。僕の沈黙には訳がある。あなたは鈍感だ。他人も。考え悩み生きる存在です。認めて欲しい。なんと言おうと変わるものは変わる。」
 アラン・ドロンのこのセリフの後にセシル・レゲール演じるウェイトレスが、自らの仕事への苦痛を訴えます。ウェイトレスは自分がブルジョアジーに仕えなければならないことが苦痛であり、彼らに対して憎しみを抱いていることをはっきりと明言するのです。

 1968年1月、映画界では、当時の文化相アンドレ・マルローの文化行政下において、シネマテーク・フランセーズの事務局長であったアンリ・ラングロワを職務解任した新体制に、フランス映画人のほとんどがボイコット運動に関わった「ラングロワ事件」が起こりました。そのなか、ゴダール監督は、フランス全土におけるゼネラルストライキ「5月革命」の発端となったパリ大学ナンテール校を舞台とした『中国女』の創作によって急進的にマオイズムへの傾倒を果たしていきます。
 そして、ルイ・マルやフランソワ・トリュフォーらとともに、カンヌ映画祭での上映ボイコット運動や、旧ソ連邦の「社会主義リアリズム」のドキュメンタリスト、ジガ・ヴェルトフを命名した「ジガ・ヴェルトフ集団」の結成による極左政治ドキュメント作品の創作活動による商業映画否定の実践、等々。
 このように彼は、ラジカルな左翼映画人としての実践経験を多く積み重ねていくのです。
中国女
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 しかしながら、ゴダール監督自身はブルジョア階級の出身であり、自分の育った環境も『ヌーヴェルヴァーグ』の舞台であるトルラート・ファブリーニ家のような裕福な家庭だったと述懐しています。
 作品中の言葉でも
「階級を嫌いつつ、特権を主張する。」
「戦争も平和も同じ。事業と盗みも紙一重です。尻軽女が自由な女となる時を見極めるのも難しい。」
「隷属、貧富、自由、戦争等は生じて消えても本質に関わりない。」
「この時代は終わりだ。良い時代だったと言われるときが来る。」
「良い時代だった」

 これらの表現は、ゴダール監督自身のブルジョア階級の立場からのコミュニズムに関するもののようでもあり、しかもそこに敢えてこだわっているようにも感じられます。

「良い時代」
とは、現在のこのような階級差で上層に存在していること。
「階級を嫌うことと特権の主張」
は労働運動への嫌悪。
「戦争も平和も同じ」
とか
「本質に関わりない」
という言葉は、本来なら公平で希望のある未来に対して、自身はペシミスティックな展望しかもてないということを表現しているような気がします。

 こういったことから、ゴダール監督は未来の公平で平等な社会を予言、かつ標榜しながらも自らがブルジョアジーであることも同時に明確にしているようにも見えてしまうのです。

 そしてわたしは、これらのこととアラン・ドロンをこの作品の主役に抜擢したことの理由を語ったゴダール監督の言葉を合わせて考えたとき、ミラノの大貴族の末裔でありながら、「赤い公爵」と言われ、コミュニズムの立場で社会批判をしていったルキノ・ヴィスコンティ監督や、ブルジョア出身でありながらも、種々の観点から現代社会への批判を一貫させていったミケランジェロ・アントニオーニ監督やジョセフ・ロージー監督を思い浮かべてしまいました。

 アラン・ドロンが俳優として彼らの映画に出演し続けてきた事実、そしてジャン・リュック・ゴダールという現代に生きる数少ない知性と良識の芸術家の演出した作品への出演を望んだこと、それは彼が映画史の一貫した流れに、俳優としての生き様を貫いてきた証明であるとまで思うのです。
 彼を起用していった巨匠たちの共通項となっている「アラン・ドロン」を理解できたとき、わたしはファンとしてのアラン・ドロンに対する賞賛と祝福の気持ちから、感動で胸がいっぱいになってしまったのでした。
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by Tom5k | 2006-02-12 17:03 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Comments(2)

『ヌーヴェルヴァーグ』①~ゴダールが撮ったアラン・ドロン~

 ジャン・リュック・ゴダールを理解しようとするアラン・ドロンのファンは少なく、アラン・ドロンを一流の俳優として認めるゴダール支持者も少ない故、この作品が双方のファン・支持者にとってどう映るのかを考えてしまいました。
 話題性が高いにも関わらず、本質的な評価がされずに放置されてしまう作品にならざるを得ないと思います。

 しかし、わたくしとしては、この作品が製作されたことは「フランスの映画史的な意味においての極めて象徴的な「事件」ではなかったか」とまで思っているところです。

 ハリウッドナイズされたアラン・ドロンのクラシカルな商業映画は、過去のフランス映画の系譜に位置づけられる作品が多いためなのでしょうか?「ヌーヴェル・ヴァーグ」の革新者たちに常に無視され続けてきたように思います。そして、その過去のフランス映画である「詩(心理)的レアリスム」が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」という映画革命により、「良質の伝統」と皮肉られ批判されてきた経緯などはフランスの映画史体系においては特筆すべき事項です。
 そういった意味で、過去のフランス映画と新しいフランス映画が、それぞれの典型・代表である映画理論・思想家、演出家ジャン・リュック・ゴダールと、プロデューサー、俳優アラン・ドロンによって、ようやく止揚され統一されることのできた画期的な作品であるように思うわけです。

 もちろん、現在でも映画芸術と商業映画などの矛盾に関わっては、ゴダール作品とスピルバーグ作品でよく対比されているように、未だ本質的な結論には至ってはいないかもしれませんが・・・。

 かつて「ヌーヴェル・ヴァーグのカイエ派」は、フランソワ・トリュフォーを代表として、ヒッチコック・ホークス主義を標榜した作家主義を称えていました。
 しかし、ゴダール監督は村上龍氏との対談で
「映像が美しいのはコダック(フィルム・メーカー)の力で人物が面白いのは俳優の力です。私の力じゃない。私は名前も出さずにすべてを一つにまとめるだけです。」
と語り、
 他のインタビューでも
「最終的にぼくが作品の作者だけど、重要なのは作品だ。」
「ぼくらは作家政策を論じたとき、自分たちの言っていることを全く理解していなかった。結局ぼくらは勘違いしていたんだ。」
と、当時の自分たちを振り返り、自己批判しています。
 この作品のなかでも
「批評家とは味方を撃つ兵士だ。敵の手先だ。」
とまでの厳しい言葉を、ロール・キリング演ずるドロシー・パーカーに語らせています。 

 そして素晴らしいことに、ゴダール監督は、この作品の主演となったアラン・ドロンとは、本当に一緒に仕事をしたかったのだとも語っています。
「彼の年齢と物腰を思えば、彼が『パリの灯は遠く』や『若者のすべて』や『太陽はひとりぼっち』で見せた何かを再び見たいという欲望でもあったんだ。彼は3本の優れた映画を生みだした。それほど多い数ではないが、それだけあれば充分だ・・・・。」
 そして、
「ドロンを撮るということは一本の樹を撮るのと同じようなことだ。」
とも言っています。
 ヌーヴェル・ヴァーグの諸作品に出演し続けた俳優ミシェル・ピコリも、この作品でのアラン・ドロンについて、
「『ヌーヴェルヴァーグ』は私を驚愕させました。そして今、彼(ゴダール監督)は樹々を映画に撮っています。ドロンもまるで一本の樹のようです。」
と同様の発言をしています。

 ゴダール監督はアラン・ドロンを樹木に比喩し、彼に刻まれたのその年輪やキャリアとしての人生の歩みを撮らなければならない、そして撮りたいと思ったのかもしれません。

ゴダールの神話
/ 青土社




 作品冒頭での
「見事な死がなんだ。金持ちさえ望んでいやしない。死に対する所有欲は消える。」
 アラン・ドロンが演ずるロジェがドミツィアーナ・ジョルダーノ演じるエレナとボートに乗る前の
「何を急ぐんです。ああなんたる空しい努力。不安から逃れられぬ。幾度死ねと。裏切ったのは誰?」
 これらのセリフは、ゴダール監督からアラン・ドロンへのいささか厳しい批判と懐疑を含んだメッセージであり、そして彼を起用したことで作品の主題そのものを表している言葉であるとも考えることができます。

 ジャン・リュック・ゴダール監督の作品は、知識の洪水とよく比喩されており、その作品が能弁であることは自他ともに認めているところでしょう。
 わたしの勝手な思い込みなのか、ゴダール監督の意図的な演出なのかはわかりませんが、この作品にはアラン・ドロンの過去の出演作品が、まさに洪水のように引用され、表現されているような気がしています。

 作品冒頭の交通事故で、ロジェ・レノックスがエレナに助けられ、ブルジョア世界で場違いの生活を強いられながら、妻の殺意に翻弄され、最後にはリシャール・レノックスとなってエレナと愛し合っていくようになる展開は、「詩(心理)的レアリスム」の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の遺作『悪魔のようなあなた』にそっくりです。

 交通事故で記憶を喪失し、自分がジョルジュという大金持ちであると思わされ、妻クリスティーヌに夫ジョルジュの身代わりとしてブルジョアの生活のなかで殺害の対象とされるピエール。最後にピエールとしての記憶が甦り、クリスティーヌの愛を勝ち得て、事件の共謀者となっていく内容は、この『ヌーヴェルヴァーグ』のプロットの基軸となっているようにまで思います。

ロジェ「必要なのは愛で僕はじゃま。」
エレナ「愛は死なずに人は死ぬ。嫌なら愛は去る。」
ロジェ「相手がいる以上無視できない。」
エレナ「いてもいいわ。」
 前半でのエレナとロジェとの確執やこの作品のテーマのひとつである
「夫婦愛を信頼している」
の言葉も、夫の潜在意識により夫婦間の愛情と確執を描いた『真夜中のミラージュ』の主題の引用であるような気がします。

「何を急ぐんです。ああ何たる空しい努力。不安から逃れられぬ。幾度死ねと。裏切ったのは誰?」
 この言葉からは『プレステ-ジ』や、全盛期の死の美学に取り憑かれていたジャン・ピエール・メルヴィル監督やジョゼ・ジョヴァンニ監督、ジャン・ギャバンとの共演作品を代表とする一連のフィルム・ノワール作品、イタリア・ティタヌス・フィルムでのドウッチョ・テッサリ監督『ビック・ガン』や、ハリウッド・ワーナー・ブラザースでのウォルター・ミリッシュ・プロダクション作品であるマイケル・ウィナー監督『スコルピオ』が思い浮かび、

「女が傷つけなくても男は破滅する。女は男を苦しめ命を奪うだけのことだ。」
の言葉からは『サムライ』のヴァレリーとジェフ・コステロ、そして『高校教師』のバニーナとダニエレや、『愛人関係』のペギーとマルクなどの男女関係を想起させられました。
愛情の運命
ジャック・シャルドンヌ 森 健二 / 青山社(神奈川)





 エレナに溺死させられたロジェが、その後にリシャールとして再生し、彼女の元に戻ってくる展開は、『太陽がいっぱい』で刺殺し、『太陽が知っている』で再び溺死させ、『チェイサー』で親友となっても政治の裏舞台で殺害されてしまうアラン・ドロンとの共演作品での死と再生の役割を担っているともいえるモーリス・ロネが思い出され、死んだはずの妻ナタリー・ドロン演ずるリタが再び牧師となったシモンの前に現れる『もう一度愛して』などの記憶が蘇りました。

 更にわたしには、リシャール登場のシーンが、『アラン・ドロンのゾロ』でドン・ディエゴが怪傑ゾロとなって初見参するシークエンスそのものに映ってしまいました。

「死なぬ為に死ぬ」
という言葉は、『山猫』でタンクレディがサリーナ公に言った
「現状維持には変革が必要です。」
のセリフと同様の意味と解釈しています。


「私はもう一人の他者」
というアルチュール・ランボーの詩の引用など、明らかに過去のアラン・ドロンの典型的な作品を象徴している言葉です。
『太陽がいっぱい』のトムのフィリップという分身。
『生きる歓び』のユリスのテロリストへの分身。
『黒いチューリップ』での義賊「黒いチューリップ」の中の個性の異なる双子の兄弟ジュリアンとギヨーム。
『影を殺した男』のウィリアム・ウィルソンのドッペルゲンガー。
『悪魔のようなあなた』のピエールの分身ジョルジュ。
『アラン・ドロンのゾロ』のドン・ディエゴから無能な総督と正義の剣士ゾロへの分裂。
ジョゼ・ジョヴァンニ監督との「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の犯罪更生者の過去の犯罪への回帰。

 ゴダール監督の評価しているドロンの3作品も、この作品に充分反映されています。
 前半の無垢でイノセントなロジェは『若者のすべて』のロッコにそっくりですし、後半に再登場するロジェの分身である実業家でやり手のリシャールのキャラクターは『太陽はひとりぼっち』でのピエロが思い出されます。そして、ロジェが求めて実現したリシャールとういう個性への変貌は、『パリの灯は遠く』で主人公ロベール・クラインが、狂気のなかでユダヤ人クラインという自己の分身を求めていったことへの投影だったかのようです。

 そして、
「第二の自分が現れ自分の影に告白する」
のセリフの後、溺れかけたエレナの手が水から浮かび、レノックスとの愛の再生が表現されていたわけですが、わたしはここで怖い連想に取り憑かれました。
 映画評論家の故淀川長治氏が『太陽がいっぱい』を評してホモ・セクシャリティを描いた作品であるということから、ラストシーンでのヨットのスクリューに絡まった死体の入ったシートから出てきたトムに刺殺されたフィリップの腐乱した手は、愛するトム・リプリーを求めていた手なのだという解釈です。

 しかしこの作品『ヌーヴェルヴァーグ』では、既にコンプレックスを払拭してトム・リプリーを超越しているリシャール・レノックスが、しっかりとエレナの手をつかんで二人の愛の再生・復活へと向っていくのです。

 フランス文学が専門の映画批評家でもある松浦寿輝氏は、この作品でのアラン・ドロンについて
「ここでのアラン・ドロンは、ドロンをドロンたらしめてきたあらゆる衣裳を剥ぎ取られてただよるべなくそこにいる。~(中略)~アラン・ドロンとは本来、『太陽がいっぱい』のように素肌を陽にさらしていようが、『ボルサリーノ』のようにダブルのスーツで身を固めていようが、存在としてポルノグラフィーそのものなのだし、それ以外のものであった試しがない。~(中略)~ドロンはここで自身の肉体を商品化していない、ただ、自分がアラン・ドロンであることをすがすがしく忘れてしまっているのである。」
と解説しています。いささか極端な表現ですが、本質をついた見解だと思います。

カイエ・デュ・シネマ・ジャポン (1)
カイエデュシネマジャポン編集委員会 / フィルムアート社



 確かにゴダール監督は、アラン・ドロンを商品化せず、ドロンのポルノグラフィックな意味でのスター意識は、はぎ取ってしまっているかもしれません。
 しかし驚くべきことに、彼はまぎれもなくこの作品でも「アラン・ドロン」であるのです。
 前述したとおり、ゴダール監督はアラン・ドロンを、「一本の樹の年輪」として自己への分身や過去への回帰・分裂を撮り切ろうとしていったのではないでしょうか?彼自身においても本質的な意味において、裸をさらけ出している作品かもしれません。

「『ヌーヴェルヴァーグ』はフランス的です。外国人にこの映画を語るのは難しい。」
とゴダール監督は村上龍氏との対談で語っています。
 ここで不可解に思うのは、
 アラン・ドロンという俳優は非フランス的と評され、自国フランスのみならず、いやむしろ、他国での人気によって国際市場で活躍してきた俳優であったことです。
 これは、どう解釈すれば良いのでしょう?

 作品中では、エレナは
「ニューヨークに連れて行くなんて良くないわ。フランス語でいうと?つまり彼女にはこの国がお似合いよ。あなたもね。」
とロジェ・レノックスに向けて言い放っています。

 これまでアラン・ドロンを無視し続けてきたたゴダール監督は、この作品を制作する段階で初めて、アラン・ドロンという人物がフランス人としてのフランスの俳優であることを認め、彼の創り出してきた作品の価値を再確認していったのではないでしょうか?

 更にわたしは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」と無縁であったアラン・ドロンを使っていながらも『ヌーヴェルヴァーグ』と作品命名していることの意味が非常に大きいと考えます。

 何故ならば、フランス映画史を塗り替えるほど影響力の大きかったジャン・リュック・ゴダール監督が『映画史』の第1章・第2章を製作後、第3章の製作に取りかかるまでの間に、この作品を生み出しているからです。つまり、この『ヌーヴェルヴァーグ』という作品にも彼は『映画史』の一側面を与えようとしていたような気がしてしまうのです。
  これはフランスの映画史のなかでも前代未聞の出来事ではないでしょうか?
ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章 BOX
/ 紀伊國屋書店



 極端に言えば、戦後世代のアラン・ドロンが主演してきた作品も、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の体系のひとつであったとまで、拡げて解釈することが可能となってしまっているわけです。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」より以前の伝統を受け継いできたこの古いタイプの俳優を使ったこと、この作品の「再生」や「復活」というテーマなどを合わせて考えると、自分たちの批判していた過去のフランス映画の「良質の伝統」の復権が目的のひとつだったとも思えなくもありません。
 ゴダール監督は、それらの名作を過去のアラン・ドロンの俳優としての仕事を通して、彼なりの表現で「新しい波」として現在に甦らせようとしたのではないでしょうか?

 そして、アラン・ドロンが主役に抜擢されたことも彼の波乱に富んだ人生を考えると納得できます。
 彼の少年期は、離婚した両親双方からやっかい払いされながらの生活を送っていましたし、そのため俳優デビュー前は、インドシナ戦線に自ら志願兵として出兵しています。
 ロミー・シュナイダーからナタリー・ドロン、ミレーユ・ダルクへの女性遍歴も有名です。俳優としても「ネオ・リアリズモ」や「詩(心理)的レアリスム」の諸作品での成功にあきたらず、ハリウッドでの成功を目指しました。
 その後もハリウッドに定住せず、自国フランスで「フレンチ・フィルム・ノワール」作品のスターとして全盛期を迎え、独立プロダクションを設立します。国際市場での映画作品に主演し活躍していくことから、実業界にも転身していきます・・・・。
 彼の人生も新しい波と言えるような移動を常に繰り返していました。
 移動するということは自分の分身を追っているということかもしれません。

「考えたことがありますか?僕の過去を。エレナ聞いて。僕の沈黙には訳がある。あなたは鈍感だ。他人も。考え悩み生きる存在です。認めて欲しい。なんと言おうと変わるものは変わる。」

「僕は僕以前にひとりの人間だ。」

 このような言葉から、アラン・ドロンがいつも自分の分身を追い求めてきたことの理由がよくわかるのです。

 そして、移動してきたことを主張することによった過去への回帰を表したラストシーン。

「振り返るな。生還者のいない行程。すべてを味わった言葉も過去の痕跡の中で固まり、無自覚ながらも現在と過去の行為の区別を試みようとしていた不動とともに過去と現在を同じ波と感じた。」
ヒンデミット/交響曲<画家マティス>
イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 ヒンデミット バーンスタイン(レナード) / ユニバーサルクラシック


 やはりこのセリフは、アラン・ドロンの生き様のみならず、彼だけが表現することのできる「ヌーヴェル・ヴァーグ」から「詩(心理)的レアリスム」へのオマージュとも受け取れる意味も孕んでいるように感じます。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」の各エコールから批判、そして無視されていったフランス映画の過去の巨匠たち、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ルネ・クレマン、クリスチャン・ジャックは、ジャン・リュック・ゴダールの自己批判によって『ヌーヴェルヴァーグ』として「再生」、そして「復活」することができるかもしれません。

 ゴダール監督は、アラン・ドロンを主演に据えることだけが、このテーマを表現できる方法であることを充分に想定してこの作品の創作に取り組んだのではないでしょうか?
 そして、アラン・ドロンにしても、その後「ヌーヴェル・ヴァーグ」の申し子であったライバルのジャン・ポール・ベルモンドとの共演によって『ハーフ・ア・チャンス』という作品を、「ヌーヴェル・ヴァーグ」以後にデビューした次代を担う新進気鋭のパトリス・ル・コント監督の演出により実現させていくのです。


 作品中でのロジェに対するエレナの
「ニューヨークに連れて行くなんて良くないわ。フランス語でいうと?つまり彼女にはこの国がお似合いよ。あなたもね。」

 アラン・ドロンを使っていながら『ヌーヴェルヴァーグ』とした作品名。

 思えばフランス人にとっては、ゴダール監督、そしてアラン・ドロンは、アメリカという国に対しての屈折したフランス人の一般的な感情をシンボライズしている存在なのかもしれません。
 ゴダール監督のハリウッド批判は珍しくありませんし、アラン・ドロンにおいても『ハーフ・ア・チャンス』公開時に語っていた痛烈なハリウッド批判が印象に残っています。当時の北海道新聞に掲載されていた記事には、ハリウッド映画の国際的な映画市場の独占状況は、アメリカ帝国主義を象徴しているという内容のものだったと記憶しています。

 わたしはここで、ルネ・クレマン監督のレジスタンス映画の代表作『パリは燃えているか』のワン・シークエンス
「レジスタンスは寄り合い所帯で確執も多い、しかし、今のフランスの敵は唯一ナチスのみだ。」
と言い放ったフランス人のナチス抵抗運動の統一戦線を想起し、

「『ヌーヴェルヴァーグ』はフランス的です。外国人にこの映画を語るのは難しい。」
と、ゴダール監督が村上龍氏に語った意味を、ようやく自分なりに理解できたような気がするのです。
パリは燃えているか?(上・下)
ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール著 志摩隆 / 早川書房
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by Tom5k | 2006-01-28 21:25 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Comments(2)