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『サムライ』⑥~アラン・ドロン、スターとしての古典的個性とその究極のダンディズム~

 アラン・ドロンが主役級のスターになったのは、映画出演3作品目、ミッシェル・ボワロン監督の『お嬢さん、お手やわらかに!』(1958年)からです。
 それ以降、ジャン・ギャバンと互角に共演した1962年の『地下室のメロディー』が、彼の初めての「フレンチ・フィルム・ノワール」での主演作品でした。
 その後1964年に、MGMの『さすらいの狼』、同年、ハリウッドに渉って『泥棒を消せ』など、アメリカ資本の「ノワール」系の暗黒街映画などでの主演歴があります。

【>アラン・ドロン
(-略)アメリカ移住は私には問題外だったね。私を説得しようと連中はあれこれしてくれたが・・・『泥棒を消せ』では妊娠してた妻が出産するまで(撮影を)待っていてくれた、連中が言うように私が”クール”であるためにね。素晴らしい家も用意してくれていたんだ、でも3週間もすると、私はパリへ電話して、半べそかいて、鬱状態だった・・・その後すぐさまフランスへ戻って来てしまった。だからアメリカは私にとってキャリアの選択じゃなく人生の選択なんだ。行きつけのビストロや自分のパンが必要なんだ、世界一のスターにならないかと言われるよりも重要なことだよ。それでもスターとしてアメリカで6,7本の映画に出演した。成功したとは思わないよ。アメリカで成功を収めた欧州の人間は少ないよね。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/27 「回想するアラン・ドロン:最終回(インタヴュー和訳)」

【>アメリカでキャリアを築こうとは思わなかったのですか?
>アラン・ドロン
それはキャリアの選択じゃなく、人生の選択だ。アメリカでは生活できない。死ぬほど退屈してしまったよ!パラマウントのお偉いさんのボブ・エヴァンスに住んでみろと言われたんだがね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/26 「回想するアラン・ドロン:その9(インタヴュー和訳)」

 彼は1966年にハリウッドから帰仏して、青春賛歌の映画詩『冒険者たち』でフランス映画界に返り咲き、いよいよ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家として有名だったルイ・マル監督の演出で、エドガー・アラン・ポーの古典文学のキャラクターであるウィリアム・ウィルソンを演じました。

 見事なフランス映画復帰の二作品でしたが、更に三作品目の1967年制作『サムライ』で、ジャン・ピエール・メルヴィル監督に巡り会うことになり、彼らはこの作品で「フレンチ・フィルム・ノワール」としての極限的な美学を生み出すことになります。
 この作品は、1960年代から、1970年代に架けて、アラン・ドロンがスターとしての全盛期を迎えるキャラクター、特に「フレンチ・フィルム・ノワール」でのギャング・スターの個性を確立した作品となりました。

 商業ベースにあっても、映画芸術の視点からであっても、「ヌーヴェル・ヴァーグ」以降の新しい作家主義の系統を内包しているジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出した作品でありながら、1930年代のワーナー・ブラザーズ一連のプログラム・ピクチャーであった「ギャングスター映画」や、1940年代のハリウッドB級「フィルム・ノワール」、自国における1930年代以降「詩的レアリズム」のノワール的傾向の伝統、1950年代以降に確立されたセリ・ノワール叢書を原作とする「フレンチ・フィルム・ノワール」など、アラン・ドロンが得意とする伝統的で古典的な題材を包含した作品となりました。

 この前作に撮ったルイ・マル監督の『ウィリアム・ウィルソン』も同様でしたが、旧来からの古典的な映画要素・題材によって、新しい時代「ヌーヴェル・ヴァーグ」以降の演出手法や「ヌーヴェル・ヴァーグ」のキャスト・スタッフで作品を制作する傾向はアラン・ドロンの作品の特徴ともいえます。語弊があるかもしれませんが、新しい映画人を旧来の古き良き時代の映画に挽きづり込んでしまうことを、これほど上手にやり遂げてしまうアラン・ドロンの我の強さには驚かされます。

 ルイ・マルやジャン・ピエール・メルヴィル以外にも、『ボルサリーノ』でのジャン・ポール・ベルモンド、『個人生活』でのジャンヌ・モロー、『フリック・ストーリー』でのジャン・ルイ・トランティニャン、『チェイサー』でのステファーヌ・オードラン、『真夜中のミラージュ』でのナタリー・バイ・・・そして、『ブーメランのように』でのジョルジュ・ドルリュー、『私刑警察』でのラウール・クタールや『ヌーヴェルヴァーグ』でのジャン・リュック・ゴダールでさえも・・・。
 もちろん、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちからしても、その全盛期以後も映画創作の手法を常に模索し続け、旧世代の映画の特徴を採り入れることにも成功していますし、各人とも「ヌーヴェル・ヴァーグ」を脱皮した以降に、アラン・ドロンと巡り会っているのかもしれません。
 新・旧映画人たちは、どちらがどちらに影響を与えているのかという判断も極めて難しいところですので、一概に決めつけることは危険ですが、彼らがアラン・ドロンと組むと、一作品の中に、新しい映画の傾向と古い映画の傾向が同時に存在することになり、その結果として、生き生きとした躍動感を生み出す作品になっていることだけは間違いのないことのように思います。

 思えば、アキム兄弟がプロデュースした『太陽がいっぱい』で、旧世代のルネ・クレマンと「ヌーヴェル・ヴァーグ」のアンリ・ドカエ、ポール・ジェコブ、モーリス・ロネが組んだことなども、アラン・ドロンというスター俳優及びプロデューサーとして、後々の映画人としての生き方に大きな影響を与えていたのかもしれません。

 繰り返しになりますが、アラン・ドロンが製作・出演している作品は、一貫して作品の傾向もクラシカルですし、古いタイプの映画的題材を扱うことが多かったように思います。
 例えばそれらは、剣戟や西部劇などのエンターテインメントであり、ウィリアン・ウィルソンやゾロのような古典キャラクターであり、犯罪者、ギャング・殺し屋・逃亡者の死の美学であり、刑事事件のスリルとサスペンスであり、それらのアクションであり、メロドラマの悲劇性であり、レジスタンスの反骨精神であり、リアリズムの叙事詩、映画芸術であったのです。

【ベルモンドは人気スターで、ドロンはスターそのものである。2人は警官やならず者だったのだ。(-中略-)一方はほとんどフランス国内にとどまり、もう一方はかなりの国際派で、イタリア人の貴公子の役や、アメリカ西部の殺し屋の役や、コンコルドのパイロットの役も、ごく自然に似合う俳優だ。】
【引用 『フランス恋愛映画のカリスマ監督 パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー』ジャック・ジメール著、計良道子訳、共同通信社、1999年】

パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー フランス映画のカリスマ監督

ジャック・ジメール / 株式会社共同通信社



【>アラン・ドロン
(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。
(-略-) 
>アラン・ドロン
(-略)人に仕返ししてやろうと思ったこともないし、自分のやり方で自由にやって来ただけなんだ。私が間違っていたと言ってもらいたいが、今になって変わる必要もないだろう?でシネマテークが何かを変えてくれるという発言だったが、私はそんな事はどうでもいいよ!もうだいたい遅過ぎるんだ。もっと前に言ってもらいたかったな。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 『真夜中のミラージュ』や『ヌーヴェルヴァーグ』でさえも、その制作時期においては、すでにセンセーショナルな新しい映画としてではなく、映画史での体系では、安定感のある確実な実績のうえに制作された作品でした。
 ジャン・リュック・ゴダールやベルトラン・ブリエの作品においてさえ、アラン・ドロンは、フランソワ・トリュフォーによって侮蔑されていた「パパの映画 cinéma de papa」の俳優だったのです。

 また、「私が間違っていたと言ってもらいたい」、シネマテークの影響力について、「もっと前に言ってもらいたかったな。」という彼の発言には、自分自身のスター俳優としてのスタイルを、「新しい映画」の俳優として改変する機会を持てなかったことに対しての過去の実績に対する複雑で微妙な心情が垣間見えるように思え、これは、彼にしては極めて貴重な発言であり、珍しい心情吐露ともいえましょう。

 確かに、アラン・ドロンというスター俳優が、最も活躍していた1960年代から1970年代に、「ヌーヴェル・ヴァーグ」が・・・シネマテークが・・・カイエ・デュ・シネマ誌が・・・彼に何かを働きかけたでしょうか?恐らくそんなことなど、ほとんどなかったように思います。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」からすれば、彼は、ただ単に、商業映画の二枚目ギャング・スターであっただけでしょうし、一般的にもフランスの暴力団組織に関与している黒い噂を持つ危険で超人気の、しかし二流・三流のスター俳優でしかなく、新しい映画芸術の体系においては、完全に無視され続けていた俳優であったように思うのです。

 「ヌーヴェル・ヴァーグ」専門の映画評論家である山田宏一氏によれば、アラン・ドロンが、ようやく巡り会った映画作家ジャン・ピエール・メルヴィルに関してさえ、
【自らは『サムライ』から『リスボン特急』に至る「アラン・ドロン映画」のお抱え監督になり、かつての「メルヴィル映画」-撮影所システムやスター・システムを根底から否定したロケーション主義、低予算映画というヌーヴェル・ヴァーグのさきがけとなった真の「作家」の映画としての「メルヴィル映画」-の神話を商業主義の場にあっさりと葬ってしまったような感じだ。】
【引用『わがフランス映画誌(「ヌーヴェル・ヴァーグ」の項)』山田宏一著、平凡社、1990年】

わがフランス映画誌(1990年)

山田 宏一 / 平凡社



などと揶揄していますし、ジャン・リュック・ゴダールに関してでさえ、
【ジャン・リュック・ゴダールは『ヌーヴェルヴァーグ』という題名の映画を撮って、みずから「失敗作」と断じた。】
【引用『友よ映画よわがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、平凡社、1985年】
と出典あるいは詳細を示さず、中傷的な結果のみで記述しています。

増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (平凡社ライブラリー)

山田 宏一 / 平凡社



 それはともかく、アラン・ドロンが、この『サムライ』に出演したことは、彼にとってもフランス映画界にとっても、計り知れない価値を生み出したと、わたしは考えています。

 アラン・ドロンは、この作品で初めて、ソフト帽とトレンチ・コートを身につけ、職業的犯罪者に扮したわけですが、特にこの作品での彼のハード・ボイルド・スタイルについて検証してみると、
アラン・ドロンは、デビュー以来、『冒険者たち』までの作品で、どのようなペシミスティックで暗鬱なテーマの作品であっても、例え、それが『太陽がいっぱい』のトム・リプリーであっても、その一作品中には笑顔の似合う優しい好青年の要素を持ったアイドル的スターの側面を垣間見せていたようには思います。

 しかしながら、この『サムライ』では、その表情そのものが無と化し、それがアクションによって構成されているショットでさえ、主人公ジェフ・コステロの行動様式は静的で虚無そのものを表現するものとして昇華されています。
 思えば、前作の『ウィリアム・ウィルソン』も、爽やかな好感の持てる主人公の表情など、どのワン・ショットにおいても必要としない作品でした。彼のその犯罪性向者としてのキャラクターの魅力は、過去のルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』の主人公トム・リプリーやクリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』の主人公の兄ギヨームから継承され、ルイ・マル監督によって、この作品で純化されたのかもしれません。

 また、『黒いチューリップ』での粗野な強盗としての悪徳のキャラクター、『太陽がいっぱい』や『ウィリアム・ウィルソン』での犯罪性向者のキャラクターは、人格の破綻者か、兄弟に比喩した表裏の二重自我として設定されていましたが、それは欲得にまみれたサディスティックな主人公の個性と合わせて、極端に良性の人格も一作品内において同時に演じてもいたのです。

 ところが、『サムライ』で表現されている主人公ジェフ・コステロのダンディズムは、そのような典型的な犯罪者の性向とも異なり、同じくジャン・ピエール・メルヴィルが演出した「フレンチ・フィルム・ノワール」作品『いぬ』で、ライバルであるジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公シリアンの人間的、かつファッショナブルなキャラクターとも異なるものでした。
いぬ
/ アイ・ヴィー・シー





 それは、主人公ジェフ・コステロの行動様式そのものが、冷徹で折り目正しく、自らの規範に潔癖に従い、その清貧の思想を誇るものとして表現されているからなのです。わたしは、このアラン・ドロン独自のスタイルとも言えるダンディズムに、
「精神主義やストイシズムと境界線上にある自己の崇拝する方法で独創性を追求する態度、改革期が終わってすぐの反封建的な風習の残っている時代に現れる退廃期の英雄主義。」
と、定義付けた「悪の華」の詩集で有名なフランスの詩人シャルル・ボードレールの言葉を思い起こすのです。
悪の華
ボードレール 堀口 大学 / 新潮社





 「ヌーヴェル・ヴァーグ」に一新されたフランス映画界において、その先駆でありながらも、旧来の映画ジャンル「暗黒街映画」を残存させたジャン・ピエール・メルヴィル監督は、アラン・ドロンに旧世代からの伝統的キャラクターを継承させ、彼の映画スターとしての英雄的イデオロギー、そのオーラを、『サムライ』での暗黒街の主人公ジェフ・コステロを通して最大限に発光させました。

 アラン・ドロンは『サムライ』以降、「暗黒街での一匹狼」というある種の伝統的キャラクターを継承しながらも、現代的なアンチ・ヒーロー的ヒーローとしてのキャラクターをも確立していきました。

 恐らく、彼は「ヌーヴェル・ヴァーグ」が終わってすぐの時代に、僅かではあっても、旧世代の作風が残存できることの可能性を信じ、新時代以降に究極のダンディズムによって、したたかに、たくましく、時代に抗っていったのだと思うのです。
 その彼のダンディズムの根底に想いを馳せたとき、わたしは、その反骨の志に、いつものように手前勝手に感動してしまっているのでした。
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by Tom5k | 2010-08-24 02:25 | サムライ(6) | Comments(2)

『サムライ』⑤~アキム・コレクション、『望郷』の鑑賞から想起したもの~

 ようやく北海道でも、フランス映画特集「アキム・コレクション」が、札幌市の蠍座(北区北9条3丁目タカノビルB1)で上映されることになりました。

 わたしは、札幌市在住ではないので、交通費や札幌往復の時間的ロスから、残念ながらアラン・ドロンの出演している2作品(2月3日(火)~9日(月)の『太陽がいっぱい』と、2月24日(火)~3月2日(月)の『太陽はひとりぼっち』)と、その同日上映作品以外の鑑賞は無理です。

 昨日(2月7日(土))は、『太陽がいっぱい』、そして、その同日上映の『望郷』を観てきました。
 都市部と郡部の文化格差に少なからず義憤を感じる日帰り旅行でもあったのですが、さすがに初めて劇場鑑賞できるこの2作品への期待感のほうが勝り、それほどの苦もなく、札幌までの行程とできました。

 わたしの映画ブログの先輩、「映画と暮らす、日々に暮らす。」の運営者であるvivajijiさん(姐さん)は、札幌在住ですので、もしかしたら来ていて会えるかもしれない、と思って、映画館に着いて、まずキョロキョロと館内を見回しておりましたが、双方顔を存じていないので、当然のことながらわからずじまいでした。エリザベス・テーラーに似ている人だと聞いていたのですが・・・いなかったな、そんなひと・・・?


 さて、フランスの映画プロデューサーであるエジプト出身のロベールとレイモンのアキム兄弟ですが、彼らの残した映画作品は20作品あまりで、それほど多い作品数ではありません。しかしながら、ほとんどが国際的規模での映画史に残る傑作揃いなのです。
 彼らは、すでに10代のときにパリに移住し、1935年以降、ハリウッドで学んだ映画産業のノウハウをフランス映画に還元していった名プロデューサーだったそうです。

 わたしが何よりもうれしいのは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」全盛期の時代に、フランス古典シネマの体系に近い古い体質を特徴する作品をプロデュースし続けていった実績なのです。いわゆる「cinéma de papa(パパの映画)」の系譜を持つ作品群であり、アラン・ドロンが主演している作品が2作品存在していることには、なるほど頷づける理由があるわけです。

【>アラン・ドロン
(略~)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa※」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(~略)】 
※cinéma de papaとは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーが付けた古いフランス映画への侮蔑的な呼称のこと。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」


 今回、札幌の「蠍座」では、彼らの残した名作が「アキム・コレクション」として、8作品が上映されます。
 すでに都市圏では上映が終了していたり、この8作品以外の作品も上映されているようです。神奈川、東京、大阪、名古屋、九州・・・・。

蠍座では、

2月3日(火)~9日(月)
 『望郷』(1937年)監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 
 『太陽がいっぱい』(1960年)監督:ルネ・クレマン
望郷
/ ジェネオン エンタテインメント





2月10日(火)~16日(月)
 『嘆きのテレーズ』(1952年)監督:マルセル・カルネ
 『エヴァの匂い』(1962年)監督:ジョセフ・ロージー
嘆きのテレーズ
/ ジェネオン エンタテインメント





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2月17日(火)~23日(月)
 『奥様ご用心』(1957年)監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 
 『昼顔』(1967年)監督:ルイス・ブニュエル

奥様ご用心 [DVD]

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昼顔
/ バンダイビジュアル





2月24日(火)~3月2日(月)
 『肉体の冠』(1951年)監督:ジャック・ベッケル
 『太陽はひとりぼっち』(1962年)監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
肉体の冠
/ ジェネオン エンタテインメント





 アキム兄弟の逸話で有名なのは、とジョセフ・ロージーとの確執でしょう。今回、上映される『エヴァの匂い』なども、契約条項上のファイナルカット(最終編集)権がアキム兄弟側にあるとしたことに気づかなかったジョセフ・ロージーは、自らの編集が適わないのであれば、公開時には、クレジット・タイトルから自らの名前を外すように依頼までしていたそうです。

 映画が作家主義のものであるとしていた「ヌーヴェル・ヴァーグ」の演出家たち、ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーの作品がアキム兄弟の作品にならなかったことは当然のことだったと思います。

 ただ、クロード・シャブロルの作品だけは例外であったようで、『二重の鍵』と『気のいい女たち』は、彼らのプロデュースによるものです。
 『いとこ同士』はどうなのでしょうか?もしそうなのであれば、映画のテーマやスタッフからも『いとこ同士』と『太陽がいっぱい』を連作として解釈することも可能であり、ルネ・クレマン&アラン・ドロンと「ヌーヴェル・ヴァーグ」との関係もその観点から新しい解析ができるような気がしています。
二重の鍵
/ ジェネオン エンタテインメント





気のいい女たち [DVD]

パイオニアLDC




いとこ同志
/ アイ・ヴィー・シー





 わたしとしては、今回の『望郷』と『太陽がいっぱい』は、TV放映やレンタル・ビデオで数え切れないほどの鑑賞をしていますし、現在はDVDを所有してますが、映画館での鑑賞は初めての体験です。
 今更なのですが、映画館での映画の鑑賞が真の意味での「映画鑑賞」であることを、今回は痛いほど思い知らされる経験となりました。

 自宅でのDVD等の映画鑑賞でも充分に映画の醍醐味を味あうことができることは間違いのないことではあるのでしょうが、この2作品が、わたしとしての思い入れが強いこともあって、DVD等での映画鑑賞は、映画館での鑑賞と比して、よくて4割から5割程度しか製作者サイドの思いが伝わらないようにまで思ってしまったのです。


 まずは、『望郷』を鑑賞したうえで、特に強く説得力を感じたものを挙げていくと、

 まず、冒頭のカスバという多国籍もしくは無国籍ともいえるエキゾチックな地域の風俗描写をリアルに表現した手法です。
 上空からの空撮で、カスバの全景からズーム・インしていき、そこに存在している街並みや生活する多種多様の人種をドキュメンタルに映し出して行くのです。
 犯罪が巣食うのが当たり前であるような奇怪で不衛生、荒んだ地域であること。犯罪捜査陣のディスカッションから、淡々としたナレーションに移し替えてカスバの映像をカット・バックする様子は、観る側に強烈なインパクトを与えます。

 また、ジャン・ギャバンの扮する逃亡者、犯罪集団のボス的存在も、当時のヒーロー、ジャン・ギャバンの登場シークエンスとして非常にセンセーションです。
 盗み出した宝石の闇鑑定のシークエンスにカットされ、ペペ・ル・モコの手の平に乗っている大粒の真珠のクローズ・アップから、サーチ・アップしてロー・アングルからのジャン・ギャバンのクローズ・アップでペペ・ル・モコの個性を明らかにさせていくのです。ライティングの効果もジャン・ギャバンのメイク・アップも素晴らしい!

 そして、ミレーユ・バランの扮するパリの女ギャビーとペペとの運命の邂逅です。
 彼女の表情、笑み、ソフト・フォーカスのクローズ・アップでの美しさ、取り分け、クロス・カッティンッグでのバランとギャバンの双方のエクストリームの超クローズ・アップ、しかもソフト・フォーカスによって、二人が一瞬にして惹かれ合ったことがわかるのです。

 冒頭からのこれほどの説得力は、自宅でのDVD等での鑑賞では、体感できてもせいぜい5割程度のものだと思います。
 巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエを映画館で鑑賞できたことの至福を感じていたこの段階では、列車代金や1時間20分に及ぶ路程におけるロスなど、わたしは全く惜しいとは思わなくなっていました。

 フェルナンド・シャルパンが演ずる裏切り者のレジスが銃殺されるシークエンスまで緊張感の高まりも、ジューク・ボックスの音響効果から生まれてきているものであり、歌手フレールの歌うパリを懐かしむシャンソンを蓄音機と肉声で交互に同時に聞かせる着想などは、どちらも映画がトーキーになって間もない頃の高等テクニックであったのだろうと思います。

 そして、何よりも印象に強く残るのは、ラスト・シークエンスのペペ・ル・モコの絶望的な絶叫と涙、そして、自殺したときのペペ・ル・モコの死の美しさです。
 フランス映画界でのジャン・ギャバンの後継者ともいわれていたアラン・ドロンが、彼の全盛期に「フレンチ・フィルム・ノワール」の多くの作品で、ひたすら主人公の「死」を、美意識として映像化しようとしていた動機が、この『望郷』でのペペ・ル・モコの死の美しさを超越しようとしていたものだったのではないかとも感じたところなのです。
 人間の死がこれほど、はかなく美しいものであることを、絵画的な美しさで表現した映像美の究極であったと思います。
 

 更には、ジャン・ピエール・メルヴィル監督がアラン・ドロンを起用して撮った『サムライ』の構成は、この『望郷』からの影響を少なからず、受けていると感じてしまうのはわたしだけなのでしょうか?
 この2作品がこれほど強く、わたしのなかで確信的に結びついたのは、今回の鑑賞によって初めて想起したことです。


 人物設定にも共通項が多く、

 『望郷』でのリュカ・グリドゥーが扮する刑事スリマンにしても、『サムライ』でフランソワ・ペリエが扮した主任警部にしても、犯罪者を追う執拗で手段を選ばない官憲の傲慢さに刑事としてのキャラクターが強く発揮されています。 

 また、リーヌ・ノロが扮するカスバの女イネスに、『サムライ』でのナタリー・ドロン扮するジャンヌ・ラグランジュを対比させれば、愛する男の、その愛情の対象が自分に対するものではないという共通項があるのです。
 イネスの複雑で哀しい女性としてのアンビバレントは、映画史上に残る素晴らしいキャラクターを生み出す設定であったように思います。彼女のギャビーを見つめる嫉妬と不安、怨恨を表現した表情、ペペ・ル・モコを見つめる悲哀の表情・・・。愛する男性から愛されることのない不幸をこれほど情感豊かに演技したリーヌ・ノロは、本当に素晴らしかったです。
 『サムライ』でのジャンヌのイノセントなジェフ・コステロに対する愛情も、暗黒街に生きる女であるが故に際立ったものとなっていたように思います。ジェフに愛されていなくても、自分が心底、男を愛することのできる幸福を純真に表現していたナタリー・ドロンは、『望郷』から30年以上を経た「女性」の進化だったともいえるのではないでしょうか?

 また、『望郷』でのパリの女ギャビーと、『サムライ』でのカティ・ロジェ扮するヴァレリーへのペペ・ル・モコやジェフ・コステロのひたむきな恋を対比させても、それが相手の心に通じない絶望感、すなわち男にとっての「死」に至るほどの純粋な女性への憧憬、彼らのロマンティズムとフェミニズムはこれほど純化させられたものとして一貫しているのです。

 透徹したノワール映像となっているこの2作品に、わたしはフランス映画史としての普遍の映画潮流を垣間見たように思ったのでした。
 さらには、『望郷』でのギャビーとイネス、『サムライ』でのヴァレリーとジャンヌ、有色の人種か否かの人物設定も時代的進歩として交差しているようにも感じました。


 強奪した宝石を闇鑑定している冒頭シークエンス、主人公ペペ・ル・モコが犯罪集団のボスであること、暗黒街ともいえるカスバを舞台としていること、警察との銃撃戦でのアクション、官憲の捜査プロット、「フレンチ・フィルム・ノワール」の特徴といわれている「友情と裏切り」、中産階級の不幸を背負った「ファム・ファタル」ともいえるギャビーのキャラクター・・・

など、『望郷』を「男のメロドラマ」と一括りにするには、あまりにも深い奥行きがあり、それはむしろ、フランス映画特有のノワール的傾向を象徴的に描き出している印象としてのほうが、わたしには強烈なのです。

 特に、ペペ・ル・モコの弟分であるギルバート・ジル扮するピエロの死、彼のその絶望感の表現などは、ジャック・ベッケル監督の『現金に手を出すな』で、リトン(ルネ・ダリー)を死なせてしまったジャン・ギャバンのマックス役へのプロローグとも取れるものであったように想起しました。

 このように考えていくと、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品の源流が、通説となっている1940年代のアメリカ・ハリウッドの「フィルム・ノワール」、1950年代の自国においてのジャック・ベッケルやアンリ・ジョルジュ・クルーゾーの「フレンチ・フィルム・ノワール」の作品群のみならず、

 1930年代のジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネの「詩的リアリスム」のノワール的特徴からのロマンティズムにも、直接、間接の大きな影響を受けていたのではないかと、わたしは手前勝手な感慨に深く耽ってしまっていたのです。
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by Tom5k | 2009-02-08 20:51 | サムライ(6) | Comments(6)

『サムライ』④ ~鍵束についての疑問 Astayさん と語る~

あるサイトにおいて、2006年11月9日から18日までの期間、アラン・ドロンのファン、及びその関連作品の熱烈な愛好家・コレクター等であり、ブログAstay☆Astay☆Astayを運営されているAstayさんと対論を交わしたことがごいました。
たいへん有意義でしたので、Astayさんの了承を得ずして、更新記事のアップをしてしまいます。


Astayさん
トムさん
"さむらいトム"さん
正直私は『サムライ』についての疑問点がたくさんあるんです(笑)
では・・・


トム(Tom5k)
>『サムライ』についての疑問点がたくさんあるんです。
とのこと。
興味がありますねえ。よかったら、教えて下さい。
では、また。
さむらいトム


Astayさん
トムさん、では、ちょっとだけ『サムライ』の疑問点を
でもこれはあるサイトに書かれてあった何方かのお言葉です

1.侍は孤独だ云々で始まるが、ドロンはかなり緊密なネットワークを築いており、決して孤独ではありえない.

2.最初シトロエンを盗むのに使った合い鍵の大きく重そうなあの束はいったいどこに消えたのか? 警察でも見つからずに済んだ.
捨てたのかと思えばさにあらず.もう一度同じような鍵束で車を盗む.しかも細身仕立てのウールコートのポケットから出てくる.おまえは手品使いか?

皆さん良くご覧になってますよね
で、私の一番の疑問点は、あの傷のお手当てに使用したガーゼ等を
なぜ、あんな紙袋のまま道端に捨てたのか?です
フランスってゴミ箱ないのでしょうかぁ~(* ̄m ̄)プッ


トム(Tom5k)
>Astayさん
ところで、『サムライ』の疑問点ですが、なんと難しい疑問点なのでしょうか?

>1.侍は孤独だ云々で始まるが、ドロンはかなり緊密なネットワークを築いており、決して孤独ではありえない.
確かに、おっしゃるとおりかもしれません。
しかし、どこかに孤独な自分をまだ、持っていたのかもしれません。
まして、彼の生育歴から過去においては孤独な時代も多くあったはず。
ですから、スターになった彼が孤独でないようでも、孤独を知っている男なのです。つまり、孤独を上手に表現できる俳優・スターなのです。
例えば、幼い頃から青年期までの貧困な生活、ハリウッドでの挫折、ロミーとの破局、ナタリーとの確執等々・・・。

>2.最初シトロエンを盗むのに使った合い鍵の大きく重そうなあの束はいったいどこに消えたのか? 警察でも見つからずに済んだ
>捨てたのかと思えばさにあらず.もう一度同じような鍵束で車を盗む.しかも細身仕立てのウールコートのポケットから出てくる.おまえは手品使いか?

あれは、儀式としての盗みであり、折り目正しい彼の行動原理を、「フィルム・ノワール」の作風で表現したものです。それが表現できれば良いので、そういった物理的な疑問は愚問だと思います(Astayさんの疑問じゃないですよね)。

※注
【疑問そのものが愚問だということではなく、侮蔑的な疑問の持ち方及び表現が大愚であると思うわけです。疑問そのものは大切なこと、これは言うまでもありません。】

観賞中は、演出効果におけるジェフの行動理解を優先すべきでしょう。
もっといえば、異化効果(ドイツの劇作家、詩人、演出家であるベルトルト・ブレヒトの演劇論による理論で、鑑賞者の思いこみや観賞の前提を、言葉や行動形態によって「ちょっとへんだな」とすることで強いショックを与え、俳優の演じる役柄や物語の内容に対する鑑賞者の作品への自然な同化をわざと妨げる手法)をねらったものかもしれません。

警察がジェフの部屋に盗聴器を仕掛けるシーンを入れれば三度あります。メルヴィル監督によれば「チャップリンの貴重な原則・・・観客に反応してもらうために同じことを三回見せるという原則」だそうです。

>あの傷のお手当てに使用したガーゼ等を
なぜ、あんな紙袋のまま道端に捨てたのか?

おっしゃるとおり、欧米ではゴミは持ち帰りの原則なんでしょうね。自分で出したものは自分で処理するのは日常の習慣となっているはず。
実はジェフは、惚れた死神ヴァレリーに会いたい一心のシーンでございます。無我夢中で、公共性がなくなったのだと思われます(ホントにかい?)。
もしかしたら、同様に異化効果をねらったシーンかもしれません。

【参考 『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年
及び
『トム(Tom5k)の勝手な推測』】を根拠に回答いたしました。ご批判を!
ジャン・ジャン!

では、また。
サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生
ルイ ノゲイラ Rui Nogueira 井上 真希 / 晶文社






Astayさん
トムさん
私の疑問『ゴミ』についての疑問に
素晴らしいお答えありがとうございます<(_ _)>

”惚れた死神ヴァレリー”がここで登場するとは思いませんでした
孤独なサムライ・ジェフもただの男だったのねってとこでしょうかぁ
何故か納得です

この前トムさんが購入された
『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著
は買わなければなりませんね
Amazonにまだ1冊だけ残ってました・・・買おうかな
ちょっと難しそうな内容だけど
全然読めないフランス語の本と違って(写真だけ楽しんでます・・・)
日本語なので何とかなるでしょう~

別サイト(マサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」の掲示板))での『サムライ』対談も面白かったです
あの、看板がモーリス・ロネだとは気付きませんでした

HP作成は夢の夢のまた夢で~す



Astayさんは、非常に実行力のある方で、ルイ・ノゲイラの著作をすぐに購入され、夢であった
ホーム・ページ(Cinema of Monsieur Delon)も、もうとっくのむかしに作成されています。
なお、マサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」の掲示板でも同様の疑問点が提示され、活発な議論が交わされていました。

鍵束についてのマサヤさんのご意見
「ジェフが鍵束を置きに部屋に戻るシーンをメルヴィルが描かなかったのは、あの映画前半の完璧ともいえる流れの中では、あまり必要ではなかったからではないか」
こちらの視点が最も説得力のあるご意見となっていたように感じております。
では、また。
トム(Tom5k)
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by Tom5k | 2007-08-02 23:48 | サムライ(6) | Comments(5)

『サムライ』③~メルヴィル演出におけるテーマ・編集・映像・シナリオ・音楽・俳優・スターシステム~

「私の意図は、分裂病的性癖に確実に冒された男の精神の混沌を見せることだった。カメラを後退移動させながら、同時にズーム・インしつつ、フェイドやオーヴァーラップでアクションをつけるという古典的な手法の代わりに、その同じ動きにいくつかのさりげないストップ・モーションとともに行ったんだ。ズームを続ける間は移動撮影を止め、また移動を始めるなどして、私は古典的な自然な映像のふくらみではなく、弾力性のある映像の膨張の印象を創り出して、その混沌とした感覚を表現しようとしたのさ。すべてが動き、同時にすべてが元の場所にとどまったままなんだ・・・。」
【引用~『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年】

サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生

ルイ ノゲイラ Rui Nogueira 井上 真希晶文社



 ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、この作品の主人公ジェフ・コステロが「殺し屋」であることから、その性質は分裂病であるとしています。既に冒頭のクレジット・タイトル・シーンで、彼の部屋を微妙に前後に揺れるように撮影していることやフランソワ・ド・ルーペのテーマ音楽のイントロなどによって、その精神状態が効果的に表現されています。

 また、ハンガリーの映画理論家のベラ・バラージュは、歩行ほどその主人公の無意識の動作を表現しているジェスチャーはないと主張していました。
「歩行こそもっとも表現力に富む、特殊な映画的ジェスチュアなのである。歩行ほど性格的な表現動作はない。ほかに理由があるかもしれぬが、主な理由は、それが無意識の表現動作だという点にある。(-中略-)歩行のもつ表現力をあますところなく利用することのできるものは、映画をおいてほかにない。」
【『映画の理論』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】

映画の理論

ベラ バラージュ Bela Balazs 佐々木 基一學藝書林



 「ジェフ・コステロの歩く姿」をテーマにした映画と言っても良いほど、アラン・ドロンが演ずる殺し屋ジェフ・コステロの歩行シーンは、この作品の主軸となっています。彼のキャラクターを創出するに当たって重要な役割を担っているそのシーンが連続して描写されているのです。
 そして、ジャン・ピエール・メルヴィル監督自身が語っているように、確かにドリー、パンニングやティルトと同時のズームは使用されておらず、ズームを使用しているときには、カメラを移動させていません。ズーミングによるフレーミング調整をせずに、ジェフの歩行をパンで追いながらもフレーム・アウトさせ、そのカット後に後姿をフレーム・インさせたり、また、ロング・ショット、フルフィギアから、ニーショット、バストショット、クローズ・アップと固定したカメラでジェフの歩行を正面から捉え続け、相手の殺し屋のクローズ・アップをカットバッグさせたりする印象深いシークエンスもあります。

 更に、フランソラ・ド・ルーペのテーマ音楽もアラン・ドロンの歩行リズムと完全に一致照応させ、主人公のキャラクターをより鮮明なものにしています。これは、音楽における運動と、映画の画面における造形的な運動との間に、極めて厳密な“一致照応”の関係があることを主張していた旧ソ連の大監督エイゼンシュテインの“トーキーの原理”を活用したものであり、正に映像技術の基本中の基本であると言えましょう。

 これらの素晴らしい技巧に加えて、カラー映像においてはブルートーンの基調で一貫させていることも印象的です。ジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出による一連の硬質なカメラ技術は、既に超「ヌーヴェル・ヴァーグ」と化したアンリ・ドカエが担当しています。

 「青」は、貧しさと知性をシンボライズしている色彩です。
 わたしは、ピカソの「青の時代」を思い出してしまうのですが、この『サムライ』の主人公ジェフ・コステロは決して貧相ではありません。憐れな貧しさではないのです。それは、今の日本では既に死語に近い言葉ですが、「武士道」でいうところの品位としての「清貧」を敢えて誇っているようにまで思えるのです。

武士道 (岩波文庫 青118-1)

新渡戸 稲造 / 岩波書店



 作品全編を通じて、表題である「サムライ」という日本の古典思想である「武士道」をシンボライズさせた着想によって、そのテーマや映像、編集、シナリオ、音楽、アラン・ドロンの演技とスター性など、斬新で優れたリアリズムを生成しています。

 ただ、わたしにとっての疑問、読み取れていない点も、いくつかあります。
 ファースト・シークエンスにおけるカメラ技巧の外に、ジャン・ピエール・メルヴィル監督ほどの斬新な演出家が、カットごとに今更ながら、古くさいワイプで場面転換を多用していること、監督自身は使用していないと言っているにも関わらず、オーバーラップを何度も使用していることなどです。また、ストップ・モーションを使用したと語っているシーンも、どのシーンか非常にわかりにくく、もしかしたら、元来の意味での「ストップ・モーション」のことではないのかもしれません。
 しかしながら、いずれにしても独特の技法でジェフの心象風景を表現し、それは全て的を得た成果を生んでいることに変わりはありません。彼のどの作品でも、個々の映像でのショットの連続性が、見る側の緊張感の連鎖を常に生み出す効果を創出しているのです。


 ナタリー・ドロン演ずるジャンヌ・ラグランジュは、ジェフ・コステロを心底、愛し切っています。彼女は、ジェフの役に立つことのみを生き甲斐にしている女性です。彼女の精神の純血は、「武士道」でいうところの「婦人の役割」を全うした立派な侍の妻のものだと言えましょう。恐らくジェフも、むかしから彼なりの方法で彼女を愛し続けてきたのでしょう。そして現在でも深く愛しているのだと思います。そういう意味では、ジャンヌは非常に幸せな女性です。

 しかしジェフは、カティ・ロジェ演ずるヴァレリーに恋をしています。
 彼女は、犯罪依頼人と同居しており、ジェフの疑問をはぐらかしたり、彼の電話を避けたことなどから、依頼人の情婦だと推測できます。

 それにしても、事件の証人を殺害するために再度、ジェフに依頼した殺害の対象者は誰なのでしょうか?この証人であると思われるのはジャンヌ、もしくはヴァレリーですが、この二人のどちらかなのかは非常にわかりにくく、ジャン・ピエール・メルヴィル監督は敢えてジャンヌとも、ヴァレリーともとれるように演出したようにも感じます。
 彼の演出特有の観る側へのイリュージョンの提示だったのかもしれません。

>証人を消そう
 ヤツに殺させるんだ

 依頼人宅で証人を殺害する議論がされたすぐ後、警察署内のカットに移ります。フランソワ・ペリエ演ずる警視とその部下たちが

>女はウソだ
 女を攻める手だな
 偽証罪になると脅すんだ
 ・・・
 さあ女を攻めろ

 このような場面転換から考えれば、ジャンヌがその対象である印象を受けることもあり得るでしょう。
 もし、警察が彼女を墜としてしまうとジェフが犯人だとわかってしまい、そこから足が付くことも有り得るわけですから、犯人側からすれば最悪の事態となります。当然のことながら、彼らがジャンヌの殺害を目論んでも不自然ではありません。
 しかし、自分を最大に愛してくれている愛しいジャンヌの殺害を、ジェフが引き受けるわけがありません。
 そして、依頼した相手とヴァレリーは共謀、もしかしたら彼女が主犯となり得るわけですから、ジェフがヴァレリーに銃を向けることは必然となるわけです。が、しかし、ジェフはヴァレリーに恋をしており、彼女を殺害することは不可能なわけです。
 この場合の彼女は、「フィルム・ノワール」のセオリーどおりの典型的なファム・ファタルだったといえましょう。

>どうなの私が必要でしょ?
>いや
>ウソよ 何をするの?助けたいの
>いいんだ

 自分を必要として欲しいという願うジャンヌにジェフは
>おれの仕事だ

 と言って立ち去ります。

 また、ラスト・シーンでは、
>演奏中よ
 ジェフはヴァレリーに銃を向けます。
>どうして?
 との問いかけにジェフは
>仕事さ

 と言い放つセリフがあります。

 これらのことから考えれば、現在、一般的に解釈されているように、証人としての殺害依頼の対象となっているのがヴァレリーであるとすることが、最も妥当な解釈となります。

 殺しの依頼に対する自分の考え方が、「仕事」であると割り切っていることを理解している女性二人にジェフが、そう言い放っているシーンが、このように二度もあるからです。その目的、すなわちヴァレリーの殺害を指している言葉が「仕事」、すなわち「依頼された業務」であるから使った言葉なのでしょう。
 この場合、彼女が依頼人と共謀していたとは言え、完全に情夫に裏切られた女性となります。恐らく、ジェフもそのことに気付いているでしょう。彼にとっては、恋した女性であることに加えて、彼女が依頼人と共謀しているものの自分を助けてくれた女性であり、彼から見れば非常に哀れな女性に見えるのではないでしょうか?
 そして、ジェフは主犯格の犯人を殺害しますので、本来であれば、もはやヴァレリーを殺害することに意味はありません。しかし、仕事を全うしようとするプロの殺し屋として生きるしかなかった彼は、ヴァレリーの元へ向かい、彼女に銃口を向けるのです。彼女に恋してしまったことで、自分の仕事への潔癖を否定せざるを得なかった彼は、死を選択するしかなかったのです。

 いずれにしても、この作品のテーマが、男性が女性のために自殺せざるを得ないほどの強いフェミニズムを描いたものだということが理解できますし、ラスト・シークエンスの「切腹」とも言えるジェフの自害は、このテーマから必然の結末です。
 女性を拒否する作品が多い「フレンチ・フィルム・ノワール」で、この作品ほどフェミニズムに溢れた作品はありません。特に、ジャン・ピエール・メルヴィル監督のアラン・ドロン主演作品としては、『仁義』や『リスボン特急』と比べても、際立って異質なテーマだと言えましょう。

 女性を拒否することをトレード・マークにしていたアラン・ドロンが、女性のために死を決します。しかも、その行為は非常に男らしい潔癖さで実行されるのです。全盛期のアラン・ドロンのキャラクターを初めて完成させた『サムライ』の作品テーマが、女性を守るために自らが破滅することを描いていたものでした。
 このようなジャン・ピエール・メルヴィル演出における「フレンチ・フィルム・ノワール」へのスター・システムの効用に、わたしは必要以上に驚いてしまったのです。
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by Tom5k | 2006-12-03 13:51 | サムライ(6) | Comments(20)

『サムライ』②~フランス人から見た武士道の精神~

武士道
新渡戸 稲造 矢内原 忠雄 / 岩波書店






「運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を卑しみ死を親しむ心・・・・・」
【第二章 武士道の淵源】より

「勇気が人のたましいに宿れる姿は、平静すなわち心の落ち着きとして現れる。平静は静止的状態における勇気である。敢為の行為が勇気の動態的表現たるに対し、平静はその静態的表現である。真に勇敢なる人は常に沈着である。彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神の平静を紊さない。激しき戦闘の最中にも彼は冷静であり、大事変の真中にありても彼は心の平静を保つ。地震も彼を震わず、彼は嵐を見て笑う。危険もしくは死の驚異に面しても沈着を失わざる者、・・・・・」
【第四章 勇・敢為堅忍の精神(1)補注】より

「名誉の感覚は人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む~(中略)~その観念は「名」、「面目」、「外聞」等の語によりて伝えられた。~(中略)~善き名-人の名声、「人自身の不死の部分、これなくんば人は禽獣である」-は、その潔白に対するいかなる侵害をも恥辱と感ずることを当然のこととなした。」
【第八章 名誉】より

「しかるに武士道においては、家族とその成員の利害は一体である、-一にして分かつべからざるものとなす。この利害を武士道は愛情と結びつけた-自然に、本能的に、不可抗的に。それ故に、もし我々が自然愛(動物でさえもつところの)によりて愛する者のために死ぬとも、それがなんであるか。」
【第九章 忠義】より

「武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。
~(中略)~
武士道は非経済的である。それは貧困を誇る。」
【第十章 武士の教育および訓練】より

「武士が感情を面に現わすは男らしくないと考えられた。「喜怒色に現わさず」とは、偉大なる人物を評する場合に用いらるる句であった。最も自然なる愛情も抑制せられた。父が子を抱くは彼の威厳を傷つくることであり、夫は妻に接吻しなかった-私室においてはともかく、他人の面前にてはこれをなさなかったのである。」
【第十一章 克己】より

「切腹が単なる自殺の方法でなかったことを領解せられたであろう。それは法律上ならびに礼法上の制度であった。中世の発明として、それは武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を贖い、もしくは自己の誠実を証明する方法であった。」
【第十二章 自殺および復仇の制度】より

『武士道』(新渡戸 稲造 著、矢内原 忠雄 訳 1938年 岩波文庫より)-各章より抜粋-


 映画『サムライ』の冒頭は、飾り気のない淋しいアパルトマンの一室のシーンから始まり、アラン・ドロン演じる殺し屋ジェフ・コステロ、一緒に住んでいる鳥籠の小鳥が映し出される。彼らが、唯一の信頼し合える友人同士なのだということが、すでにこの場面から察することができ、映画を観るものはジェフの孤独を強烈な印象で受け止めることになる。

 ストーリーは一貫して静的な表現で進められながら、各場面は常にスリリングに展開する。
 殺しの依頼の実行、目撃者のピアニスト、ヴァレリーの偽証、警察の執拗な捜査、依頼者の裏切り、飼っている小鳥の忠賢、愛人ジャンヌとの愛情と別れ。依頼者への復讐。

 そして、殺し屋ジェフ・コステロは、ラストのクライマックス、最後の舞台となるクラブで、ついに第二の殺しの依頼通りにヴァレリーに銃口を向ける。ジェフが彼女を撃とうとしたその瞬間、張り込んでいた警官の銃が一瞬早く火を吹き、彼は死を迎えることとなる。
 警察が事件を食い止めたのだろうか。いや、そうでは無い。ジェフのピストルには弾が込められていなかった。彼は自らが殺されることを知ったうえで、あえてヴァレリーに銃を向けたのだった。

 殺し屋ジェフの禁欲的な勇気、そして、自己の尊厳からくるのであろう、いかなる事象、いかなる局面においても動じない冷静沈着な行動、純白ともいえる潔癖さ、貧困をも誇りとしているような清貧の生活、盗聴器の仕掛けや依頼者の送り込んだ刺客が部屋に潜んでいることなどを教えてくれる主人に対する小鳥の忠実さ、そして、愛すべきジャンヌに対しては、何の感情表現もしないストイシズム。
 ジェフはヴァレリーに心を動かされたことで仕事への潔癖を否定せざるを得なかったのだろうか。彼は死を選ぶことになる。

 この作品によって、日本的武士道の思想の全てが描かれたわけではない。しかし、描かれていることのほとんどが武士道に遵守している。

 この作品は言うまでもなく、フランスの映画である。監督のジャン・ピエール・メルヴィル、主演のアラン・ドロンはじめ、他のスタッフ・キャストも、ほとんどがフランス人であり、舞台も現代のパリの夜の街である。


「この間、アラン・ドロン主演の「サムライ」という映画が来たが、日本人が“サムライ”ということばでどれだけ理想化されているかがわかって、ちょっとくすぐったい。日本文化が西洋文化に紹介されたなどと言っているけれども、西洋人の頭の中にある日本男性は、やはり、“サムライ”のイメージでとらえられていることが多いようである。
~(中略)~
 われわれにとって“サムライ”はわれわれの父祖の姿であるが、西洋人にとっては、いわゆるノーブル・サヴェッジ(高貴なる野蛮人)のイメージでもあろう。われわれはもっと野蛮人であることを誇りにすべきである。」

『若きサムライのために~勇者とは~』
(三島 由紀夫 著 昭和44年 日本教文社刊より)

若きサムライのために
三島 由紀夫 / 文芸春秋
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by Tom5k | 2005-07-19 23:48 | サムライ(6) | Comments(2)

『サムライ』①~武士道における婦人の役割~

 映画『サムライ』がアラン・ドロンや犯罪映画のファンのみならず、フランス映画史にとっても非常に重要な作品であることは既に周知のことだ。フランス映画としての「フィルム・ノワール」の作風を極限まで結晶させたことも然り、そのテーマにおいても極めて個性的であり、他の同種の作品と比べても映像・俳優・音楽・脚本・ストーリーのプロット等全てにおいて、スタイリッシュの極致ともいえる素晴らしさを傑出させている。

 わたしはこの作品のテーマにこだわったとき、アラン・ドロン演じる孤独な殺し屋ジェフ・コステロの愛人ジャンヌ・ラグランジュを忘れることができない。当時のアラン・ドロン夫人であったナタリー・ドロンが素晴らしく、彼女の好演によって、この作品のテ-マであった日本人の精神をより鮮明に印象づける作品とすることができたとまで思ってしまう。


『女子がその夫、家庭ならび家族のために身を棄つるは、男子が主君と国のために身棄つると同様に、喜んでかつ立派になされた。自己否定-これなくしては何ら人生の謎は解決せられない-は男子の忠義におけると同様、女子の家庭性の基調であった。
 女子が男子の奴隷でなかったことは、彼女の夫が封建君主の奴隷でなかったと同様である。女子の果たしたる役割は、内助すなわち「内側の助け」であった。奉仕の上昇階段に立ちて女子は男子のために己れを棄て、これにより男子をして主君のために己れを棄つるをえしめ、主君はまたこれによって天に従わんがためであった。』

「武士道」-第十四章 婦人の地位-
(新渡戸 稲造 著、矢内原 忠雄 訳 1938年 岩波文庫より)


 この作品の大きなテーマは、作品名の『LE SAMOURAI』からもわかるように、ヨーロッパ人から見た日本思想の典型である武士道を理想化したものだった。そして、この思想を原則通りに最も極めていたといえるのは、殺し屋ジェフを愛していたジャンヌにおいてではなかっただろうか。
 愛する男のため、自らの未来を棄て、偽証の証人となったジャンヌ。官憲の脅迫ともいえる執拗・強引で作為的な取り調べに対しても、気丈にジェフへの誠実な愛情を一貫させていた。
 そして、自分の愛するジェフ・コステロに必要とされることを最も望み、それを生きる意味としていたジャンヌは、武士道に遵守した婦人の役割を全うした立派なサムライの妻であり、心から愛すべき女性であるといえよう。
 あえて、多くのフェミニズムの思想に抗することを覚悟できれば、「このような封建の女性に愛されることほど幸せな男はいない」という男性諸氏は現在の民主主義国家である日本においても、恐らく私だけではないだろうと不遜にも考えてしまう。
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by Tom5k | 2005-07-17 21:54 | サムライ(6) | Comments(4)