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『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』③~ルイ・マルの作家主義その2~

 ルイ・マル監督の代表作、それは映画史に残る傑作『死刑台のエレベーター』です。
 この作品で彼が目指したもの、それはロベール・ブレッソンの助監督をしていたときの経験において、その作品への崇拝から“ブレッソンの映像”と張り合おうとしていたものであったこと、と同時に「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の評論家たちが絶賛していたアルフレッド・ヒッチコックのような“映画のプロット”の追求であったとのことです。

 このようなことから察すれば、『死刑台のエレベーター』が、人間がその内奥で苦悩する問題にまで掘り下げたテーマを追求するところには、残念ながら至らなかった作品でもあるのです。もちろん、映画として必ずしもそのことが必要であったわけではないと思います。
 『死刑台のエレベーター』は、その映像の素晴らしさや、映像と音楽の一致・照応、ストーリー・プロット等において、映画史に残るセンセーショナルな作品であることは言うまでもないわけですから・・・。
 アンリ・ドカエのカメラ、特に好感度フィルムの使用によるライティングなしの夜間撮影、モダン・ジャズ・トランペッターのマイルス・デイヴィスによるシネジャズとういうジャンルの確立、ジャンヌ・モローの新しいセックス・アピールによるキャラクターの開花等々、あらゆる映画のエッセンスが革新されることになった作品です。
死刑台のエレベーター
ジャンヌ・モロー / / 紀伊國屋書店





 そして、ルイ・マルが『ウィリアム・ウィルソン』の前段に位置する主人公を登場させている『鬼火』です。

 この作品の制作過程では、ルイ・マル監督の自身の経験や作家としてのテーマが映画での表現として確立されていきます。
 ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルの原作を使用し、シナリオの共同作業を止めて初めて自分一人でシナリオを書き上げたこと、『死刑台のエレベーター』と同様に、今度はエリック・サティのピアノ曲「三つのジムノペティ」を挿入し、モーリス・ロネへの厳しい演技の指導や、少人数のスタッフで行ったモノクローム・フィルムのオール・ロケーション撮影、などを含めて、一本の作品を撮影中でも編集中でも、完全に管理できた最初の作品はこの『鬼火』からであったそうなのです。

 主人公アランは、ルイ・マル本人の投影でしょう。年齢や経験から社会的な役割を担えず、それを社会に埋没することとしか理解できず、孤独に蝕まれ自殺によって自己を表現するしかなくなってしまうモーリス・ロネが演じる主人公のアラン。
 彼の自殺は、かつて『望郷』でジャン・ギャバンが演じたペぺル・モコが、犯罪者として社会から疎外され、パリと恋への執着に絶望して死を全うした旧時代のロマンティシズムとは全く異なり、戦後のパリ、『死刑台のエレベーター』で描かれていたような近代的で無機質なパリでの孤独な死であり、ニヒリズムが透徹してしまった陰鬱な死なのです。
望郷
/ バンダイビジュアル





 また、そういった経緯から、『鬼火』は、自分自身の内奥の苦悩を語った初めての作品であり、興業的なものは全く意識されておらず、ルイ・マルが自分自身だけのために制作した作品であり、更に彼の作家としての自覚が強く生み出されていった作品だったといえましょう。
鬼火
モーリス・ロネ / / 紀伊國屋書店





サティ 2
エリック・サティ / / マイスターミュージック





 ルイ・マルは、『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』の制作動機のひとつについて、次のように語っています。

「(-略-)私は怒りっぽく、不機嫌になり、“一体私はここで何をしているんだ?”と自分に問いただしていた。むろん、こんな条件の撮影を引き受けなければよかったんだろうが、私はこのストーリーの核である《分身》というテーマにとても興味をもっていたんだ。映画が公開された折、精神分析者である友人が、私にこう言った。“君は転機を迎えているんだよ。つまり、君は迷いの時期にあって、自己の存在に疑問を抱いているのさ。だから、君が分身をもった男のストーリーを作ることになったのは、それほど意外なことじゃないよ。”しかし、この小説を読んだ時には、私は自分の問題に全く気づいていなかった。(-略-)」


フィリップ・フレンチ
「そして、またこの映画(『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』)でもあなたが繰り返すテーマのひとつである自殺が、哲学的命題として提出されています。ウィルソンはもうひとりの自分を破壊していくわけですが、これをあなたはポーの原作よりもはっきりと描いていますね」

ルイ・マル
「(-略-)わたしは無意識のうちに思っていたよりかなり個人的な要素をこの作品に盛り込んでいた。このウィリアム・ウィルソンというキャラクターは『鬼火』の主人公の延長線にある自己喪失の危機に陥っている男であり、私はこれを撮影した時の気分でオペラのような劇的なイメージに作り上げていた。」

 ルイ・マル監督のこの『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』での作家主義は、これらの言葉にすべて集約されているとわたしは思います。




 また着目すべきは、彼の演出における俳優についてです。
 彼はジャック・イブ・クストーの『沈黙の世界』などで海洋ドキュメンタリーでデビューし、ロベール・ブレッソンの助監督をした経験などからもわかるように、プロの俳優を初めて使ったのは『死刑台のエレベーター』からでした。
沈黙の世界
ドキュメンタリー映画 / / コロムビアミュージックエンタテインメント





 ですから、俳優の演技指導に関わっては、経験的に極めて不得手であったと述懐しています。
 考えてみれば、ルイ・マルの作品に出演していた時点では既にスターであった俳優、モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、ブリジット・バルドー、ジャン・ポール・ベルモンドたちも、元来は低予算の「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品で活躍していた、しかも気心の知れた自分の仲間たちばかりです。
恋人たち
ジャンヌ・モロー / / 紀伊國屋書店





地下鉄のザジ
カトリーヌ・ドモンジョ / / 紀伊國屋書店





パリの大泥棒
/ 紀伊國屋書店





ビバ、マリア
/ 紀伊國屋書店





 確かに、この『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』のラスト・シークエンスでさえも、教会から飛び降りて自殺したアラン・ドロンが扮するウィリアム・ウィルソンを覗き込む老人たちは、プロの俳優には見えません。この作品の幻想的でフィクショナリーな内容が、最後の最後に、もしかしたら、これはリアルな現実であるのではないのか?との想いが、突如、喚起されてくるような効果を生み出してくるのは、このような素人をティパージュ(型・典型)として配置した編集の結果からなのではないでしょうか?

 ともあれ、ルイ・マルが「ヌーヴェル・ヴァーグ」出身以外の本格的なスター俳優、職業的俳優を中心においた作品は、アラン・ドロンを使ったこの『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』が、初めてだったとも言えるのではないでしょうか?

ルイ・マル
「ストーリーは素晴らしかった。しかし、私はかなり妙な気分だった。とても憂鬱で暗く、ほとんど自殺したいような気分だった。アラン・ドロンには苦労したよ。彼は私が一緒に映画を作った俳優の中でもかなり気難しい、いや、最も難しい俳優だった」

フィリップ・フレンチ
「どう難しかったのですか?」

ルイ・マル
「彼の気難しさには定評があった。ドロンはもともと指図されるのをとても嫌がるんだ。彼はこの映画のあとすぐに自分がプロデューサーになって、周りの人々にいばりちらしていた。そして、私は、ドロンの誠実さと才能にもかなり疑問を抱いていたので、私たちは撮影現場で絶えず口論するようになり、非常にやりにくくなっていた。(-略-)」

 しかしながら、上記の哲学的命題ともいえるルイ・マルの自己喪失や二重自我の問題に関わってのテーマは、そもそもデビュー当時からのアラン・ドロンの専売特許ともいえ、それは彼のキャラクターに一分の間隙もなくあてはまるような気がするのです。

『太陽がいっぱい』では、ブルジョアの青年に対する愛憎から、犯罪によって自分が彼に成り切ろうとしてしまう貧困な青年、
『生きる歓び』では、テロリストの英雄に憧憬し、テロリストに成りすます救護施設出身の青年、
『フランス式十戒「第6話 汝、父母をうやまうべし、汝偽証するなかれ」』では、本当の“自分の母親”の不良性向に絶望する学生、
『黒いチューリップ』ではひ弱なインテリ青年の弟と、義賊の兄の二役、

など、自国フランス作品で、このようなキャラクターを確立してきた経緯があります。
 すでに彼は、この作品に出演するまでの間に、自己を喪失したり人格を分裂させてしまったりする主人公を、これほど何度も演じてきているわけです。

 ただ、これらの作品は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちが息の根を止めてしまうほど徹底的に批判していった「詩(心理)的レアリスム」の演出家たち、ルネ・クレマン、ジュリアン・デュヴィヴィエ、クリスチャン・ジャックの作品ばかりなのです。
 そして、ルイ・マルにとっても、彼が「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派に帰属する作家ではなかったとはいえ、やはり「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動の体系では主たる位置を占める映画作家です。「詩(心理)的レアリスム」の作品、その俳優を再評価するキャパシティなど確立し得ないことは無理のないことです。

 アラン・ドロンのルイ・マルに対する憤りや不誠実も、そのことを考えれば納得できるような気がします。逆に彼がもし、ルイ・マルに対して優等生的に信頼関係を構築などしていったのだとしたら、それはむしろ自分を育ててくれた師匠たちに対して、不誠実極まりない行動だと、わたしには感じられます。


 しかし、ルイ・マルは、誰しもが周知しているとおりのこれだけ優れた映画作家です。したたかにアラン・ドロンの資質を見抜き、彼のその特徴を自作に適合させる演技指導を、無意識ともいえる独自のものとして、撮影中に定着させていったようにも思えるのです。
 しかも、華やかなハリウッドから帰還したばかりの大スターであるアラン・ドロンだったとはいえ、彼は元来、ルキノ・ヴィスコンティやミケランジェロ・アントニーオーニ、ルネ・クレマンに磨きをかけられ、鍛え抜かれた、リアリズム映画の俳優でした。

ルイ・マル
「(-略-)不思議とドロンは適役だったが、私に対する怒りがうまく役に合ってたんだと思う。だから、私は撮影中は絶えずドロンを怒らせることに精を出したんだ!」

 どうでしょう?このしたたかさ!
 アラン・ドロンを嫌悪し、彼の誠意も、才能すら信じていないルイ・マルは、逆にそのことを利用して、これだけ素晴らしいウィリアム・ウィルソン像をアラン・ドロンにおいて確立していったのです。

 そして、ルイ・マルと対立しながらも、ウィリアム・ウィルソンを演じきったアラン・ドロン!

 


南俊子
「今までに、どんな作品が印象に残ってらっしゃいますか。」

 映画監督である斎藤耕一氏は、アラン・ドロンの熱烈なファンであった映画評論家の南俊子氏のアラン・ドロン作品に関するこの質問に、次のように回答しています。

斎藤耕一
「ぼくはね。オムニバスの「世にも怪奇な物語」、あの中で自分自身がもう一人でてくるの・・・。現代ものももちろんいいけど、ああいう世界の男というのが実にいいと思いますねえ。(-略-)」

【(『デラックスカラーシネアルバム5 アラン・ドロン 凄艶のかげり、男の魅力 斎藤耕一+南俊子《ドロンを語る》現代的な感性を表現できる不思議な人』南俊子責任編集 芳賀書店)より引用】



【参考・引用】
『マル・オン・マル/ルイ・マル、自作を語る』フィリップ・フレンチ著、平井ゆかり訳、キネマ旬報社、1993年
マル・オン・マル―ルイ・マル、自作を語る
/ キネマ旬報社
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by Tom5k | 2008-05-24 22:13 | 世にも怪奇な物語(3) | Comments(27)

『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』②~ルイ・マルの作家主義~

 【『マル・オン・マル/ルイ・マル、自作を語る』フィリップ・フレンチ著、平井ゆかり訳、キネマ旬報社、1993年】というルイ・マル監督の素晴らしい自伝的著作があります。そこでの彼は、この『世にも怪奇な物語 第二話「影を殺した男(ウィリアム・ウィルソン)」』に関わっても、多くの興味深いエピソードなどを語っています。
マル・オン・マル―ルイ・マル、自作を語る
/ キネマ旬報社





 この著作の構成は、編者であるフィリップ・フレンチからルイ・マルへのインタビュー形式を取っています。ジャン・ポール・ベルモンドを主演にした『パリの大泥棒』の項から、この『影を殺した男(ウィリアム・ウィルソン)』のテーマに遷りますが、これはルイ・マルが作品を制作していった順序の通りです。
パリの大泥棒
/ 紀伊國屋書店





 まず、この作品を手懸ける背景や、きっかけなどが語られていきます。

 1960年代のオムニバス映画の量産がその時代の傾向であったこと、この作品がイタリア資本によって製作された経緯、アラン・ドロンが電話を直接かけて話しをもちかけたというエピソードなど・・・。

 当時の自分が映画作家として行き詰っていたことや、パリから離れてイタリアで仕事が出来ること、実現はしませんでしたが、オーソン・ウェルズが最後のエピソードを担当することが予定されていたこと、などがこの仕事を引き受けた理由だったようですが、

 第一話のロジェ・ヴァデムの実力を買っていなかったこと、ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーと異なる自分の映画作りには、オムニバス映画が向かないと思っていたこと、などからこの作品の演出には消極的だったそうです。

 更に彼は、特に次のように語っています。

「(-略-)私は作品全体の一部しか作れず、この映画は私の映画ではないというフラストレーションを感じるだろう。(-中略-)これ(オムニバス映画)はプロデューサーによるこけおどしのような映画であることを認識してほしい。(-中略-)これ(映画『ウィリアム・ウィルソン』)は『私生活』や『クラッカーズ』と同じように、依頼されて作ったもので、私ではなく、プロデューサーの映画だった。違うのは、この場合は一本の映画の三分の一だけだったということだった。」


 インタビューの始まりにおいては、ルイ・マルは、このように自作の評価や作品を手懸けた動機について、あまり芳しい回答はしていませんが、インタビュアーであるフィリップ・フレンチの優れた問いかけに、徐々に作品の本質に触れる回答をしていくことになります。

 彼はシナリオにおいては、可もなく不可もないとしたうえで、
「素晴らしいイタリアの撮影監督(『ルシアンの青春』のトニノ・デリ・コリ)に加え、もうひとりの才能あるイタリア人編集者、フランコ・アルカッリに出会うことができた。(-中略-)アルカッリはこの40分というフィルムの長さとそのテーマから、この映画が観客を不安にし、はらはらさせるものでなければならないことがわかっていたんだ。そこで、私たちは《カット・バック》法で多くのシーンを切り刻むことにした。(-略-)」
ルシアンの青春






 シナリオについてのこだわりがないことや、フィルムの編集における充実にポイントを絞って作品制作に挑んでいたことは、やはり彼が「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動の一端を担っていた作家主義の演出家であることの現れであるとわたしは感じました。

 しかし、作品の編集におけるカッティングが、アンドレ・バザンのあの有名なアンチ・モンタージュ論からの長回しや、ジャン・リュック・ゴダール監督のジャンプ・カットなどとは全く異なり、むしろ映画の初期のエイゼンシュテインのモンタージュ技法に近いものであることは、注目に値すべきだと思います。
 この作品でルイ・マル自身が印象深いと語ったフランコ・アルカッリとの「カット・バック法」のフィルム編集の素晴らしさは作品を鑑賞することをもってすべてを理解することが可能だと思いますが、敢えてわたしが印象深かった箇所を挙げれば、

 まずは、アラン・ドロンが演ずるウィリアム・ウィルソンが走っている冒頭のシークエンスです。
 ウィリアム・ウィルソンから見た大きな古い建物の間の壁面と石畳の小路の主観描写のドリーと、演ずるアラン・ドロンの横顔・正面からのクローズ・アップとが交互にカットされています。それは数カットが連続使用されているショットもあり、同じショットであるにも関わらず、ストップ・モーションのような印象がうまれ、緊張感やスピード感が増幅しているのです。
 それに加えて教会の上方から落ちる男のショットがスローモーションで何度もインサートされ、冒頭の数十秒で観る側は物語に引きつけられてしまいます。
 アラン・ドロンの表情の演技からも、ただごとではない何かが起こっていることが想起させられ、実にセンセーショナルな幕開けです。

 次に、それほど斬新な方法だとは思わないのですが、教会の懺悔室のショットからウィリアム・ウィルソンの悪行の数々が、その都度フラッシュ・バックされる構成も、現在の焦燥している彼の様子などから、過去に何があったのか、そのセンテンスごとに好奇心が刺激されていくのです。

 ショキングなのは、夜の町で捕らえた若い女性を医学校の講義実験室の手術台に緊縛し、生体実験を実施しようとする逸話です。エドガー・アラン・ポーの原作にはありませんが、実に強烈で印象深いシークエンスとなっています。
 特にドッペルゲンガーのウィリアム・ウィルソンが現れるショットは、バック・ライトのシルエットで表現されており、それまでのアラン・ドロンのウィリアム・ウィルソンのサディスティックで陰鬱な雰囲気から急展開し、質の異なる新たな緊張感を生み出す効果を上げています。

 更に、女性のセクシュアルな心理がみごとに表現されており、これも強く印象を残します。ドッペルゲンガーのウィリアム・ウィルソンに助けられたときの女性の行動です。

 彼女はドッペルゲンガーに助けてもらいながら、自分に暴力を振るったアラン・ドロンのウィリアム・ウィルソンの方へ逃げようとするのです。
 どんな形であれ「ウィリアム・ウィルソンに選ばれた」という潜在意識が彼女の中に生まれていたのかもしれません。なまじっかの「正義の味方」なんて、自分が惨めになるだけです。まさに女性の破滅願望が、典型的に表現されていた優れたシークエンスであったように思います。
【参考~武田さんのブログ『終日暖気』の記事「世にも怪奇な物語~影を殺した男~」】

 そしてそれは、フィルムの編集においても、非常にスリリングなのです。

 苦渋と困惑の表情で左右のふたりのウィルソンを見る女性のクローズアップから、悪行を行ったウィルソンの唖然とした表情、実習用のメスが握られた彼の手のショット、叫び声をあげながら裸のままでウィルソンに抱きついていく彼女の衝動、苦痛に歪んだクローズアップからティルト・ダウンして深く傷ついた脇腹の傷口をインサートし、苦悶の表情のクローズアップから、フォーカスをずらして画質を不鮮明(フォーカス・トラジッション)にして、懺悔室のシーンに戻すのです。


 ブリジット・バルドー演ずる女性賭博師とのカードでの勝負の場面も、素晴らしいモンタージュが駆使されています。まるで、今、自分がそこでその勝負に関わっているように臨場感が溢れ出ています。長丁場のギャンブル特有の緊張と怠惰の雰囲気が連続して映し出されていくのです。
 アラン・ドロンとブリジット・バルドーのクローズ・アップは正面・横顔を交互に撮し、カード、コイン、懐中時計、デカンター、グラスに注ぐワイン、負けの支払いの小切手にペンを走らせる手のクローズ・アップ、ローソクの火で付けるハマキ・・・・等々。
 深夜、明け方まで勝負が続く長時間にわたる緊張と惰性の状況が、ほとんどセリフが無いにも関わらず、映画を観る側は体験できてしまうのです。

 とうとう最後に彼女は、ウィリアム・ウィルソンのいかさまで敗者となってしまうわけですが、支払う金銭を使い果たしてしまった彼女にウィルソンが出した要求は、背中を鞭で打つというサディスティックな代償でした。
 アラン・ドロンのクローズ・アップと、鞭打たれて傷だらけになるブリジット・バルドーの背中、そして苦悶の表情の連続ショット。


 その後のウィルソンとドッペルゲンガーとの決闘シーンも鬼気迫るショットの連続でしたが、ドッペルゲンガーが刺殺されるときのシークエンスも凄い迫力でした。

 ドッペルゲンガーを刺殺しようとするウィリアム・ウィルソンの手に握られている短刀、
 叫び声をあげながらドッペルゲンガーに向かって走るウィルソンのクローズ・アップ、
 ドッペルゲンガーの脇腹、
 悲鳴をあげる仮面のアップ、
 ドッペルゲンガーを何度も刺すウィルソンのアップ、
 倒れるドッペルゲンガー、
 虚脱したようなウィルソンのアップ、
 脇腹に刺さった短刀としたたる血、
 茫然とするウィルソンのアップ、
 ドッペルゲンガーの仮面を外そうとするウィルソンを下方遠景からロングで撮すショット、
 ウィルソンからの主観描写で仮面を外し、ドッペルゲンガーの素顔のクローズ・アップ・・・

と、息もつかせぬモンタージュの連続。しかも、このシークエンスにはアラン・ドロンしか登場していないのです。

 そして、あの原作でも有名なドッペルゲンガーの最期の台詞です。

「ウィルソン なぜ私を殺した お前は存在しなくなる 世界は終わりだ 希望も終わりだ 私が死ねば お前も死ぬ」

【君は勝った。僕は降参する。だが、これからは君ももう死人だ。-この世に対し、天国に対し、そして、また希望に対して死人なのだ。君は僕の中にあって生きていたのだ。-その僕の死によって-さあ、この僕の姿、取りも直さず君自身なのだが、よく見るがよい-結局君がいかに完全に自分自身を殺してしまったかをな】
(「ウィリアム・ウィルソン」エドガー・アラン・ポー著 中野好夫訳)
黒猫―他三篇 (1953年) (岩波文庫〈第4949〉)
/ 岩波書店





ポーの黒夢城 (STORY REMIX)
Edgar Allan Poe / / 大栄出版





 エドガー・アラン・ポーの原作では、このセリフが最後に物語りは綴じられているのですが、ルイ・マルには別のこだわりがあったようです。

 フィリップ・フレンチのインタビューでは、いよいよ本質的な質問をルイ・マルに浴びせていきます。

「しかし、この『影を殺した男(ウィリアム・ウィルソン)』はすばらしい物語ですね。」

 アラン・ドロンに対する演技指導に苦労したことを話した後にルイ・マルは、
「(-略-)私は実はこのストーリーの核である《分身》というテーマにとても興味をもっていたんだ。(-中略-)私は自分の問題に全く気づいていなかった。」

 更にフィリップ・フレンチは、ルイ・マルが映画で繰り返している「自殺」という命題にこだわって、エドガー・アラン・ポーの原作よりもはっきりと描いていることに着目していること、を問いかけにします。

「ストーリーは素晴らしかった。しかし、私はかなり妙な気分だった。とても憂鬱で暗く、ほとんど自殺したいような気分だった。」
「(-略-)わたしは無意識のうちに思っていたよりかなり個人的な要素をこの作品に盛り込んでいた。このウィリアム・ウィルソンというキャラクターは『鬼火』の主人公の延長線にある自己喪失の危機に陥っている男であり、私はこれを撮影した時の気分でオペラのような劇的なイメージに作り上げていた。」
鬼火
モーリス・ロネ / / 紀伊國屋書店





 ルイ・マル自身すら認めていなかった。そして、気づこうとしていなかったこの作品の「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動の作家主義の要素がこの作品に十分に反映されていることを、このように引き出せるインタビュアーとしての資質は素晴らしいものだと思います。

 この作品に、古い伝統的な「詩(心理)的レアリスム」のシナリオ重視の発想ではなく、フィルム編集の技術レベルの高さと、ルイ・マル自らの経験からの命題にこだわった作品であることが確認できたときに、わたしが感じたことは、

一見、単純に旧時代に回帰しているように感ずるこの作品も、演出家が作家として制作していった「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動の所産であるという再認識であったのです。


【参考・引用】
『マル・オン・マル/ルイ・マル、自作を語る』フィリップ・フレンチ著、平井ゆかり訳、キネマ旬報社、1993年
『ウィリアム・ウィルソン』エドガー・アラン・ポー著 中野好夫訳、岩波文庫
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by Tom5k | 2008-05-18 23:39 | 世にも怪奇な物語(3) | Comments(23)

『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』①~もう一人の自分 ドッペルゲンガー~

 好むと好まざるに関わらず、自分がもうひとりの自分を必要な場合とはいかなる場合でしょうか?
 二重身=ドッペルゲンガーとは自分自身がもう一人の自分を見たり、存在すると確信したりしてしまうことで、分身体験などともいわれ、多重人格とは区別されているようです。
 そして、これらの現象事例の多くには劣等感コンプレックスの問題があるのではないかといわれているそうです。
 コンプレックスの結果には現時点の自己自身に満足できずに、別の高次の人間になりたいという願望を生み出す要素があります。元来はその願望は人間の成長にとって必要なエネルギーであり、健康で正常な場合においては自己の内奥での葛藤が統一されて成長・発達の段階を経ていきます。
 しかし、コンプレックスが極端に増大していたり、何らかの理由、例えば、現時点の自分でいることの苦痛に耐えられないのに、本人のナルシシズムの性行において、現在の自らを否定しきれない場合、自分を制御しきれず、極端な自己嫌悪などに陥っている場合、耐えることのできない生活のなかで新しい生活を創り出せない場合、多くの異常体験や極度な苦痛が伴う経験を多くしてしまった場合等々から健康な発達が正常化できず、自身の内面を統一しきれないとき、もう一人の自分自身の存在が必要となるのかもしれません。
 
【二重人格の事例が現代では殆ど生じないのに対して、二重身の例は今も存在する。(~中略~)
 先ず、この現象は多くの文学作品の主題となっていることを述べねばならない。これらの作品を見てみると、大別して「分身を失うことの恐ろしさ」を主題としたものと、「分身の出現あるいはその出会いの恐ろしさ」を主題としたものに分けることができそうである。(~中略~)もう一人の自分を見た驚き、恐れなどを描き出したものとしては、エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルソン」、ドストエフスキー「二重人格」があげられる。】

『コンプレックス』(河合隼雄 著 1971年 岩波新書より)
コンプレックス
河合 隼雄 / 岩波書店






 『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーの原作を「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先駆者の一人である映画作家ルイ・マルの演出により、アラン・ドロンとブリジット・バルドーが主演し、前述した通常であればひとりの人間の中にある自分自身、それが完全に分離し、別に存在してしまった現象である「二重身=ドッペルゲンガー」をテーマとした非常にセンセーショナルな作品です。
William Wilson
Edgar Allan Poe / Amazon Press






 「二重身=ドッペルゲンガー」のウィリアム・ウィルソン2役を見事な演技でこなしているのは名優アラン・ドロンですが、この作品での彼は本当に素晴らしく、特筆に値します。未来において、彼の代表作の中でも際立つ1本として、映画史に残っていく作品として、記憶に留めるべきでしょう。

 ジクムント・フロイトは精神分析学を創始し、われわれが自分の心だと思っている部分つまり意識の他に、自分を自分でわかっていない部分の無意識があるらしいことに初めに気が付いた学者といわれています。
 今、われわれの生活でも無意識のうちにある願望等が、日常生活そのものを支配していることは特記するほどのことではないでしょう。
 そして、良心的自我・行動を行うパーソナリティの一側面である「超自我」といわれるものにおいては、いわゆる「自我」と異なり、普段は無意識に追いやられています。しかし、「自我」の欲求行動を「超自我(良心)」の制御によってコントロールしている場合は日常的にも多いようです。そういった意味から考えれば、この作品に登場するもうひとりのウィリアム・ウィルソンは、人間の「超自我」を表現するために「二重身=ドッペルゲンガー」として取り扱かわれた存在であることがわかります。

 現代社会においては、時代の病根は益々拡がり、生きる目的そのものの喪失感にまで拡がってしまっています。人間本来の発達目標がコンプレックスと結びつくことすら困難な様相です。
 しかも、種々の日常的な外的刺激によって、自身の欲求が必要以上に刺激され、ウィリアム・ウィルソンのように快楽・快感を追求しようとばかりしてしまう環境を誰もが身の周りに持ってしまった時代といえます。
 そして、それらの欲求は、社会規範の強化、道徳教育の奨励、法令改正等による規制事項の増大、労働賃金の低下・・・等々により、もうひとりのウィリアム・ウィルソンのように欲求の禁止事項となりつつあり、人間の行動エネルギーの否定として一般化されてきていることも多くなってきている状況です。
 これらのことは極端に考えれば、外的な刺激を多く創り出しながら、常識や規範、法令等で禁止事項を増やそうとする社会の二重身化ともいえそうです。

 更にわたしは、自分自身でありながら、常に自分自身が自分自身の外にあるという現代人の人間疎外の状況が、誰もが抱えなければならない問題になってしまったことに危機を感じます。
 この世界のなかでわれわれは常にアウトサイダーであり、どこまでもその運命は免れません。そして、自分の個性が破壊されつくしてしまう恐怖は生活の条件であり、常に自分を自分の外側に置かなければ安心できないほどです。
 恐ろしいことかもしれませんが、もはや、2人のウィリアム・ウィルソンは、日常生活の前提条件かもしれないのです。
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by Tom5k | 2005-07-02 16:10 | 世にも怪奇な物語(3) | Comments(11)