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『生きる歓び』②~ルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティへのライバル意識~

 イタリアの「ネオ・リアリズモ」作品で活躍していた当時のルキノ・ヴィスコンティは、『揺れる大地』』(1948年)と『若者のすべて』(1960年)を撮り終えたときに将来的に描きたい映画作品のテーマについて、恐らく彼の当時のライフワークの指標・目標としてだと思いますが、次のように述懐しています。
揺れる大地 海の挿話
/ 紀伊國屋書店




【「揺れる大地」と「若者のすべて」に続いて第三部をなす「人民のたたかい」を描いた映画を作りたい。しかも、最初の作品が敗北の物語であり、二番目が半ば敗北の物語であったのに反し、こんどは人民の力を確認させるような、勝利の物語を描きたい。】
【引用 「世界の映画作家4 フェデリコ・フェリーニ ルキノ・ヴィスコンティ編」キネマ旬報社】

 この壮大なライフワークは残念ながら果たされることはなく、その後の彼は「人民のたたかい」ではなく、自ら帰属していた貴族社会の崩壊を耽美的に描いていくことになります。

 また、自国フランスで独自のリアリズム作品で脚光を浴びていたルネ・クレマンは自作『太陽がいっぱい』で、ルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』より早く、アラン・ドロンを起用しました。これらのことなども契機となっていたのか、彼はこのイタリアの「ネオ・リアリズモ」の名匠をかなり意識して『生きる歓び』(1961年)を撮ったようにわたしには思えます。

 例えば、アラン・ドロンの出演はもちろんですが、他のキャスティングにおいても、いわゆるヴィスコンティ一家で著名な俳優を二人出演させています。
 フォサッティ一家のお母さんを演じたリナ・モレリは、舞台では『恐るべき親たち』、『アンチゴーヌ』、『出口なし』、映画では『夏の嵐』、フォサッティ印刷工場の隣接の散髪屋の主人を演じているパオロ・ストッパは、舞台では『慈善の虚栄』、『甘いアロエ』、『アンチゴーヌ』、映画では『若者のすべて』で、彼らはいずれもルキノ・ヴィスコンティの演出した作品に多数出演していた名優なのです。

 また、『生きる歓び』は、『若者のすべて』と同様にイタリアの大都市を舞台としたものであり、登場人物の設定においても『若者のすべて』は、主人公の青年ロッコとその4人の兄弟の物語でしたが、この『生きる歓び』も3男1女の兄弟妹を含めた大家族の生活を背景とした物語なのです。

 そして、冒頭での列車・駅舎のシークエンスから、兵役義務を終えたアラン・ドロンが演じるユリスとジャン・ピエロ・リテラが演ずる友人ツリドが職に有り就けず、これから路上生活者となるかもしれないという状況へのプロットも『若者のすべて』で、大都会ミラノに着いたばかりのパロンディ一家の設定と似ているように感じました。
 そのときに青年達が被っていたカンカン帽は『若者のすべて』でレナート・サバートーリ演じた次男シモーネが身につけていましたし、ハンチングはどちらの作品でもアラン・ドロンが被っていました。

 ジーノ・チェルヴィが演ずる印刷工場の主人フォサッティがユリスに家族を紹介するときの
「ユリスという名もいい 聖人の名ではないから」
の台詞にも、明らかにルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』でアラン・ドロンが演じた聖人ロッコ・パロンディのキャラクターが意識されたうえでのものだったと察することができます。

 当時のルキノ・ヴィスコンティは「赤い公爵」と呼ばれ、貴族でありながら左翼思想をもって映画創作のテーマを追求する作家でした。
 ルネ・クレマンがそのことを意識していたのか否か?この作品は19世紀に活躍したロシアのアナーキストであった思想家ミハイル・バクーニンをフォッサッティ一家とその仲間達の思想基盤として設定しています。バクーニンがイタリアに滞在していた時代には『山猫』での重要な人物背景、ジュリアーノ・ジェンマが扮した共和主義者ガリヴァルディとの親交もあったそうです。
 なお、彼はコミュニストでしたが、同時代のカール・マルクスの思想・信条とは相容れず、革命派としてはテロル行為自体にも否定的であったようです。
 ですから、この作品が最終的には左翼のテロ行為を否定的に描いていること、そして、舞台はファシスト党が台頭する前の1921年のローマですから、まだ合法的に組織されていたイタリア共産党の存在があったことなどから、地下運動組織の思想基盤をマルキシズム(マルクス主義)とせずにアナーキズム(無政府主義)としたことは、作品の設定としては整合しているように思います。


 ところで、この作品の序盤、「自由」という言葉が随所で使用されていることが、わたしにはたいへん気になるところでした。

 まず、ローマでの兵役義務に就かせるために、身寄りのない子供たちを育てるための育児施設で成長した青年達を引率してきた神父は、
「君達は自由だ」
と言って彼らをローマの兵舎へと送り出しました。

 そして、主人公ユリスとその友人ツリドが兵役を終えて除隊するとき、彼らのローマで働きたいという願い出に対して、
「君達は一人前だ 自分で探せ 君達は自由だ」
とその部隊長は言い放ちます。

 彼らがレストランで昼食を注文するときの会話でも、
「お前は自由人だ 自分で選べ」
ユリスは、ハムを選んだツリドを批判して、ハム・チーズ・ピーマンを選び、
「これが自由人の選択だ」
と誇ります。

 ユリスのフォサッティ家での初めての夕食時に、この家の屋根裏部屋に居住しているカルロ・ピサカーネ演ずる祖父が孫に馬鹿にされて怒号するときの
「私はアホウではないぞ 下の君達を見守る“自由”なのだ」
の台詞でも使われています。

 元来、英語での「自由」の意味には、制限や抑圧がないことを意味するフリーダム(freedom)、抑圧からの解放によって選択肢を持つことができることを意味するリバティ(liberty)とがあります。
 また、社会主義思想における社会批判に立脚した「自由」の定義は、労働者階級にとって労働力を売ることの「自由」と拘束されていた故郷(土地)から移動する「自由」があること、逆にそれ以外には社会的に何の保証も無いとしています。
 フォサッティ一家が信奉しているミハイル・バクーニンの思想での「自由」の定義では、教育や科学的訓練、物質的繁栄によって全人類がその才能や能力を十全に発達させることによって成り立つものとしているそうです。

 この作品でその都度言葉として放たれている「自由」は、それぞれにどの「自由」が当てはまるのでしょうか?


 フォサッティ一家の信頼、特に大好きなフランカからの愛情を得るため、ユリスは左翼の英雄になろうとして屋根裏のお爺ちゃんに協力を求め、その特訓により英雄カンポサントに偽装変身することになりました。

 その彼が、それらしく聖堂の鐘楼塔にアナーキストの旗を設置する様子を真上から捉えた俯瞰のクローズ・アップから、石材の切片が演ずるアラン・ドロンの頭を打って下方地上に落下していくショットには愕然としました。このような危険な演技に特殊撮影を使用せず、しかも彼が鐘楼塔側に鉄棒を伝わって旗を結ぶまではノースタントの撮影なのです。
 ですから、このアクションは凄く迫力を生み出しているショットとなっています。
 もしかしたら、この翌年の『地下室のメロディー』(1962年)でのカジノからの現金強盗でのシークエンスは、ここからの模写だったのかもしれません。

 ユリスとお爺ちゃんの屋根裏部屋での学習会はたいへん微笑ましいものでした。
 ここで、わたしが特に着目したところは、お爺ちゃんのユニークな無神論の説諭です。
 聖職によった育児施設で育ったユリスは、もちろん神様を信じていますが、お爺ちゃんは老社会主義者であるので、神が存在しないことを力説します。
 その微笑ましいシークエンスでは、「平和の象徴」である鳩が彼らの学習している屋根裏部屋を舞うのでした。

 ルネ・クレマン監督は、『若者のすべて』で宗教から解放されずに悲劇の招聘者となっていた聖人ロッコ・パロンディの悲劇的要素、その封建性を、その対局に位置付くコメディックでハッピーな主題として『生きる歓び』のユリスの現代性に脱皮させて、この作品を創作したようにわたしには感じるのです。

 そのような意味からアラン・ドロンについては、確かに『太陽がいっぱい』とは異なる明朗なアイドル路線で登場させていますが、前作のトム・リプリー=フィリップ・グリーンリーフと同様に、ユリス=カンポサントの分裂した二重構造の人格として描かれています。ルネ・クレマンからすれば、封建時代とは異なる現代青年の人格は、どのような形態であれ分裂させざるを得ないのでしょう。

 また、これはルネ・クレマン監督がアラン・ドロンに向けて、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』で演じた封建的青年ロッコから、無産階級として現代社会で生きざるを得ないときの現代青年ユリスへと改造しながら、彼の将来的な人格成長の目標、その指標を示したと考えることもできます。
 なぜなら、1965年『パリは燃えているか』でのレジスタンスの闘士ジャック・ジャバン・デルマスを演じることができる俳優として見事に成長していったこと、現在ではフランス国内で右翼として位置づけられている彼個人の思想・信条が、ドゴール主義への信奉から共和党支持へと変遷していったものとして一般的に解釈されていることなど、から理解できることなのです。

 印刷工場の主人フォサッティが「聖人」という概念を否定していることや「自由」という言葉が頻発されることからも、斜陽の貴族の末裔であったルキノ・ヴィスコンティと第二次世界大戦でファシズムに勝利した統一戦線レジスタンスを信奉していたルネ・クレマンのアラン・ドロンの使い方の違いが鮮明にわかります。

 『若者のすべて』のロッコは、自分の労働力を売ることも自由であり、生産手段である土地、自らが縛り付けられていた土地からも自由だったかもしれませんが、更に、家族や故郷のしがらみからも解放するとユリスのような明るい青年になるのかもしれません。まさに失うものなど何も無く、得るものが全世界であるというコミュニズムの原点が、ここに描かれているようにも思えます。

 いずれにしても、アラン・ドロンは、『生きる歓び』によって「政治的」レベルの信条を見出して社会的に活躍する術を得る契機にできたとも考えられるでしょう。

【(-略)役者を始めた頃は、私は「ハンサムな間抜け」だった。その後は何かを見出さなくてはならなかったんだ・・・(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」


 更に、1990年にジャン・リュック・ゴダール監督が『ヌーヴェルヴァーグ』でアラン・ドロンに演じさせたロジェ・レノックスからリシャール・レノックスへの変身プロセスの解釈に、このお爺ちゃんとユリスが触れ合った学習会を位置づけてみると、実にすんなりと納得できるものになります。

 お爺ちゃんの特訓を受けて、虚偽ではあったものの見事に革命の社会主義者の英雄カンポサントに変身したそのユリスの姿に、

圧政から民衆を救う黒いチューリップや怪傑ゾロ
アウシュビッツ収容所へ自らを葬ることで、憧憬してしまった謎のユダヤ人と同一化する異常な願望を果たすことが叶ったロベール・クライン
そして、いよいよ
愛を再生させるため、実業家に変身して、最愛のエレナの前に姿を現したリシャール・レノックス

などをを想起してしまうのです。

すべては、このお爺ちゃんからの教示によって、アラン・ドロンは二つ目の人格を持てるようになったとは考えられないでしょうか?

 この作品にはアートとしても印象的なショットが多数ありましたが、特にユリスが地下の印刷現場の天井と路上にある天井窓の格子蓋から、自転車を駐輪するときのバルバラ・ラスが演じたフランカの脚が覗くショットは実に美しく、セクシュアルな想像も併せて掻き立てられてしまうところです。
 格子窓から覗く女性の脚を格子の影とのストライプのコントラストで表現する技法は映像表現上の前衛すら感じさせます。

 それにしても、『居酒屋』のジェルヴェーズ、『太陽がいっぱい』のマルジュ、『禁じられた遊び』のポーレットでさえ、女性としての悲惨を描くことの多かったルネ・クレマン監督は、この作品のフランカには例外的に幸福な結末を付与しました。
 フォサッティ一家の一人娘フランカの名前はフランスで最も早く独立を勝ち取ったフランカ・コステロから命名したと、父フォサッティはユリスに説明します(ただしフランカ・コステロという自治国家が実在したのか否か疑問ですが?)。
 わたしはルネ・クレマン監督が、しっかりとした考え方に裏付けられた自立心の強い女性は必ず幸福になれるということをこの作品で主張したのだと考えているのです。
禁じられた遊び/居酒屋
/ アイ・ヴィー・シー


 初めにユリスを拒否していたことも地下の作業所からの覗き行為があったからかもしれませんし、ユリスを認めた初めの動機は彼が左翼の英雄カンポサントだったからでしょう。
 このように彼女は、確かに表層的な部分のみで男性を判断する軽率はあるものの、決して女性特有のセクシュアルな魅力で男性を惹きつけようとする小悪魔的な行為などは採りませんし、若いけれど男性に依存せずに自分のアイデンティティをしっかり持っている現代的な女性なのです。

 そして、最終的には英雄カンポサントであることの虚偽が露わになることも厭わず、勇気をもってローマ市民をテロルから救うために行動したユリスを心から愛してしまいます。フランカとユリスは、美しく愛し合う男女の未来における理想の姿のように思います。
 もしかしたら、ルネ・クレマン監督は退廃した現代の多くの若者たちに対して、この複雑な現代においてでも、活き活きと愛し合う恋人たちの美しい在り方を指標・目標として持てることを示したかったのかもしれません。

 そのような意味から、わたしは、この作品はライト・コメディという様式・スタイルで制作されていながらも、ルキノ・ヴィスコンティが目標としていた

「人民の力を確認させるような、勝利の物語」

と規定できる範疇の作品なのかもしれないと確信してしまったのです。

 つまり、ルネ・クレマンの描きたかった人民の理想の姿が、映画作家としてルキノ・ヴィスコンティをライバル視したことから生み出されたものだったのかもしれないという考えにまで、わたしは至ってしまったのです。

【『禁じられた遊び』(51)は、その物悲しいナルシソ・イェープスの主題メロディと共に、クレマンの名を世界に高からしめた名作だが、あの作品には戦災孤児の幼い娘の悲劇を通してクレマンの反戦の主張が痛切にこめられていた。ヌーヴェル・ヴァーグの若手連中に対抗してつくられたサスペンス劇『太陽がいっぱい』(59)は、やはりあの甘悲しいニーノ・ロータのメロディによって印象に強いが、あそこにも貧困者の金持ちに対する反感を通して、資本主義社会への矛盾への問いかけがあった。だから彼がコミュニストではなくとも、進歩的な思想の持ち主であることは間違いなかったわけだが、彼は思想をナマで表現するような監督ではなく、それは常に斬新な映画表現を通して語られた。】
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】

海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)

田山 力哉 / ダヴィッド社


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by Tom5k | 2010-11-07 01:56 | 生きる歓び(2) | Comments(7)

『生きる歓び』①~アクシデントの効用~

 ジャン・コクトーは、詩人であるとともに、映画人、小説家、舞台演出家、評論活動家等々、芸術全般に渡って活躍した才人でした。彼は19世紀終わりからのフランスで、文化・芸術の最も繁栄していた「ベル・エポック」の時代以降を疾走し、センセーショナルなコクトー芸術を確立していきました。
世紀末とベル・エポックの文化
福井 憲彦 / 山川出版社






評伝ジャン・コクトー
ジャン=ジャック キム アンリ・C. ベアール エリザベス スプリッジ 秋山 和夫 / 筑摩書房





 映画人としての活躍も素晴らしいものばかりです。
 ルネ・クレマンを技術担当として迎え、ディズニーのリメイクで有名な映画史に残る名作『美女と野獣』を創作していますし、ロベルト・ロッセリーニ監督の『アモーレ』やジャン・ピエール・メルヴィル監督の『恐るべき子供たち』の原作も彼が書いたものです。また、ギリシャ神話のオルフェウス伝説をモチーフにして、自ら演出した『オルフェ』も素晴らしい作品であり、映画人としての彼の残した実績は賞賛に値するものばかりです。
アモーレ (トールケース)
/ アイ・ヴィー・シー





オルフェ【字幕版】
/ アミューズソフトエンタテインメント





ジャン・コクトー DVD-BOX (トールケース仕様)
/ アイ・ヴィー・シー





 そして、ジャン・コクトーはジャン・ピエール・メルビル監督らとともに「ヌーヴェル・ヴァーグ」の父、「新しい波」の第一波ともいわれています。
 その大きな業績として特筆すべきは、1949年、アレクサンドル・アストリュックとともにシネマクラブ「オブジェクティフ49」を結集したことです。そして、それは「カイエ・デュ・シネマ誌」のアンドレ・バザンのもと、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の主要メンバーたちとともに第1回「呪われた映画祭」のビアリッツでの開催に結びついていきました。
 これは、オーソン・ウェルズの演出した『マクベス』がヴェネチア映画祭で不評だったこと、ハリウッドでも、またヨーロッパにおいてさえ受け入れられることが不可能になってしまったことを比喩し、「呪われた映画作家」と命名して、彼と彼の作品を擁護することを主な目的として開催したものです。
 この映画祭が画期的だったことは、ジャン・コクトーの呼びかけに応じて、「ヌーヴェル・ヴァーグ」諸派とは毛色の異なるロベール・ブレッソン、後に彼らに批判されていったルネ・クレマン、ジャン・グレミヨン、文学者のクロード・モーリヤックなどがこれを支持したことです。

 ルネ・クレマン監督の『危険がいっぱい』などには、『恐るべき子供たち』で撮影を担当したアンリ・ドカエのカメラを通して、ジャン・コクトーの作品『美女と野獣』での「光と影」の光芒を効果とした映像技術の影響を強く受けていると感じます。
 衣装デザインをピエール・バルマンというトップデザイナーとしたことも、『恐るべき子供たち』で「パリ・オートクチュール・メゾン」のデザイナーであったクリスチャン・ディオールを使ったジャン・コクトーの影響だったようにも思います。
クリスチャン・ディオール
マリー=フランス ポシュナ 講談社インターナショナル 高橋 洋一 / 講談社





 彼は、『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンの強い要望から、主役のフィリップとトムの配役を変更して大成功を収めました。その演出でのヨット上でのトム・リプリーがフィリップを刺殺するシークエンスでのサハラから地中海に吹く熱風による突風のアクシデントも有名な逸話です。それは作品のリアルな成果に結びつけることができたという「予定外の撮影」の逸話としての映画史的な評価を受けるべき撮影でした。
 また、映画史的傑作『禁じられた遊び』も、当初は短編オムニバスの予定であったものを資金オーナーの破産から長編に変えて成功した事例でした。

 ルネ・クレマン監督は、このような逸話には事欠いていないようです。そして、それが何故なのかを手繰っていったとき、彼の映画創作における知恵と工夫は、若い頃に出会ったジャン・コクトーから享受されたもののようなのです。

 ジャン・コクトーは『美女と野獣』で一緒に仕事をしたときから、ルネ・クレマンに対して「Sois toujours pret pour I′accident.(アクシデントには常に身構えておけ。)」
(参考~『巨匠たちの映画術』西村雄一郎著、キネマ旬報社、1999年)
と教えていたそうです。

 『生きる歓び』は、ストーリーそのものがアクシデントの連続であり、アクシデントそのものが主題となっていると言ってもいいような作品です。また、テロリズムを扱ったブラック・ユーモアと絡めているとはいえ、素晴らしくチャーミングな出来映えで完成されています。カンヌ映画祭ではパルム・ドールにノミネートされ、ベスト・セレクション作品として選定されました。

 育児施設で育ったアラン・ドロン演じるユリスはファシスト集団に雇われ、ローマの反ファシスト集団のアナーキスト一家にスパイのようなかたちで潜り込んでしまいます。ところが、そこの家族みんなが魅力的で、善良で親切な人の良い人たちばかりだったので、彼らに気に入られるために自らアナーキズムを支持して、そのテロリストを演じてしまうのです。
 特に、バーバラ・ラス演じる娘フランカがとても愛らしくて、本当に素敵なヒロインを演じています。そして、ルキノ・ヴィスコンティ一家のリナ・モレリ演じる優しいお母さんも、たいへん素敵で優しい役柄で、彼女としては『山猫』のサリーナ公爵夫人とは全く異なった演技でした。名女優とはこれほど変幻自在な演技の表現が出来るものなのかと驚いてしまいます。

 ユリスは屋根裏に引きこもっているカルロ・ピザカーネ演ずるお爺ちゃんを味方につけて、アドバイスを受けます。自分がアナーキストでテロの使命を持っている者だと一家に誤解させ、家族達の尊敬を集める計画です。計画はうまく進み、フランカも態度を変えてユリスを敬愛するようになりました。
 ところが、そんな状況に本物のテロリストが出現してしまいアクシデントの連続となるのです。
 ユリスは、いくらフランカに好かれて家族のみんなに尊敬されても、罪のない人達をテロリズムによる犠牲とすることはできず、そのテロ行為をくい止めるために奔走します。自分がテロリストであることを演じながら、関係のない多くの人々を救うために本物のテロリストの計画を無し崩しにしていくのです。
 最後にはユリスが偽りのテロリストであったこともフランカにわかってしまいますが、ユリスが多くの人々の危険を救ったことで、彼女は彼を愛するようになり二人の恋は成就したのでした。

 ところで、テロリズムの語源は、フランス革命期のロベスピエールの恐怖政治からだそうで、権力者が対立する者を抹殺した場合をテルールと定義したそうです。現在は、権力側が武装抵抗をテロと呼んぶようになっています。正確にはアナーキスト側によるテロを「赤色テロ」、権力側によるテロを「白色テロ」と区別されているようです。この作品で扱われているのは「赤色テロ」といえましょうか。

 この作品で特に印象的なのは、アラン・ドロンが最も得意とする二重人格(性格)というキャラクターが、ここでは元来の彼が持っている明るくて健康的なキャラクターとして演じられていることです。一見矛盾する「二重人格」と「健康的な性格」が、ここでは自然に統一されていきます。
 フランス人の大好きなドタバタ喜劇役者としてのアラン・ドロンもたいへん魅力的です。フランスではジェラール・ウーリー監督のルイ・ドゥ・フュネスやブールヴィルや後のジャン・マリー・ポワレ監督、パトリス・ルコント監督などによって魅力を引きだされたクリスチャン・クラヴィエなどが好まれているようですが、そのようなイメージに近かったのかなと思います。
おかしなおかしな訪問者(字幕)
/ ポニーキャニオン





レ・ブロンゼ~日焼けした連中~【字幕ワイド版】
/ バンダイビジュアル





 ルネ・クレマン監督は、師であったジャン・コクトーの教えである「アクシデントのプラス面への転化」、そして、前作『太陽がいっぱい』と同じくアラン・ドロンを主演とすることで、マイナスの結末を、いかなる行為でプラスの結末に転嫁できるのかという回答を、この作品で主張したのでしょう。
 また、「テロリズム」という行為を題材にしたことで、この作品は、われわれ現代に生きる者たちへの「平和への願い」へのメッセージであるとも解釈できるのではないでしょうか?ここには現代に山積している多くの諸問題を解決するための問いと答えが盛り込まれているような気がします。

 わたしは、特に今を生きる多くの人たちが、この映画を観賞すること望んでしまいます。
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by Tom5k | 2005-12-18 03:04 | 生きる歓び(2) | Comments(20)