『冒険者たち』③~『続・太陽がいっぱい』あるいは『続・若者のすべて』~

 久しぶりに『冒険者たち』(1966年)を観ました。
 この作品は、アラン・ドロンが青春と決別した作品といわれているそうです。確かに、この作品以後のアラン・ドロンは、青年というより大人の男性としての役柄が多くなったように思えます。
 渡米したハリウッド作品で、成功を収められずに帰仏した第一作目の作品ということもあってか、青春の挫折をテーマにした素晴らしい青春賛歌の作品となっているように思います。

 また、団塊の世代にとっては、アラン・ドロンといえば『冒険者たち』が代表作品と答える人も多いでしょう。
 恐らく、この作品の登場人物たちのキャラクターが、最も自分たちの世代を投影できる時代的特徴を持っているからかもしれません。

 監督のロベール・アンリコは、『冒険者たち』のDVDに収録されている『都市のスクリーン』でのインタビューの中で、スタジオ撮影が嫌いだったこと、結果的には作家主義的な部分があること、登場人物たちが挑む冒険を詩的な部分まで引き上げ、いくつかのシーンは叙情的で詩的な映像に仕上げたこと、などを述懐しています。
 わたしには旧クラシックのフランス映画「詩(心理)的レアリスム」を「ヌーヴェル・ヴァーグ」の現代に蘇らせたとでも言いたかったように聞き取れました。

 更に、わたしにとっては、小学生のときにTV放映されたこの作品を観て、それまで大嫌いであったアラン・ドロンのファンとなることができた記念すべき作品でもあるのです。

 アラン・ドロンが主演した作品で演じた主人公のキャラクターで素晴らしいものは、この作品以前にも多くあるのですが、特に代表的なものとしてはルネ・クレマンが監督した『太陽がいっぱい』(1959年)のトム・リプリーと、ルキノ・ヴィスコンティが監督した『若者のすべて』(1960年)のロッコ・パロンディを挙げることができると思います。

 前二作品は、アラン・ドロンの単独主演といっていい作品です。
 『太陽がいっぱい』は、あくまで犯罪者トム・リプリーを中心にした展開で物語を進めており、フィリップ(モーリス・ロネ)やマルジュ(マリー・ラフォレ)は重要な役柄ではあってもトムと同等の基準の人物設定ではなく、『若者のすべて』のロッコやシモーネ(レナート・サルバトーリ)、ナディア(アニー・ジラルド)についても、その人物設定においては同様だと思います。
 そういう観点では、『冒険者たち』はマニュを演じたアラン・ドロンの単独主演ではなく、ローランを演じたリノ・ヴァンチュラと同等の共演作品です。また、ジョアンナ・シムカスが演じたレティシアのキャラクターは、非常に良く当時の時代の若者を象徴しており、それは強く印象的ですから、レティシアという登場人物で、その時代的特徴をシンボライズさせた作品とまで言えるのではないでしょうか?

 とは言え、わたしは『太陽がいっぱい』と『若者のすべて』の二作品の男性二人と女性一人を中心とした人物設定などや、普段からこの二作品以後のアラン・ドロンの作品を比較して、どこまでルネ・クレマンとルキノ・ヴィスコンティの演出を超えることが出来ている作品かを検証してしまう習慣癖があり、この『冒険者たち』も、そういった観点からの見方をしてしまうのです。

 詳細をいえば、モーリス・ロネがローランを演じ、マリー・ラフォレがレティシアを演じたなら・・・、レナート・サルバトーリがローランを演じ、アニー・ジラルドがレティシアを演じたならば、どんな作品になっていただろう?と想像してしまうのです。
 あるいは、フィリップやシモーネ、マルジュやナディアが『冒険者たち』の登場人物であったなら・・・。
 まず、フィリップやシモーネがあの優しくて包容力のあるローランだったら・・・ぎらぎらとした若くてエネルギッシュな彼らが、マニュを裏切らずにあのような純粋な気持ちを持ち続けることができるかどうか・・・
 フィリップなら恐らく金と遊行でレティシアをたぶらかしにかかるでしょうし、シモーネならレティシアを犯してしまうかもしれません。

 では、ナディアがレティシアだったらどうでしょう。これは、特に想像し難い・・・まずコンゴの美しい海でマニュやローランと仲良くふざけあう姿を想像できません。もし仮にそれが可能であったとしても、彼女にはレティシアのようなプロポーションの素晴らしさを期待することだけは不可能です。とてもレティシアのようにビキニ姿が似合うようには思えない・・・ひとりでつまらなそうに煙草をふかしながら、早く金塊を見つけるよう二人にいらだちをぶつけそうな気がします。

 むしろ、芸術に堪能でルネッサンス期フィレンツェの宗教画家フラ・アンジェリコに憧憬しているマルジュのほうが、レティシアに近いかもしれません。鉄クズは使わないかもしれませんが、彫刻などのモニュメントの制作や、絵画、写真、舞台、音楽など、芸術にのめり込んで自分なりの個展やコンサートなどを開催することぐらいまでは、レティシアと同様でしょう。全く不自然ではありません。
 しかしながら、残念なことに自立心のない彼女は、個展に失敗したその後には、恐らくローランにぞっこん惚れ込んでしまい、金塊の探索などをそっちのけにして彼にべったりとなり、あげくの果てにはマニュを邪魔者扱いすることになったように思います。

 いずれにしても、『冒険者たち』のような美しい青春賛歌となるためには、トムやロッコが、マニュのように人間を信じ切ることができるようになること、生きることに夢や希望を取り戻すことなどして人間的に美しく成長することが条件になるように思うのです。

 わたしにとっては、トムやロッコが、マニュに成長できたように、演じたアラン・ドロンの成長をも垣間見ることができた作品のような気もしています。

 そして、きっとシモーネやフィリップ、マルジュやナディアにおいてもそれは同様のことなのだと思います。彼らもきっと、ローランやレティシアへと成長出来るはずなのです。

 そういった意味でのアランドロンが過去に演じた主人公では、ジュリアン・デュヴィヴィエが監督した『フランス式十戒』のピエール、ラルフ・ネルソンが監督した『泥棒を消せ』のエディなどが、この『冒険者たち』のマニュのキャラクターを先見していたような気もします。

 また、『冒険者たち』よりも6年後のジャン・ピエール・メルヴィル監督の『リスボン特急』(1972年)も男性二人と女性一人を中心とした人物設定でした。レティシアがカティ(カトリーヌ・ドヌーブ)でローランがシモン(リチャード・クレンナ)だったらと仮定してみると・・・親友ローランの妻レティシアと不倫するマニュ、その不倫に素知らぬ顔をして犯罪を犯し続けるローラン、最後にはマニュに射殺されてしまうローラン・・・。
 でも、こう考えると、逆に大人になることも、何と窮屈で味気なく、そしていやらしいことなのでしょうか。

 そして、アラン・ドロン自らが引退作品としたパトリス・ルコント監督の『ハーフ・ア・チャンス』(1999年)においても、ライバルであったジャン・ポール・ベルモンドとともに、男性二人と女性一人の関係での自らの課題を総括させた傑作だったとも思えるのです。
 父親として、身体を張って愛娘アリス(ヴァネッサ・パラディ)を必死に守ろうとするふたりの老人、ジュリアン・ヴィニャルとレオ・ブラサック、ここに出てくる登場人物は、ルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ジャン・ピエール・メルヴィルなどの過去の恩師による代表作や、このロベール・アンリコの『冒険者たち』に登場する人物たちをアラン・ドロンなりに乗り越えて、若々しく青春への郷愁を取り戻そうとした作品であったのかもしれません。


 現代の社会、特に日本の社会においては、『太陽がいっぱい』や『若者のすべて』の貧富の格差社会、もしくは『リスボン特急』のように欺瞞に満ちた社会から脱皮できないでいる状況なのかもしれないと、わたしなどは思ってしまいます。

 しかし、いつかこの日本にも『冒険者たち』のように美しく、最後には『ハーフ・ア・チャンス』のような微笑ましい人間社会が訪れることを信じたいと強く願ってやまないのです。
 まずは、心底、本当に愛することのできる人を得ることによって、挫折や苦悩を乗り越えていけることを確信すべきだと思うのです。友情や愛情に自信を持つことです。
 そして、多くの挫折や苦しみ、そして、そのなかから人の歓びや苦しみへの想像力を培って本当の意味での優しい人間に成長できなくてはならないように思うのです。

 きっと、アラン・ドロンにしても、愛する美しい妻ナタリーや最愛の息子アンソニーを得ていたからこそ、ハリウッドでの挫折を乗り越えることも可能だったのでしょう。
 彼はレティシア役のキャスティングにナタリー・ドロンの配役を強く望んでいたそうですから・・・。

 『冒険者たち』で見事にフランス映画界に復帰できたアラン・ドロン、その後には残念ながら、この家庭も破局を迎えることにはなってしまいますが、当時の自分にはナタリーやアンソニーの力があったからこそ・・・。それを一番良く理解しているのはアラン・ドロン本人なのだとも思うわけです。

 久しぶりに『冒険者たち』を観て、アラン・ドロンに可能であったことが、われわれ日本人に不可能なわけがないとまで、わたしは思ってしまっているのです。
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by Tom5k | 2009-07-19 15:03 | 冒険者たち(3) | Trackback(2) | Comments(16)

『冒険者たち』②~『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』からの賛美~

 ジョゼ・ジョバンニが関わっている作品は、すべて愛すべき素晴らしい作品ばかりだとは思いますが、淋しくて悲しくなってしまうものばかりです。

 この『冒険者たち』もすべてが、淋しく悲しいのです。ローラン、マニュ、レティシア3人の生き方は悲しくてやりきれません。初めから勝利をつかむことなど、とても無理なのに冒険に全てを賭けてしまう大人になりきれない冒険者たち...。
 レティシアの彫刻の材料が自動車の鉄くずであることや、批評家にさんざんな悪態をつかれてしまう個展も、そして、死とその水葬、貧しい故郷・・・特に博物館の管理をしている朴訥な従弟の少年・・・。
 マニュの片想い、友情を大切にしてしまうローラン、レティシアの死、残された2人の淋しさ、レティシアの故郷を訪れたローランとマニュ、マニュたちに誤解されたまま死んでしまったパイロット、ローランの優しいうそ「レティシアはお前と暮らしたいと言っていた」
それに
「この大うそつきめ。」
と笑いながら死を迎えるマニュ、ラストの延々と続く空からのナポレオンの作った要塞島フォー・ボイヤーの景観、そして、アラン・ドロンの唄う「愛しのレティッシア」の唄(日本ヘラルド映画版)、わたしにはこの作品のすべてが淋しくて悲しいものばかりです。

 アラン・ドロンの唄うこの「愛しのレティッシア」は、彼の淋しい心がとてもたくさん伝わってきます。もしかしたら、主演したアラン・ドロンもハリウッド映画からフランス映画に復帰したばかりで、どこかに淋しく、悲しい孤独な気持ちをまだ残していたのかもしれません。

 レティシアという女性は特に悲しいです。
 『冒険者たち』を想い出にしている世代の多くが、70年代の団塊の世代の人たちだと思います。特に、このレティシアは70年代のシンボルのようなキャラクターであり、『あの胸にもういちど』のレベッカとともに、これら作品の雰囲気が70年代のサイケデリック・カルチャーを象徴する女性の典型のように見えます。
 死んでしまったレティシアが潜水服に包まれ二人の男に抱かれるかのように海底深くに埋葬されるシーンには、クリスチャンヌ・ルグランのスキャットが流れ、心が張り裂けそうになるほど美しく悲しい場面です。極端に言えば、この作品はレティシアの映画なのではないでしょうか。

 監督のロベール・アンリコは、ほとんどの作品をフランソワ・ド・ルーペと組んで創っています。ロベール・アンリコ監督が創り出したこの作品の映像の美しさは、ジャン・ボフェティのカメラによることはもちろんです。しかし、フランソワ・ド・ルーペの音楽による効果が映像の美しさと悲しさの表現を倍加していることも忘れてはならないことだと思います。

アンソロジー(2)
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 彼は趣味だったスキューバ・ダイビング中に事故で若いうちに無くなってしまったそうですが、それはまるで、後にこの作品の影響を強く受けたと言われているリュック・ベッソン監督の『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』の主人公たちのようです。

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 リュック・ベッソン監督は、ジャン・ジャック・ベネックスやレオス・カラックスとともに「BBC」と呼ばれ、1980年代以降のフランス映画界を背負って立っている世代と言われています。
 彼らの特徴は、BD(バンドデシネ)といわれるフレンチコミックス(フランス・ベルギーを中心とした地域でのコミック)から多くの影響を受けているのだそうです。
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BDを代表する漫画家エンキ・ビラルの代表作。本人の演出で映画化。





 これにより『アルファヴィル』や『死刑台のエレヴェーター』『二重の鍵』などSFやサスペンスを現実的なパリにおいて描いていた「ヌーヴェル・ヴァーグ」の手法とは、全く異なった現実離れの虚構デザインで舞台設定した作品群を多く生みだしています。
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 しかし、わたしは彼らの題材そのものの選択においては、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品群と共通のものがあるような気もしています。

 この3人の中でも特に注目すべきなのが、リュック・ベッソン監督の多彩な才能だと思います。彼もまた『最後の闘い』、『サブウェイ』、『フィフス・エレメント』などを観ると、BDの影響の例外に漏れない作風です。
 そして、ジャン・ジャック・ベネックスとともに「ヌーヴェル・ヴァーグ」の批判者であり、クリスチャン・ジャックの『花咲ける騎士道』を再映画化したことなどは、その典型的な反骨であるとも言えましょう。
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 また、フランス映画史上では、どの体系にも位置づけることが難しいロベール・ブレッソンの『ジャンヌ・ダルク裁判』の題材も『ジャンヌ・ダルク』で活用しているように見えまし、『ニキータ』や『レオン』などは、フランス伝統の「フィルム・ノワール」の復活を狙った作品とも言えるような気がします。
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 更に海洋ドキュメンタリーの『アトランティス』は、『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』と同様に海をテーマにしたものですが、「沈黙の世界」でベストセラー作家となったジャック・イブ・クストーがルイ・マルと共同監督した海洋ドキュメンタリー諸作品の影響を強く受けているとも考えられます。
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 リュック・ベッソン監督は、ご両親がスキューバ・ダイビングのインストラクターであったため『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』の舞台であった地中海沿岸で育ったそうです。
 ロベール・アンリコ監督の『冒険者たち』のコンゴ沖の海の美しさと、リュック・ベッソン監督の『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』の地中海の美しさは共通するものを多く持っています。そして、登場人物たちの感性も。
 エンゾの死とレティシアの死、マニュとローランの友情とジャックとエンゾの友情、都会の喧噪を嫌うジョアンナとレティシア、そして、素晴らしい海の美しさと、人間同志と海への愛情、死の哀しみと寂寞。

 主人公の女性のジョアンナという名とともに『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』が『冒険者たち』への賛歌であるとわたしにも感じる取ることができました。そのとき、わたしはリュック・ベッソン監督の作品が、フランス映画史を全て吸収しようとしているかのようにも感じたのです。

 それと同時に、彼の才能に今までのフランス映画を超える素晴らしいの作品を、多く量産して欲しいと期待してしまうことを禁じ得ませんでした。
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by Tom5k | 2006-01-03 00:57 | 冒険者たち(3) | Trackback(2) | Comments(13)

『冒険者たち』①~アラン・ドロン「フレンチ・フィルム・ノワール」への助走~

 1950年代にフランス映画界で最も活躍したジャック・ベッケル監督は、大監督ジャン・ルノワールと最も親交の厚い師弟関係にあった人です。彼はジャン・ルノワール監督から多くの影響を受け、「フレンチ・フィルム・ノワール」を『現金に手を出すな』や『穴』で完成させていった歴史的な映画監督です。
 その作風は「フレンチ・フィルム・ノワール」作品以外にも多岐にわたり、優れたものばかりだそうですが、最も有名なのは、ジャン・ギャバンを主演にした『現金に手を出すな』でしょう。わたしは、この作品が、それまで主流であった「詩(心理)的レアリスム」の中でも、特にアメリカのハワード・ホークスの影響を受けていた暗黒街を舞台にしたジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『望郷』や、マルセル・カルネ監督が脱走兵の絶望的な恋愛を描いた『霧の波止場』などの系譜をクールな男の美学に昇華し、パリの夜を舞台にした典型的な「フィルム・ノワール」作品として貫徹させたものだと思っています。しかも、主演はジャン・ギャバンです。
Stockholm Concert 1966
Ella Fitzgerald Duke Ellington / Prestige/OJC





 そして、ディーク・エリントンを師事し、ジャズが大好きであったジャック・ベッケル監督は、「フレンチ・フィルム・ノワール」の主題を、パリの暗黒街を舞台に「グリスビーのブルース」というモダン・ジャズによって表現したのです。

 1957年、ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』で使われたマイルス・デイヴィスのトランペットは、その後にシネジャズという体系を創り出しましたが、それより3年前の1954年、この「グリスビーのブルース」に影響を受けていたとはいえないでしょうか?
死刑台のエレベーター(完全版)
マイルス・デイビス ピエール・ミシェロ ルネ・ユルトルジュ バルネ・ウィラン ケニー・クラーク / ユニバーサルクラシック




 そして、『穴』ですが、これも徹底して無駄な装飾を省き、男性的で寡黙な行動美で貫かれています。
 後にアラン・ドロンと素晴らしい「フレンチ・フィルム・ノワール」作品を創り出していったジョゼ・ジョヴァンニ監督。彼は犯罪者であった経験を持っています。『穴』は彼がギャング時代、ラ・サンテ刑務所からの脱獄経験から著した同名小説の映画化です。
穴〈デジタルニューマスター版〉
/ ビデオメーカー





 主演は極刑を受けた5人の個性的な服役囚です。「神父」の渾名のヴォスラン、女好きなジョー、新顔のガスパール。

 そして、マニュとローランです。

 マニュとローランは、レティシアとコンゴで財宝を探すロマンチックな冒険の前に、こんな恐ろしい刑務所からの脱獄に挑戦していたのです。

 ジョゼ・ジョバンニは、この作品のシナリオを担当し、映画界でのキャリアが始っていきました。同様に『冒険者たち』の原作もシナリオも、彼が務めました。
 その後、『冒険者たち』のリメイク(後日譚)を『生き残った者の掟』として、自ら監督デビューを果たしたわけです。

 『生き残った者の掟』では、マニュもローランも仲間との絆の大きさを失った喪失感の方が手に入れた財宝よりもずっと大きく、ローランなどは所帯を持って身を固めてしまっています。
 マニュも心の隙間を埋める為に売春宿に通い、そこで一人の女に巡り会います。その女はわけあって、そこに囚われていますが、マニュはその女に惚れきってしまいます。そして、ふたりは愛し合い、そこから運命の逃避行。しかし、その女の隠されていた過去は償いきれない仲間への裏切りだったのです。
 裏切り者として「生き残った者の掟」は残酷で悲しく、やりきれないものが残りました。
生き残った者の掟
ジョゼ・ジョバンニ 岡村 孝一 / 早川書房





 ここでは『穴』でジョーを演じたミシェル・コンスタンタンがマニュを演じました。彼は本当にパリのヤクザのような風貌です。この『生き残った者の掟』では、ハードで自然な演技により、見事に男の世界、男の美学を創り出しました。

 非常に不思議なことなのですが、彼は主演、助演にかかわらず多くの暗黒映画に出演しており、彼の共演者たちもアラン・ドロンと組んだ多くの監督、俳優と一緒に仕事をしています。それにも関わらず、アラン・ドロンとだけは共演していないのです。このことは、以前から本当に不思議で仕方がありませんでした。
 監督でいえばロベール・アンリコ、ジャン・ピエール・メルビル、ジェゼ・ジョバンニ、テレンス・ヤング、ジョルジュ・ロートネル、ジャック・ドレー、アラン・カヴァリエ。 共演者ではジャン・ポール・ベルモンド、チャールズ・ブロンソン、リノ・ヴァンチュラ、ミレーユ・ダルクそしてジャン・ルイ・トライティニャンとまで共演しています。他にもクラウディア・カルディナーレ、ポール・ムーリス、ウルスラ・アンドレス、センタ・バーガー、ブールヴィル、ミシェル・ブーケ、ベルナール・フレッソン、クルト・ユルゲンス、アン・マーグレット、マルセル・ボズフィ等々
 ともにマニュを演じ、「フレンチ・フィルム・ノワール」の立役者であったふたりが共演した作品をわたしは是非とも観たかったのですが、本当に残念でなりません。

 いずれにしても、わたしは、アラン・ドロンが後にジャン・ギャバンの後継者の代表格として、多くの「フレンチ・フィルム・ノワール」の傑作で主演を務めていくことになった原点のひとつが、この『冒険者たち』で主演を務めた経験にあると思うのです。
 彼は『冒険者たち』の主演の一人として、この作品が創作されるまでの歴史を肌で感じ取ったこと、特に原作者であり、シナリオを担当していたジョゼ・ジョバンニとの接点が、その後の「フレンチ・フィルム・ノワール」に貢献した非常に大きな要因だったのではないかと思っています。re
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by Tom5k | 2005-12-30 16:59 | 冒険者たち(3) | Trackback(8) | Comments(13)