『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-①~

 アラン・ドロンは、最近(本年5月7日付けで)、パトリス・ルコント監督の作品(2018年公開予定)への映画と舞台作品にそれぞれ出演してから引退する意向を公的に発表しました。

 そんな折、アラン・ドロンの生涯の盟友でありライバルであったジャン・ポール・ベルモンドとの共演作品『黙って抱いて』(1957年)が、いよいよDVD化され、8月に発売されたので、早速購入しました。アラン・ドロンのデビュー作品『Quandla Femme s'en Mele』(1957年)を監督したイヴ・アレグレの兄マルク・アレグレが監督です。残念ながら、主演はアランとジャン・ポールではなく、ミレーヌ・ドモンジョ、アンリ・ヴィダル主演の作品ですが、私としてはアラン・ドロンが出演している作品であるにも関わらず、未見の作品でしたから今回、記念すべき初観賞となりました。

 アランは、デビュー作品『Quandla Femme s'en Mele』に引き続き2本目の映画出演、ジャン・ポールも端役数本に映画出演した後この作品に出演しました。アランもジャン・ポールも20代前半です。予想していたよりは二人とも出番が多くて驚きましたし、何より、二人とも本当に初々しく、作品中の活躍ぶりには眩しいくらいの存在感がありました。
 それにしても、1957年に製作された『Quand la Femme s'en Mele』や『黙って抱いて』は、もう60年も前の作品になるんですね。本当に感慨深いものがあります。

 さて、アランとジャン・ポール、この二人が『黙って抱いて』に出演した後の1960年代、その活躍ぶりには本当に凄まじいものがあります。少なくても1970年代中盤まではスターとしての全盛期を国際的に担っていたのではないでしょうか。更に、1970年代後半にジェラール・ドパルデューが出現するまでは、ヨーロッパの映画体系をこの二人で食い尽くしてしまったようにまで思います。

 そして、私がこの二人の存在を凄いと感じるのは、単に映画スターとして人気があったのみならず、全く異なる映画体系においての各々の映画史的な活躍ぶりなのです。

 まずは、ジャン・ポールなのですが、彼は『黙って抱いて』に出演した後、マルセル・カルネ監督の『危険な曲がり角』(1958年)に端役で出演した後、「ヌーヴェル・ヴァーグ」気鋭の映画作家となっていったジャン・リュック・ゴダール監督の『シャルロットと彼女のジュール』(1958年)、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』(1959年)で本格的な映画出演を果たします。いよいよ、世界の映画潮流を変革していった「ヌーヴェル・ヴァーグ」に邂逅したのです。
 そして、1959年、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』により、とうとう映画史上に名前を残す大スターとなりました。

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ジャン=ポール・ベルモンド,ジーン・セバーグ,ダニエル・ブーランジュ/KADOKAWA / 角川書店

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 なお、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』には、当初、ジャン・クロード・ブリアリが出演する予定であったようなのですが、彼が脊椎カリエスを患っていて代役が見つからずにいたときに、クロード・シャブロル監督がプロデューサーのアキム兄弟に「まだ無名のひとりの若い俳優」を思いきって起用したいと提案しました。それがジャン・ポール・ベルモンドだったのです。

 ジャン・ポールが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の大スターになったきっかけは、もちろん、『勝手にしやがれ』への出演によるものでしたが、初めはジャン・リュック・ゴダール監督のほうから映画出演のアプローチをしていったようです。

【(-略)たまたまサンジェルマン・デ・プレで俺はゴダールと知り合った。もっとも、カフェ・ド・フロールのテラスで黒いサングラスの男に、俺のうちに来ていっしょに映画を撮らないか、と声をかけてきたときには、こいつはホモだと思ったもんだよ。その前に『黙って抱いて』で共演した女優のアンヌ・コレットから、あんたと知り合いになりたがっている男の子がいるわよって言われて、チラッと紹介されたことがあったんだが、うさんくさい男だと思った。いつも無精ひげでサンジェルマン・デ・プレをうろつきまわって、俺のことをジロジロながめていたヤツだった。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (ちくま文庫)(1992年)

山田 宏一 / 筑摩書房



 当初のこのようなジャン・リュック・ゴダールへの悪印象はともあれ、ジャン・ポールは『勝手にしやがれ』の主役に抜擢されました。もちろん、ジャン・ポール自身が「生涯の一本」と述懐している『気狂いピエロ』(1965年)はもちろん、初期のゴダール作品である『シャルロットと彼女のジュール』、『女は女である』(1961年)もジャン・ポールが出演している作品です。
 なお、エリック・ロメール監督が1950~51年に制作した短編映画作品で、その後ジャン・リュック・ゴダール監督が続編として制作していった『シャルロット』シリーズでシャルロットを演じたのが、『黙って抱いて』で、彼の恋人役で共演していたアンヌ・コレットでした。このことにも不思議な因縁めいたものを感じてしまいます。

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アンナ・カリーナ,ジャン = クロード・ブリアリ,ジャン = ポール・ベルモンド/角川書店

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【(-略)彼は本当に長編映画を撮ることになり、約束どおり俺を主役に起用してくれたんだ。それが『勝手にしやがれ』だったわけだけれども、俺は感激した。当時、俺みたいなかけだしの俳優にこんなすばらしいチャンスをあたえてくれる監督はほかにいなかっただろうからね。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 また、カイエ・デュ・シネマ誌で最も先鋭的で、いわゆる※フランス映画の良質の伝統「詩(心理)的レアリスム」への攻撃的な映画批評を常時発表し続け、後に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表的映画作家となるフランソワ・トリュフォーは『勝手にしやがれ』の制作中、ジャン・ポール・ベルモンドについて、次のような印象を持っていたそうです。(※フランソワ・トリュフォーの皮肉った「シネマ・ドゥ・パパ」の映画作品)

【トリュフォーは『勝手にしやがれ』の撮影現場をのぞいたり、ラッシュ試写を見に行ったりしたが、なんだか「すべてがうまくいっていないような」印象をうけた-「ジーン・セバーグは全然ゴダールを信用しておらず、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールも、ゴダールのやりかたがさっぱりわからん、と言った。ただ、ジャン・ポール・ベルモンドだけがゴダールを信頼していた。彼だけがゴダールのやりかたを理解していた」 トリュフォーは『勝手にしやがれ』のベルモンドを見た瞬間に、「間違いなく彼こそフランス映画の最も優れた俳優になるだろう」と確信した。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 ジャン・ポールにしても、『勝手にしやがれ』を撮影したときの印象を次のように振り返っています。

【これまでいっしょに仕事をした監督のなかでは、文句なしに、ゴダールといちばん気が合った。ふだんはそんなにつきあっているわけじゃないんだが、撮影に入ったとたんに、ピッタリと呼吸があうんだ。『勝手にしやがれ』は俺にとって最初の映画的冒険だった。それまで俺が出た映画といえば『危険な曲がり角』や『黙って抱いて』とか、ほんのチョイ役ばかりだった。俺は映画というものを知らなかったんだ。あたりまえの、古くさい映画の見かたをしていた。そんなときに、突然、すばらしい自由を発見したんだ。その後も、あれほどすばらしい自由な撮影をしたことはない。『勝手にしやがれ』は全篇隠しキャメラで撮影された。録音機もなし、なにもなしだ。俺たちはブールヴァール・デ・ジタリアンにいた。キャメラマンのラウール・クタールは小さな郵便車のなかに隠れて、小さな穴から撮影していた。すばらしかったね。これこそ、ほんとうのシネマ・ヴェリテだった。(略-)】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 このようにして、ジャン・ポールは、盟友であり、ライバルであったアラン・ドロンとは全く異なる最先鋭の映画芸術「ヌーヴェル・ヴァーグ」の騎手として国民的かつ世界的な大スターとなっていったのでした。

 一方、アラン・ドロンのこれから歩んでいく映画体系は、ジャン・ポールとは全く逆のベクトルに向いていたことは周知の事実です。アラン・ドロンは、盟友、そしてライバルとなるジャン・ポール・ベルモンドが脚光を浴びていく、新しい映画芸術の潮流であった「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」作品とは、全く異なる在り方で国際スターとしての地位を確立していきました。

【>アラン・ドロン(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 ただ、この時期に旧世代のフランス映画の良質の伝統「詩(心理)的レアリスム」、いわゆるシネマ・ドゥ・パパは、どのように変わって存在していったのか?ここに焦点を当てなければ、アラン・ドロンの原点は理解できないと私は考えているのです。


【ヌーヴェル・ヴァーグは、「シネマ・ド・パパ」とトリュフォーが呼んだ古いフランス映画に対するたたかいでもあったが、『勝手にしやがれ』の無手勝流のスタイルは、ヌーヴェル・ヴァーグの敵陣ある「シネマ・ド・パパ」に対して決定的な打撃をあたえることになった。マルセル・カルネは『広場』で(もっとも、カルネは『勝手にしやがれ』のまえに『危険な曲がり角』を撮ってフランスの「青春群像」を描いていたが)、ルネ・クレマンはポール・ジェコーフの脚本とアンリ・ドカエのキャメラによる『太陽がいっぱい』で、ジュリアン・デュヴィヴィエはジャン・ピエール・レオー主演の『並木道』で、アンリ・ドコワンは『やさしく激しく』で、それぞれ、「無軌道な若者の行動を描いた」彼らの『勝手にしやがれ』を作ってヌーヴェル・ヴァーグのスタイルを気取ってみせたのだった。】

【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

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 そうなのです!現在においてさえ、アラン・ドロンの出演した代表作品『太陽がいっぱい』(1959年)の映画史的評価では、この程度の総括しかされていないのです。

所詮、『太陽がいっぱい』は、

【彼ら(シネマ・ドゥ・パパ)の『勝手にしやがれ』】
であり、

【ヌーヴェル・ヴァーグのスタイルを気取ってみせた】
だけの作品だと言うのです。

 ですから、私はくやしくて、くやしくて、その「アンチ・ヌーヴェル・ヴァーグ」の視点からこのブログ【時代の情景】を立ち上げ(それだけのためでもありませんけれど)、延々と
<「詩(心理)的レアリスム」(シネマ・ドゥ・パパ)作品=フランスにおけるアラン・ドロン関連作品>
を擁護する記事をアップし続けているわけです。もう12年にもなりましょうか・・・!

 さて、話は少し逸れてしまいましたが、フランス映画の革新・刷新の時代に、アラン・ドロンがシネマ・ドゥ・パパの作品に入っていく前、まずは国際的なアイドル女優たちとの共演路線で売り出していく時期があります。

【<『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-②~>に続く】
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by Tom5k | 2017-09-07 23:31 | 黙って抱いて | Trackback | Comments(0)