『レッド・サン』②~観たかった奇跡の黒澤作品『青い目のサムライ(ブルーアイ)』~

 アラン・ドロンは、2007年10月8日に放映されたジャニーズ事務所所属の人気タレント・グループ 「SMAP(スマップ)」がレギュラー出演しているバラエティ番組『SMAP×SMAP 秋の超豪華 アラン・ドロンも来ちゃいましたスペシャル!!!』(関西テレビ・フジテレビ系列)の『BISTRO SMAP』に出演しました。

 番組の冒頭ではアラン・ドロンが主演した映画『太陽がいっぱい』、『山猫』、『冒険者たち』、『サムライ』、『ハーフ・ア・チャンス』の映像のいくつかと舞台での活躍が紹介され、三船敏郎と共演した『レッド・サン』も取り上げられました。

『レッド・サン』紹介のナレーション
「『レッド・サン』、アラン・ドロンの親友チャールズ・ブロンソンと三船敏郎の侍が登場する異色の西部劇。1971年公開当時、三船、ドロン、ブロンソン、日本、フランス、アメリカの三大スター共演が話題となり、大ヒットを記録している」

その後、「SMAP(スマップ)」のリーダー中居正広さんからアラン・ドロンに対して、次のような質疑があり、非常に興味深い回答が得られていました。
>中居正広
「今のVTRにも出てきましたけれども日本の三船さんとも・・・」
>アラン・ドロン
「共演する前からミフネのことは良く知っていたよ。彼は私にとって神のような存在だったよ。ミフネは日本に来るたびに私を招待してくれた。とても尊敬しているし、決して忘れることのできない人だ」
>中居正広
「へええ~」
>アラン・ドロン
「ミフネは日本の兄だ」
>中居正広
「そうですかぁ。うれしいですね。僕らにとっても」
>アラン・ドロン
「『羅生門』や『七人の侍』のミフネは世界中の人が知っているよ」

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次に、「SMAP(スマップ)」メンバーのひとり、稲垣吾郎さんの質問にも三船敏郎の名前が挙げられました。
>稲垣吾郎
「アラン・ドロンさんといえば、戦後の日本にとって、かっこいい男の代名詞なんですよ。そんなアランさんが思うかっこいい男っていうのは、どういう男なのかと思って」
>アラン・ドロン
「東洋人でいえばミフネだね」
【2007年10月8日放映、『SMAP×SMAP 秋の超豪華 アラン・ドロンも来ちゃいましたスペシャル!!!』(関西テレビ・フジテレビ)『BISTRO SMAP』より】


 また、1977年には、三船プロダクション創立15周年の記念式典に招聘されており、日本には5日間の滞在だったそうですが、この期間に、
「静かで日本的なところへ行って、ミフネとゆっくり話したい」
と願い出て、京都の御所、清水寺、二条城、竜安寺を周り、奈良の春日大社で、三船敏郎とのプライベート時間を確保したそうです。
「竜安寺の石段は、何度見てもいい、心がやすまるから。日本がどんなすばらしい国であるかをひと言では表現できない」
との感想だったそうです。
【参考(引用) 『スターランドDERAX vol4 アラン・ドロン』徳間書店、1977年」】

 更には、自らがプロデュースして商標登録した香水「サムライ SAMOURAI」を、そのイメージのキャッチフレーズとして、発売時から
「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」
としています。

 そして、彼が他界した際にも、葬儀には参列できなかったものの弔辞の電報を送ったそうです。

 彼が三船敏郎を「日本の兄」として慕っていたことは、これらの逸話からもよく理解できます。


 1920年生誕の三船敏郎は、アラン・ドロンより15歳年上で、1947年、『銀嶺の果て』(脚本:黒澤明)で映画俳優としてデビューし、1948年、映画出演3作目で、黒澤明監督の『酔いどれ天使』に出演してから、1965年の『赤ひげ』までの計16作品、言わずとしれた東宝映画の黒澤一家の主要俳優として活躍した大スターです。
 海外での評価も高い黒澤作品に出演し続けた三船敏郎は、各種国際映画祭等での男優賞の受賞も多く、後半期は外国作品の市場で国際俳優として活躍したスターでした。チャ-ルズ・ブロンソン、アラン・ドロンと共演したテレンス・ヤング監督の『レッド・サン』もその時期の作品のひとつです。

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 黒澤明監督の作品は商業的にも映画芸術としても、世界的に評価が高く、高等学校で使用される日本史の教科用図書には溝口健二ととも掲載されているほど、日本文化史上に名前の通った映画監督であり、失敗作と言われている作品ですら、その映像価値の高さは絶賛に値するものばかりです。

 アラン・ドロンが挙げた『羅生門』は、ヴェネツィア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞しました。そして、この作品以降、彼は「世界のクロサワ」と呼ばれるようになったのです。
 『羅生門』は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の批評家や演出家たちにも絶賛されており、特にヨーロッパでの評価が高かったようです。ある出来事を異なる複数の対立する視点からのフラッシュ・バックで表現し、映画の解釈を観客の主観に任せてしまう手法ですが、わたしは、アラン・ロブ・グリエのシナリオをアラン・レネ監督が演出した『去年マリエンバートで』の主人公A、M、Xを想起してしまいました。

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 わたしは、『七人の侍』を、もう17・8年も前になりますが、リバイバル公開時に劇場鑑賞しています。ここで、この作品のことを書くだけで、それは何ページものブログ記事に及んでしまいますので、それは別の機会としたいと思います。

 この作品に関しては、わたしのブログの盟友、オカピーさんと用心棒さんの素晴らしい記事を、ご紹介いたします。

【オカピーさんのブログ記事 『プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]』映画評「七人の侍」】
【用心棒さんのブログ記事 『良い映画を褒める会。』「七人の侍」(1952) 歴代日本映画最高の活劇作品にして、黒澤時代劇の最高峰。ネタバレあり。】

 お二人の映画批評は普段から優れたものばかりですし、映画文化を心から愛好していらっしゃる方々です。 むしろ、だからこそ厳しい批判も厭わない批評も多いのですが、『七人の侍』は、そのお二人が満点(オカピーさん10点、用心棒さん100点)としている作品です。


 三船敏郎が演じた『七人の侍』の菊千代、『羅生門』の多襄丸は、多くの黒澤作品で彼が演じたキャラクターの中でも特に類似しているものと感じます。
 豪放磊落、粗野で型破りな人物ですが、非常にデリケートな側面も持っているどこか憎めないキャラクターです。菊千代が島田勘兵衛に出会わなければ、多襄丸のように生きていたようにまで思います。
 世界のミフネ、アラン・ドロンが敬愛するミフネは、このような生命力と野性味に溢れた三船敏郎だったのかもしれません。
 また、京マチ子が演ずる真砂に罵倒され、煽りそそのかされて、森雅之が演ずる金沢武弘と果たし合いをしなければならなくなり、武弘を刺殺してしまう多襄丸の精神的な動揺に、わたしは、ジョセフ・ロージー監督が演出した『暗殺者のメロディ』で、レオン・トロツキー(リチャード・バートン)を暗殺するフランク・ジャクソン(アラン・ドロン)を想起してしまいます。
 彼は、黒澤プロダクションの専属と言っていいほど、黒澤明監督の作品の多くに出演しており、そのほとんどが主演でした。アラン・ドロンが三船敏郎を「神のような存在」、「東洋人で最もかっこいい男」としたのは、このような国際的に評価の高い作品で彼が演じたキャラクターによるものも大きな理由のひとつだったかもしれません。

 1962年には自ら三船プロダクションを設立し、1965年制作の『赤ひげ』を最後に東宝から独立し、すぐに、『レッド・サン』をパラマウント映画に売り込んでいたそうです。しかし、残念ながらハリウッドのマーケッティングではその製作は実現せず、ハリウッドのプロデューサー、テッド・リッチモンドがそれに応じ、フランスのプロデューサー、ロベール・ドルフマンが快諾したそうで、三船プロダクションの発案から5年も掛かって実現した企画だったそうです。

 アラン・ドロンとは、1970年に『レッド・サン』で共演以降、多くの親交がありました。

 まず、1971年、株式会社レナウンは、自社プロデュースの紳士服「D’URBAN」のコマーシャルの制作を三船プロダクション及び電通プロックスに業務委託しました。以後、1981年まで、このコマーシャルに三船プロダクションの俳優としてアラン・ドロンが出演し続けることになります。

 また、1978年には、再び、テレンス・ヤング監督で『オーピウム(麻薬)』の製作が公表され、『レッド・サン』と同様に、共演はアラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン、映画の舞台である香港でのロケーションも予定されていた大規模な企画で、大きく期待されていた作品ですが、残念ながら製作中止となってしまいました。


 そして、三船プロダクションがアラン・ドロンを招聘した1977年には、映画化が予定されていた『青い目のサムライ』について、次のような話題が提供されました。

監督:黒澤明
脚本(ブルーアイ):黒澤明、橋本忍、小国英雄(既に完成していたそうです。)
出演(予定):アラン・ドロン(スティーブ・マックィーンから変更)、三船敏郎
音楽:挿入曲=カラヤン指揮ベートーベンの“交響曲第七番”
内容(予定):
紅毛碧眼の武将の勇猛果敢な戦いを描いた戦国絵巻である。九州の海岸に異人の女性が漂着する。珍しさも手伝って側室にした大名との間に、金髪青い目の子供が生まれる。いみきらう大名に捨てられたこの毛色の変わった子供を三船敏郎の家老が育てる。やがて、たくましい青年になった青い目のサムライが、姫と恋し合い、家老と共に馬上高く日本刀を振りかざして獅子奮迅の活躍-。 

「日本のサムライがやれるなら私が・・・黒澤さんとやれるなら願ってもない。単独出演でも三船プロとの合作でもいい(アラン・ドロン)」
「大合戦の場面は、騎馬戦なので千頭の馬が必要。日本では不可能なのでユーゴかスペインにヨロイ、カブトを持ち込んでロングで撮りたい。ラストの金髪をなびかせた青い目の武将が大軍勢の中へ突っ込んで討ち死にする場面の音楽は、カラヤン指揮のベートーベンの“交響曲第七番”だ(黒澤明)」
【キネマ旬報1977年6月上旬号「邦画新作情報-A・ドロンは青い目の武将を-」】

 1972年当初に脚本が完成したときには、主人公の武将にスティーブ・マックィーンが予定されていたためなのか、金髪の武将を設定したようです。アラン・ドロンが来日した1977年は、初めてカラーで撮った『どですかでん』や『デルス・ウザーラ』より以降なので、当然カラー作品となったと思いますから、主演が彼に変更された段階でも、黒澤明監督のことですから独特の色彩センスで彼の髪を染め上げるつもりだったのではないかと思います。

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 また、最近では、フジテレビのTVドラマ『のだめカンタービレ』のオープニング曲で、第1楽章は有名になりましたが、元来はルードウィッヒ・ヴァン・ベートーベンの曲目としては、あまり有名ではない「シンフォニー第7番」を使う予定だったことは非常に興味深いところです。一体、黒澤明監督はこの第何楽章を使用する予定だったのでしょうか。

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 これは、19世紀初めオーストリアとフランスとの戦争状態がナポレオンの撤退により母国オーストリアに平和が戻ったこと、ピアノ曲「エリーゼのために」のモデルとも言われているテレーゼ・マルファッティや、保養地テープリッツでの歌手アマーリエ・ゼーバルトとの恋愛など、ベートーベンの生活が朗らかで明るい時期に創作されたものだそうで、曲調にもそれは反映されています。
 1809年、6ヶ月続いた交戦は終結し、オーストリアが戦争から立ち直っていく1813年、ウィーン大学で戦傷兵士のための慈善音楽会が開催されました。、「シンフォニー第7番」は、このときに演奏され、第2楽章がアンコールされるほど盛況だったそうです。
 ベートーベンも母国とともに再生・復活していくような気持ちでこの作品を創り上げたそうですが、このような明朗なテーマを持つシンフォニーを黒澤明が選定しようとしていたことと、予定されたアラン・ドロンが扮する青い目の武将が敵の大軍勢の中に突撃して討ち死にするシークエンスを整合させると、「シンフォニー第3番」の葬送行進曲に似ているといわれている第2楽章を使用する予定だったのかもしれません。わたしとしては、第4楽章の力強いフィナーレも実にドラマティックであるので、討ち死にの場面とはいえ、再生・復活などのテーマも採り入れて、この楽章を使用してもらいたかったと思っています。

ベートーヴェン:交響曲第4番&第7番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン) / ユニバーサル ミュージック クラシック




 黒澤明監督の妥協を許さない厳しい演出は有名です。特に出演する俳優の演技指導やリハーサルなどは半端なものではなかったといいます。当然の事ながら三船敏郎もその例に漏れる俳優だったはずはありません。
 アラン・ドロンもまた、過去にルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ジョセフ・ロージー、ジャン・ピエール・メルヴィルなどの厳しい演出で有名な映画監督に鍛えられた俳優ですし、彼自身も常に良い映画監督との出会いを求めていたようです。それは、水と油とも言えるジャン・リュック・ゴダールにより、1990年には映画『ヌーヴェルヴァーグ』を撮ったことからも証されていることです。

【(-略)この映画(ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』)以後ドロンは一躍、国際的なスターとなって、劇場側が歓迎するぺてん師やギャング役を演じる映画に次々と出演した。したがってロッコを演ずる彼を見ていない人には、ヴィスコンティの厳しい指導に耐えて彼がこの役で演じ切った、ほとんど輝くばかりの愚直さと、悲哀と、しんの強さを想像するのはむずかしいかもしれない。(略-)】
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

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【今回のシネマテークでのオマージュはある種の調停というか折り合いをつけるものではないかと思っていたのですが・・・
>アラン・ドロン
良かれ悪かれ自分がして来たことには忠実だと思う。私はお世辞は言わないと皆知ってるよ。(-中略-)イライラしたジャーナリストがこんな事を言ったこともある:「フランス映画界にドロンは存在しない」私はフランス映画界に自分の居場所があると思っていたのにね。それは私とは別に存在しているものだ。私も怒ってこうジャーナリストたちに言ってやった。私を殺せても、『若者のすべて』『山猫』それに私のヴィスコンティ時代、メルヴィルやロージーの作品は消せないだろうとね・・・】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/1 「回想するアラン・ドロン:その1(インタヴュー和訳)」

【ベルトラン・ブリエの『真夜中のミラージュ』では笑わそうとする意志が感じられましたね、それが一番の狙いではないにしろ。
>アラン・ドロン
ブリエの現場は本当に素晴らしかったね。ロージー以来、私はブリエのような人を待っていたんだ。他の監督たちに侮蔑的に聞こえて欲しくはないけどね。でも私にはヴィスコンティ、クレマンがいて、アントニオーニは偶然だがね・・・
アントニオーニはモニカ・ヴィッティにより関心が向いていたと思いますが。
>アラン・ドロン
ヴィッティは彼の奥さんだったからね。私は奥さんの相手役だった訳だ。私の代わりにマストロヤンニでも良かっただろう。ヴィスコンティ、クレマン、メルヴィルにロージー:私のキャリアは正にそれだよ。その後にもいくつかの出逢いはあった:1964年のアラン・カヴァリエ(さすらいの狼)、ブリエにレネ・マンゾールの「デーモン・ワールド」のような監督第一回作品もあったね。ベルニュイユやドレー監督と撮った10本も映画も否定するつもりは全くないよ。どの作品も収めるべき場所があるんだ。ヴィスコンティがこう言ってた:「キャリアを築くのは、建築のようなものだ、基礎工事が肝心だとね。」私の基礎は、ヴィスコンティ、クレマン、メルヴィルにロージーだね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18 「回想するアラン・ドロン:その6(インタヴュー和訳)」

【今でも監督たちとの出逢いを求めていますか?
>アラン・ドロン
ああ。だからゴダールとも映画を撮ったんだ!この経験をしたかったし、彼に会いたかった。彼に言われるままにしたよ、自分の性格を出したら、映画は完成しなかっただろう!待ってくれ、それじゃだめだ、それじゃフレームイン出来ない、こっちから出たんじゃないか、繋がらないぞ!うん、でもゴダールだからね。あぁ、これでいいんだ!】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/25 「回想するアラン・ドロン:その8(インタヴュー和訳)」


 黒澤明監督の作品の多くは、アラン・ドロンが若い頃に巡り会っていたフランス映画旧時代の「詩(心理)的レアリスム」のルネ・クレマン監督やジュリアン・デュヴィヴィエ監督が表現していった主題と似ている部分も多く、強いヒューマニズムに富んだ作風を代表作品としています。ですから、この作品で三船敏郎との共演が実現していたら、彼らに元来から備わっているヒューマニティが相乗的に高まり、更に黒澤明監督の演出によって、普段よりもより強く全編を通じて引き出された大傑作になったでしょう。

 アラン・ドロンは、また再び偉大な巨匠の演出のもとで、同志ともいえる三船敏郎とともに、厳しい、そして充実した仕事を望んでいたのだと思います。

 わたしは、三船敏郎を「日本の兄」と慕い、「神のような存在」、「東洋人で最もかっこいい男」と憧憬していたアラン・ドロンの気持ちがわかるような気がします。彼は自分の俳優としての経験からも多くの共通点を三船敏郎に見出していたのでしょう。
 そう考えると、わたしは、この企画が流れてしまったことが本当に残念でならないのです。


>アラン・ドロン
(-略)三船氏とは目下『青い目のサムライ』という作品を準備中です。いつ公開するかといった、こまかいことは未定ですが、とにかく私は三船氏と一緒に映画を作りたいのです。一緒に作りたいということ、これだけで私たちは、もう充分に意志が通じあうのです。打ちあわせ、その他、必要ならいつでも日本にとんできます。(略-)
【1977年、三船プロダクション創立15周年招聘来日時の記者会見インタビュー(同席、三船敏郎)】
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by Tom5k | 2009-11-30 00:07 | レッド・サン(2) | Trackback(4) | Comments(7)

『レッド・サン』①~日米関係史と武士階級~

 1854年3月7隻の軍艦によるアメリカ東インド鑑長官ペリーが再航して、アメリカ船の来航による食糧・燃料の補給、難破船の保護、領事の駐在(箱館・下田の開港)、アメリカ合衆国の日本における最恵国待遇、などの内容による日米和親条約が批准されました。
 江戸幕府による鎖国政策を200年以上続けてきた日本でしたが、この出来事により、鎖国体制を終焉させました。

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 下田駐在のハリスはこの条約批准後、合衆国側の領事裁判権を認め、日本側が関税の自主改正をできないこと、などの日本史史上でも最も不平等な内容であった日米修好通商条約の調印を迫ります。
 1858年6月、大老に就任間もない井伊直弼は、国内での激しい攘夷運動により、この条約の勅許を許可されませんでした。しかし、清国とイギリスのアヘン戦争の結果やアロー号事件など欧米列強のアジア侵略の外圧から、井伊大老は独断でこの条約に調印し、日米貿易は不平等な形態で始まっていったのです。

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 1860年2~3月、条約の批准書を交換するために新見正興ら一行は、合衆国政府より派遣されていた軍艦ポーハタンに乗り込み、勝海舟を船長とし、福沢諭吉、ジョン万次郎らが同乗した咸臨丸を警護船として浦賀を出向しました。一行はサンフランシスコへの渡航を成功させ、日本人として初めて正式にアメリカの土を踏んだのです。

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 非公式的には、1863年に、井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)が長州藩から派遣されてヨーロッパに秘密留学した史実もあります。

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 1867年、日米間に初めて郵便船が開通しました。このころはまだ、大陸横断鉄道の開通2年前であり、南下によりパナマ地峡を渡り、北上してニューヨーク・ワシントンまでの路程でした。
 同年10月、徳川幕府は260年あまり続いた政権を朝廷に返還する決断を下し、大政奉還を実施しました。これは幕府が倒幕勢力と戦争状態となった場合には欧米列強の侵略政策に対応できないことを懸念した徳川慶喜が、幕府の安泰よりも日本の安泰を思慮した結果でした。
 多くのアメリカ人にとって西部の開拓はまさにアメリカン・ドリームの実現ともいえることだったのでしょう。広大な土地と天然資源から、経済的な向上と豊かな生活を想い描いたアメリカ人は多かったはずです。1848年の金鉱発見に端を発して、カリフオルニアにおける「ゴールドラッシュ」により西部開拓が本格化していきました。

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 そのなか、アメリカの西部開拓や領土発展の目的を結実させた大陸横断鉄道の建設法案は1862年、南北戦争の最中に大統領エイブラハム・リンカーンよって認可され、西側のセントラルパシフィック鉄道、東側のユニオンパシフィック鉄道が1869年5月、ユタ州グレートソルトレイク北方の砂漠フロモントリーポイントで歴史的な接合を果たしました。

 しかし、これら開拓史には多くの矛盾、そして不運な不安要素も多く存在していました。先住の原住民であるネイティブ・アメリカンと白人とが対立し、武力で勝る白人がネイティブ・アメリカンを迫害していったのは西部開拓史の暗部のひとつでしたし、1860年以降の南北戦争後の荒廃や西部開拓、特に大陸横断鉄道の敷設工事による労働者への過酷な搾取などは、西部を荒らし回る強盗団などを生み出していった原因であったと思われます。

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 映画『レッド・サン』の舞台は1870年、前述した日本の武士と合衆国西部の強盗団の間でドラマが展開し、先住民族ネイティブ・アメリカンのコマンチ族がクライマックスの戦闘場面で重要な役割を果たします。

 わたしがこの作品に対して驚くことは、作品の設定条件に係る歴史検証が以外に正確であることです。

 1870年という設定は、大政奉還後であり、中村哲扮する坂口備前守が「我々は、日本の皇帝であるミカドの使節である」と言うセリフから、この一行が1867年の大政奉還後の使節団であり、将軍ではなく天皇(ミカド)の命で宝刀を献上するためにワシントンまで行こうとしていることがわかりますし、坂口備前守が、10年間サンフランシスコに滞在していたことも解説されています。
 また、使節団一行の紋付・袴、さらに帯刀という出で立ちも外交上の礼装であったのでしょう。
 そして、日本新政府の組織・権限に係る政体書の制定は1868年に施行されていますが、アメリカ合衆国の制度にならって作成されています。つまり、合衆国政府が日本新政府からみて、不平等条約における通商の相手国というのみでなく、行政組織における先進国として、今後の友好関係を派遣の目的としていたとしても不思議ではないわけです。

 それから2年後、1872年に派遣された岩倉使節団は、諸外国の見聞による調査・研究を目的とし、新時代を感じさせる前向きで明るい外遊でした。それは刀剣など帯刀せず、献上物も天皇の国書であり、本当の目的は友好よりも条約改正の予備交渉でした。つまり、『レッド・サン』の舞台設定の1870年から2年後の1872年の岩倉使節団には、三船敏郎が演じた黒田重兵衛のような武士道に遵守した侍は既に存在していなかったと思われます。

 更に前述したとおり、アメリカ合衆国においても大陸横断鉄道が開設した1869年の翌年であることや荒廃した西部で兵士・労働者たちが野合して、リンク(チャールズ・ブロンソン)やゴーシュ(アラン・ドロン)たちのような強盗団となっていた史実等々。

 もちろん、娯楽作品として徹底したこと、当時の西部劇の創作パターン等により、細部においてのリアリティの追求は目的には無かったのでしょうが、ストーリーと舞台設定において、1870年のアメリカ西部を舞台としたことが、この作品のストーリー成立の一要素であったと思われます。
 このことは、この作品の発想が奇抜ではあったとしても、スタッフ・キャストの生真面目な作品創作の意欲と熱意が強かったことの結果のひとつではないでしょうか。
 わたしは、そういった意味から、未来において日本とアメリカの関係やEUとの国際関係を考えたときに、こういった娯楽大作を民間の映画人達の製作・立案とはいえ、国際的な相互協力の関係を構築して創作実現できたことが奇跡的な国際文化交流であったと、後世に伝えられていくことを切に願ってしまいます。


 また、この作品には、日本の歴史の転換期が、恐らくですが日本人以外にとってもわかりやすく表現されている場面と台詞が多くあります。ロケ地に黒澤組の脚本家である橋本忍が同行していたからかもしれません。
 黒田重兵衛は1869年に版籍奉還により領地、人民を天皇に返還する施策を実施したことなどの日本国内の情勢を踏まえていたのでしょう。

>武士は百姓や漁師となって生きていくしかない。武士は滅んでいくから、この使節が武士の最後の仕事だ。」「日本もいつか、この国のようになるだろう。

と苦渋の表情で述懐するいくつかのセリフは、この作品の悲しく苦しいテーマのひとつとなっています。
 その後、黒田の言っていたとおり、1871年、日本新政府は武士に対しての廃刀許可を実施、1876年、廃刀令の公布により、正式に帯刀が禁止され、武士は物心両面からその誇りを奪われたのでした。
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by Tom5k | 2005-05-21 15:16 | レッド・サン(2) | Trackback(1) | Comments(7)