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映画作品から喚起されたこと そして 想い起こされること

by Tom5k

『パリは燃えているか』②~ルネ・クレマンの再評価を望む~

 何故なのでしょうか?ルネ・クレマンは、正確に評価されていません。

 特に「ヌーヴェル・ヴァーグ」のカイエ派のルネ・クレマンのこきおろしには、憤りさえ感じます。一般的にいわれている大きな原因のひとつを挙げれば、彼がピエール・ボストとジャン・オーランシュを自作の脚本に多く使っていたことがあるでしょう。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の評論家、後の映画監督であるフランソワ・トリュフォーは、1930年代に完成した「詩(心理)的レアリスム」という体系がフランス映画の「良質の伝統」であると皮肉り、当時、その代表的な脚本家であったボストとオーランシュ、および彼らと組んだ映画監督たちを徹底的に批判していきました。
 要するに、彼らの文芸的作風のシナリオ主義が似非の芸術性であるとし、そこから脱却するには、新たな視点での映画制作が必要であることを訴えていったわけなのです。そして、ルネ・クレマンもその批判の対象から漏れる演出家ではありませんでした。

 フランソワ・トリュフォーは実に理知的、そして論理的にルネ・クレマンを批判しています。しかも、プラスの評価まで正確にしている(本質的に正確か否かは今後の映画史論をまだ待たなければならないと、わたしは思っていますが・・・。)こともあり、その批判の内容にはたいへん説得力があり、映画史を変えるほどの映画批評の力量で旧フランス映画の伝統を否定していったのです。

「『居酒屋』(一九五六)はルネ・クレマンのもっとも油の乗った時代の作品で、ゾラの原作に忠実なそのレアリスムは、まさにゾラ流の自然主義を映画に移植したものといってもよかった。(-中略-)
この文芸映画にかぎり、脚色者オーランシュ=ボストに対して、トリュフォーは文句をつけなかった。「正直で利口で」ゾラを台無しにもしなかったといい、クレマンに対しても、「感動的なエネルギー」で仕事をしたといったが、そこに「努力」が見えるという指摘はわすれなかった。つまりヒッチコックのような「すべてが可能である名人芸」ではないという意味であった。
 「クレマンとは何者か?『居酒屋』はクレマンの他の映画との関係においてなにを意味するのか?映画の人物について、ゾラについて、生活について、アルコール中毒について、また子供たちについて、クレマンはなにを考えるのか?私たちはなにも知ることはないだろう。というのはクレマンは映画の〈作家〉ではなくて、用語のハリウッド的意味での〈監督者〉であり、自分に申込まれた物語をうまく利用するヴェテラン技術者だからである。」
 ぼくはトリュフォーのことばはいささか酷だとおもうし、『居酒屋』はむしろクレマンの本質的な作品の一つだとさえみるのだが、トリュフォーの〈監督者〉説にも一理はあると考える。クレマンはただ仕事だとわりきって、彼らしくもない映画を達者につくる傾向が多分にあって、ミイラとりがミイラになった観がないではないからだ。その結果、現在、戦争直後にぼくたちが考えたクレマンらしい作品をつくる機会がたとえあっても、彼が以前のような独自性をもつことができなくなったとすれば、トリュフォーに「作家」としてみとめたくないといわれても、抗弁はできないのである。」
【キネマ旬報 1976年4月下旬号(「ヌーヴェル・ヴァーグの映画体系 フランソア・トリュフォーの映画論20」飯島 正)】
禁じられた遊び/居酒屋
/ アイ・ヴィー・シー





居酒屋 (新潮文庫 (ソ-1-3))
古賀 照一 / / 新潮社






 また、カイエ派の批判に加えて左岸派に至っては、ルネ・クレマンを相手にもせず、完全に黙殺してしまっているようにまで、わたしの眼には映ります。
 『二十四時間の情事』のシナリオを書いていた左岸派の前衛作家(ヌーヴォー・ロマン)であるマルグリット・デュラスが、自らの脚本で制作されたルネ・クレマンの『海の壁』に、失望したことなども原因のひとつに挙げられるかもしれません。
二十四時間の情事
/ アイ・ヴィー・シー





マルグリット・デュラス
/ 国文社






「電子頭脳の巧妙な計算に支配された形式上の完璧さのために、クレマンは、ある種アカデミズムへ導かれる危険性があった。この完璧さが、合作映画『海の壁』を失敗させたのである。」
【世界映画史 ジョルジュ・サドゥール著 丸尾定訳】
世界映画全史
ジョルジュ・サドゥール / / 国書刊行会





 また、同じ左岸派の映画作家であるアニエス・ヴァルダ監督のフランス映画生誕100周年の記念映画である『百一夜』では、その作品のどのショットにも・・・しかも、それはアラン・ドロン登場のシークエンスにおいてすら、ルネ・クレマンは見当たらないのです。
 ドキュメンタリスト及びリアリズム作品の作家ルネ・クレマン、という観点での左岸派の評価などは、決して眼にすることはないといっていいでしょう。



 しかしながら、一方では、ルネ・クレマンの演出が「ネオ・リアリズモ」の創始者の一人であるロベルト・ロッセリーニに匹敵するものである、とまでの高い評価もあることはあるのです。

「『鉄路の闘い』は、ナチ占領下におけるフランス鉄道員たちのレジスタンスを描いたセミ・ドキュメンタリーで、フランス映画総同盟と、フランス国鉄抵抗委員会の企画、製作による作品であった。いわば、鉄道労働者たちが金を出し合い、製作費を作り、それで出来上がった作品だった。
「パリ占領の間、ドイツ兵たちは実に下劣だった。このことは歴史の一コマであり、私は真実を曲げることは絶対にしない。たとえば私がドイツの捕虜収容所の映画を撮るとしても、どうして現在の仏独接近なんか考慮してなんか作れよう!」
 クレマンは、こうした創作のビジョンをはっきりうち出した。そして、技術的には、彼のドキュメンタリー作家としての前歴を生かして、セミ・ドキュメンタリー・タッチで『鉄路の闘い』を仕上げたのであった。
 “Frennch Cinema since 1946”の著者ロイ・アームズは、この作品をロッセリーニの『戦火のかなた』(46)と同項においている。その後フランス鉄道労働者のレジスタンスを描いたものに、フランケンハイマーの『大列車作戦』(64)などという秀作がある。しかし、イタリアでロッセリーニ、デ・シーカが輩出し、セミ・ドキュメンタリー・タッチのレジスタンス映画が続出した40年代においてすら、クレマンの『鉄路の闘い』をしのぐ作品は出なかったと言っていい。それほど、クレマンのドキュメンタリズムが徹底していたということなのだ。」
【映画評論 1974年3月号(「ルネ・クレマン研究 クレマンの作品系譜をたどる」高沢瑛一)】
鉄路の闘い
/ ビデオメーカー





海の牙

マルセル・ダリオ / アイ・ヴィー・シー



大列車作戦 [スタジオ・クラシック・シリーズ]
バート・ランカスター / / 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン





 ところで、旧ソ連時代に、エイゼンシュテインがモンタージュ理論を実践した文化史的名作『戦艦ポチョムキン』には、観る側に対しての非常に多くの楽天的な印象が与えられてしまう側面があるように感じています。
 当時のソ連において、既に多くの社会矛盾が解消され、過去の矛盾を一掃して革命が成し遂げられたという人民の歓喜の表現が大きく強調された作品になっている側面もあると感じるわけなのです(ロシア革命の正誤については、あえて言及しませんが・・・)。
 これは恐らく、我々の生活している現在において、まだ多くの社会矛盾が解消されておらず、映画を受益する観客として、描かれるべきテーマに深刻な要素を無意識に求めてしまっているためなのかもしれません。

 いずれにしても、1925年にモスクワのボリショイ劇場で実施された「1905年革命20周年記念式典」の最初のプログラムとして、『戦艦ポチョムキン』の試写が上映され、ボリショイ劇場管弦楽団の伴奏がヴェートーヴェン作曲『交響曲第9番 歓喜の歌』であったことも、そういった要素からすれば当然のことであるように思います。
戦艦ポチョムキン
/ アイ・ヴィー・シー





ベートーヴェン:交響曲第9番
フルトヴェングラー(ウィルヘルム) / / EMIミュージック・ジャパン





 そして、ルネ・クレマンがファシズムからのパリ解放を描いた『鉄路の闘い』や『パリは燃えているか』で扱っているフランスのレジスタンス運動への賛美に関わっても、フランス国民にとっては「歓喜」以外の何ものでもないと、わたしには感じられます。
 これらのことを踏まえれば、ルネ・クレマンの描いたレジスタンス作品は、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』、『戦火のかなた』、『ドイツ零年』や、同じフランス・レジスタンスを描いたジャン・ピエール・メルヴィルの『影の軍隊』などとは異なり、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』と似たメッセージやテーマで帰結しているように思えるわけです。
無防備都市
アルド・ファブリーツィ / / アイ・ヴィ・シー





戦火のかなた
カルメラ・サツィオ / / アイ・ヴィ・シー





ドイツ零年
/ アイ・ヴィー・シー





影の軍隊
/ ビデオメーカー





 そこで、わたしが特筆したいことは、ルネ・クレマンのその才能が、そのキャスティングにおいて天才的であるということです(『太陽がいっぱい』で、当初トム・リプリーを演じる予定であったモーリス・ロネから、急遽アラン・ドロンにキャスティングを変更したことなども、その現れの一例であるかもしれません)。

 ジャン・ピエール・メルヴィルが「スター」好きであることは有名ですが、わたしはルネ・クレマンも同様に、かなりの面で「スター」好きであるような印象を持っており、このオールスター・キャストの『パリは燃えているか』を引き受けたことからも、それを感じとることができます。
 しかし、他の演出家と異なり、それは非常に独特な特徴を持っているように見受けられるのです。わたしは、彼の作品に出演している「スター」が、「スター」のまま配役にリアルな形態で活かされていることに着目しました。
 逆に、「スター」の「スターの在りよう」を剥ぎ取って、彼らの従来と異なる個性の素晴らしさを撮ることが上手な名監督は多く存在しますが、「スター」が「スター」のままで、しかも、その作品が「リアリズム」を透徹していることは通常ありえません。
 ここに、この『パリは燃えているか』の際立った特徴が存在しているとはいえないでしょうか?

 一般的に映画が、豊かに完成された楽しい娯楽であることに限定した場合、観る側へのドリーミングの提供が欠かせない要件となることが必須なわけですから、そこには「スター」の存在が欠かせなくなります。逆に、社会の諸矛盾を追及するための「リアリズム」を強調したり、徹底していく作品においては、観客に夢を提供するための「スター・システム」の存在は、むしろその虚構性を高めてしまう危険を伴うような気がします。
 このように、映画における「スター・システム」と「リアリズム」とは、一般的には相容れないものであることは否定できない現実でしょう。

 ルネ・クレマンの若い頃のリアリズム作品は、職業俳優などを使わず、一般の素人が、そのモデル・型として出演しています。これはエイゼンシュテインの作品以降、多くの映画作家がその影響を受けて数多くの傑作を生み出してきた俳優論の実践の応用のひとつだったと察せられます。

 しかしながら、ルネ・クレマンの作品に限っては、そのエキストラのような普通の素人の出演者が「スター」と同等の存在になっているように、わたしには見えるのです。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」や「ネオ・リアリズモ」の作家たちもそうですが、彼らは「リアリズム」を追求するために無名の素人たちを、あくまでリアルな生活者としてドキュメンタルな表現や作風を取り入れるために使っていました。
 しかしわたしには、ルネ・クレマンの演出では、それがリアリズム作品でありながら、彼ら素人をあえて「スター」という位置づけから撮っているように感じてしまうのです。
 ルネ・クレマンに使われた彼らは、ロベルト・ロッセリーニやルイジ・ザンパ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルキノ・ヴィスコンティが、初期の「ネオ・リアリズム」作品で貧困と社会矛盾に苦しむ民衆を描くために使った素人の俳優たちとは明らかに異なっています。

 何故なのでしょうか?その原因は?

 ルネ・クレマンの作品では、フランス国民が、自由と平和への希求において、誇り高い愛国の精神から夜空に燦然と輝く星として、すなわち「スター」のように「リアリズム」の表現に活かされているからに外ならないからだと思うのです。
 無名のひとびとに光をあてることのできる映画作家ルネ・クレマン、一般の民衆が「スター」に、「スター」が「リアリズム」に・・・。

 わたしには、そんな俳優の使い方ができる監督は、ルネ・クレマンの存在くらいしか思い浮かびません。

 そのような登場人物における成功の確たる証拠が・・・『鉄路の闘い』でのフランス国有鉄道の労働者たちであり、『太陽がいっぱい』以降のアラン・ドロンの個性であり、『パリは燃えているか』のオールスター・キャスティングであったのではないでしょうか?

 逆に、その失敗例がロベルト・ロッセリーニの『ストロンボリ』以降のイングリッド・バーグマンであるとも考えられるような気もします。
【参考】
【盟友 オカピーさん、用心棒さんの意見 『良い映画を褒める会。』「『ドイツ零年』(1948) 悲しすぎる少年の運命とネオレアリズモの代表作 ネタバレあり」でのコメント】
【オカピーさんの意見 『プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]』映画評「萌の朱雀」】
【豆酢さん、用心棒さんの意見 『豆酢観』「ドイツ零年」でのコメント】

ストロンボリ (トールケース)
イングリッド・バーグマン / / アイ・ヴィー・シー





 パリ解放のために装甲車で入国した連合軍、凱旋したド・ゴール将軍を迎え、歓喜して「ラ・マルセエーズ」を大合唱するパリ市民が映し出されるパリ解放のラスト・シークエンスには、当時の実写フィルムが次から次とモンタージュされているために、ドキュメンタリーなのか、映画のドラマトゥルギーとしてのパリ解放なのか、全く区別がつかないほどであり、出演俳優とフランス国民との間の壁が全く無くなっていることも特筆すべきことであるように思います。

 リアリズム作品の究極の成果は、観る側の生活体験と映画作品との一体化を可能にしたことなのかもしれません。彼はその成果を更にもう一歩進めたような気がします。

 すなわち、彼がリアリズム作品における「スター」の起用に成功した功績として、映画を受益する一般の観客と、映画「スター」とが一体となれる可能性までをも模索し、最大限にその可能性を開花させたということなのです。

 ルネ・クレマンにとっては
☆ レジスタンスとしてナチスと勇敢に闘った一般民衆こそが「スター」であり、
☆ 「スター・システム」は、レジスタンスを共に闘える一般民衆としての同志だったのでしょう。

 わたしは、そういう意味で、彼がエイゼンシュテイン以降のリアリズム作品において、特に出演させた俳優に向き合う姿勢に、エイゼンシュテインをも超えうる資質を持った映画作家であったと、誰もが指摘していない貴重な映画作家としての再評価を声高に訴えたくなってしまうのです。


「起てや祖国の 健児らよ、 栄えある日こそ 来たるなれ、 われに刃向かう 暴虐の、 血染めの旗ぞ ひるがえる、 君よ聞かずや 野に山に、 敵兵どもの 吠えるのを、 わが同胞を 殺さんと、 奴らはわれに 迫り来る、 いざ武器をとれ 市民たち! 隊伍を組めや いざ行かん! 敵の汚れし 血潮もて、 わが田の畝を 潤さん。」
(フランス共和国国歌「ラ・マルセエーズ」より)


「コミュニストだろうと、ド・ゴール派だろうと。私にはすべてレジスタンスの同志であった。私の会ったこの時代の責任者の人たちはすべて、彼ら同士お互いによく理解しあっていた。どちらが主導権を握るかで若干のアツレキがあったにせよ・・・・」
(ルネ・クレマン 談)
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】
海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)
田山 力哉 / / ダヴィッド社
by Tom5k | 2008-06-09 02:22 | パリは燃えているか(2) | Trackback(19) | Comments(42)
Tracked from プロフェッサー・オカピー.. at 2008-06-10 02:49
タイトル : 映画評「大列車作戦」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中) 1964年アメリカ映画 監督ジョン・フランケンハイマー ネタバレあり... more
Tracked from 豆酢館 at 2008-06-10 12:27
タイトル : 「ドイツ零年」
“「ドイツ零年」を作るにあたっての私の意図は、私の全ての作品と同じでした。愛することの出来る心と、考えることの出来る頭脳を持った世界中の観客の為に、カメラが捉えたままの正確な真実を再現したかったのです”―ロッセリーニ・インタビューより抜粋 ドイツ零年アイ・ヴィ・シーこのアイテムの詳細を見る 「ドイツ零年」(1948年製作) 監督:ロベルト・ロッセリーニ 製作:ロベルト・ロッセリーニ&サルヴォ・ダンジェロ 脚本:ロベルト・ロッセリーニ&カルロ・リッツァーニ&マックス・コルペット 撮影:ロベー...... more
Tracked from 豆酢館 at 2008-06-10 12:30
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Tracked from 良い映画を褒める会。 at 2008-06-10 14:13
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Tracked from 良い映画を褒める会。 at 2008-06-10 14:14
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Tracked from 良い映画を褒める会。 at 2008-06-10 14:15
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Tracked from 良い映画を褒める会。 at 2008-06-10 14:16
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Tracked from LE CERCLE RO.. at 2008-06-13 00:19
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Tracked from 豆酢館 at 2008-06-16 11:29
タイトル : ストーリーテラーの哀しみ―ルネ・クレマンPart1
戦渦を生き抜いたこと、戦後の混乱したフランスを見つめ続けたことは、彼にいかなる葛藤を与えたか。 ルネ・クレマン 1913年3月18日生まれ 1996年3月17日没(モナコ公国のモンテ・カルロで死去) フランス、ジロンド県ボルドー出身 美術学校で建築学を学びながらも映画製作に多大な興味を抱き、16ミリカメラを駆使して短編映画を試作する。18歳のときには、初の前衛的短編を製作する。その腕を買われ、軍隊に徴兵された際には主に陸軍で記録フィルム製作に従事した。除隊した後、1934年からカメラマン、助...... more
Tracked from 寄り道カフェ at 2008-06-21 00:34
タイトル : 「パリは燃えているか」
PARIS BRULE-T-IL? 1966年/フランス・アメリカ/173分 若い頃、この映画を観た時は知った顔のスターを見つけては喜んで結構ミーハー的にこの映画をみていたように思うし、描かれている内容についてどれほど受け止めてみていたかはかなり怪しいなって再見して思う。 第二次大戦の凱歌を描いた戦争映画といえばアメリカの十八番で、ノルマンディ上陸作戦やパリ解放についても連合軍が撮影したドキュメントフィルムとか「史上最大の作戦」などアメリカ軍の視点で描かれた映画からしか見ていなかったなと思う...... more
Tracked from 川越名画座 at 2008-06-22 20:52
タイトル : #0197『居酒屋』(二回目)ルネ・クレマン監督 195..
”GERVAISE”  ルネ・クレマン監督の『居酒屋』を再見しました。平行して、ゾラの原作も読書中です。原作と比較してみると、クレマンが原作に忠実に映画化したことは間違いないものの、原作で度々触れらぎ..... more
Tracked from 映画批評ってどんなモンダイ! at 2008-06-30 19:04
タイトル : 『居酒屋』
 『居酒屋』 1957年(仏)監督ルネ・クレマン  ルネ・クレマンは文芸作品を映像化しているにすぎず作家性がないとしてヌーヴェル・ヴァーグから徹底的な批判をされたものだが、やはり彼は優れた映画監督である。彼の作品は時に切なく、時に可笑しく、時に残酷なのだ。 洗濯場で夫と寝た姉妹の妹と喧嘩する時に妹のピアスを耳たぶもろとも引きちぎるシーンは恐ろしいほどにグロテスク。やがて女は不貞を繰り返す夫を捨て、ある屋根職人の男と結婚する。それは親戚一同が集まり、貧しいながらも幸せいっぱいの結婚式なのだ。美術館で...... more
Tracked from ぶーすかヘッドルーム・ブ.. at 2008-07-15 10:33
タイトル : 「居酒屋」「禁じられた遊び」
●居酒屋 ★★★ 【NHKBS】エミール・ゾラ原作をルネ・クレマン監督、マリア・シェル主演で映画化。洗濯女を主人公にフランスの底辺で暮す人々の人情劇。悲惨な話なんだけど、演じるマリア・シェルが明るく元気なのでメソメソしてないところがイイ。 ●禁じられた遊び ★★★★ 【NHKBS】ナルシソ・イエペスのギター曲はあまりにも有名な、ルネ・クレマン監督の名作。第2次世界大戦中の南フランスを舞台に、両親を亡くした少女と、彼女を引取った家族の少年のほろ苦い交流を描いた作品。 ※詳しい感想はそれぞれのリン...... more
Tracked from 寄り道カフェ at 2008-07-15 23:04
タイトル : 「居酒屋」
GERVAISE 1956年/フランス/102分 ルネ・クレマン監督については「太陽がいっぱい」「パリは燃えているか」の感想をあげているが 、彼の初監督作品である「鉄路の闘い」そしてキネマ旬報ベストテン第1位(選考委員全員が票を入れた数少ない作品の1つ)だったという本作「居酒屋」を観たいと思っていた。 「鉄路の闘い」はレジスタンス活動に参加した鉄道職員たちを出演させ、隅々までドイツ軍に徹底して抵抗したレジスタンス魂が漲ったセミ・ドキュメンタリーとして観ているほうも熱くなってくる作品だ。...... more
Tracked from 寄り道カフェ at 2008-07-17 17:13
タイトル : 「居酒屋」その②~何故、ルネ・クレマンは?
ルネ・クレマン監督「居酒屋」をみて、ずっと引っかかっていること。 「居酒屋」の続きです。 ルネ・クレマンはエミール・ゾラの原作「居酒屋」を忠実に映画化したといわれている。 そして原作を読んでいない私は、映画「居酒屋」の主人公であるジェルヴェーズという一人の女性の転落の人生を見ていて、彼女は結局はこういう風にしか生きられないんだろうなって案外と醒めた目で観ていて、そして彼女の転落はジェルヴェーズ個人の資質の問題というより、もっと根深いところにあるんではないだろうかと思えてきた。 彼女が生...... more
Tracked from 寄り道カフェ at 2008-07-26 07:40
タイトル : 「禁じられた遊び」
JEUX INTERDITS 1951年/フランス/87分 ルネ・クレマン監督の作品で「居酒屋」「パリは燃えているか」「太陽がいっぱい」と映画感想をあげたら、「太陽がいっぱい」とともにルネ・クレマン作品の中でも幾度も観ているやはりこの作品をあげなくては……。  私にとってこの映画は、ナルシソ・イエペスの奏でるギターのメロディと、ポレットとミシェルの間に芽生えた淡く幼い愛に、何度観ても切なくなってしまう作品だ。 無邪気にお墓ごっこに夢中になる幼い二人を通して、人があっけなく死んでいき、死...... more
Tracked from プロフェッサー・オカピー.. at 2009-12-06 23:58
タイトル : 映画評「パリは燃えているか」
☆☆☆☆(8点/10点満点中) 1966年フランス=アメリカ映画 監督ルネ・クレマン ネタバレあり... more
Tracked from シネフィルも萌えヲタも at 2011-05-01 17:51
タイトル : パリは燃えているか
『禁じられた遊び』のルネ・クレマン監督の戦争ドラマ大作です。 ナチス占領下でのパリ壊滅の危機から開放に至るまでの奇跡を、圧倒的スケールとセミドキュメントタッチで送ります。無益な破壊を好まぬドイツ軍、決して一枚岩ではないレジスタンスなど、多面的な描き方も…... more
Commented by オカピー at 2008-06-10 03:08 x
拙い文章へのリンクまでして戴いた上に、TB返しもしてしまいます。
すみません。

ところで、用心棒さんの記事から発生した、イエローストーンさんとのやりとりを、興味深く拝読しておりました。勿論イエローストーンさんの記事も読みました。
彼の主張も解りますし、考えすぎの部分もありますし、これに絡んで僕なりに映画芸術の意味を簡単に記したいと思っているんですけど、なかなか。
Commented by 豆酢 at 2008-06-10 12:36 x
若輩者が出てきていいのだろうかと思いつつ、いまだルネ・クレマン監督の記事を中断したままになっている豆酢です(^^ゞ。途中までは書き上げているのですが、「太陽がいっぱい」以降の彼の作品をどのように観ようかと考え中です。
仰るように、彼に関する史料はないに等しいです。あっても作品リストを箇条書きに留めた程度のものだけ。ですから、ルネ・クレマン監督への再評価を願うならば、己の審美眼だけが頼りになるわけです。「居酒屋」など、もう一度きちんと見直してみたい作品があるので、クレマン応援団(笑)はもうちょっと地下に潜ります(^^ゞ。

過去に書いた「ドイツ零年」もTBさせていただきました。
Commented by 用心棒 at 2008-06-10 14:10 x
 トムさん、こんにちは!
ルネ・クレマン作品については何本かを十代か、二十代前半に観た程度なので、なんともいえる立場にはありません。よって、しばらく時間をください。『太陽がいっぱい』『パリは燃えているか』『居酒屋』は手元にございますので、再見した上でアップしてみます。
>直リン
どうぞ、トムさんなら、どんどんやっていただいて結構ですよ!
ではまた!
Commented by 用心棒 at 2008-06-10 14:19 x
 追記です。
 お邪魔かもしれませんが、フランス及びロッセリーニがらみの文章をTBさせていただきました。トリュフォーにしろ、ブレッソンにしろ、過去の巨匠を否定しながらも、その呪縛からはけっして逃れられないことは理解していたのではないでしょうか。ではまた!
Commented by Tom5k at 2008-06-10 23:52
>オカピーさん、早速、来てくださってありがとう。
ルネ・クレマン評に絶対に必要なロッセリーニ批判だったものですから、直リンさせていただきました。
>用心棒さんの記事から発生した、イエローストーンさんとのやりとり・・・
全く持って、お恥ずかしい。わたし、かなり反省しています。
自分の映画に関するこだわりの、一般化したときの影響や、あくまで私見の範囲でおさめるべき内容なのか、の区別をもっと冷静に正確にすべきだと思うようになりました。
>僕なりに映画芸術の意味を簡単に記したいと思っているんですけど、・・・
わあ、オカピーさんのお考えには、とっても興味があります。是非読みたいですねえ。
では、また。
Commented by Tom5k at 2008-06-11 00:03
>豆酢さん、こんばんは。
>「太陽がいっぱい」以降の彼の作品をどのように観ようかと・・・
ふふふ、これは、わたしなりに総括しておりますよ。
クレマンの心情が手にとるようにわかるのです(ほんとかよ)。
実は彼のサスペンスが何なのか、これにはものすごく彼独自のものがあるような気がしているのです。今、そこを再整理してみたいと思っているんですよね。あとでコツをお教えいたしましょう(ほんとにコツなんてあるのかよ)。後ほど、そちらにコメントいたしますね。
>ルネ・クレマン監督への再評価を願うならば、己の審美眼だけが頼りになるわけです。
全くです。とにかく、ヌーヴェル・ヴァーグのクレマン批判は、うんざり・・・(何度も言っていますが、その実践は素晴らしく、その作品も素晴らしい、そして彼らも素晴らしいのですがね)。

おおっ、豆酢さんのクレマン応援団のレジスタンス、最後は歓喜ですね。
それから、「ドイツ零年」のTBありがとう。
では、また。
Commented by Tom5k at 2008-06-11 00:23
>用心棒さん、どうも!
おおっ、むかしとはいえ、用心棒さんもクレマンを観ていたのですね。
彼は明らかにエイゼンシュテンの思想を後継しているように思います。それはコミュニズムであっても共和であっても、そんなのはどちらでも良いんです(語弊がありますが)が、「人類の矛盾と解放の歓喜」という観点での後継者だと思うんです。

ただ、トリュフォーたち「新しい波」のクレマン批判が、全く的外れとは思っていません。的外れではないが、間違っていると思っています。要するに、正確だけど不足があるということなんです。
>トリュフォーにしろ、ブレッソンにしろ、過去の巨匠を否定しながらも、その呪縛からはけっして逃れられない・・・
そうですよね。なら、素直に評価しなおせよ、と言いたい。素直じゃあないんじゃないかな?ヌーヴェル・ヴァーグは・・・ほんと。
用心棒さんのクレマン記事のアップ、なんだか期待しちゃうなあ。眼が肥えている分、長短所とも目に付いてしまうと思います。
それから、たくさんのTBありがとうございます。ほんとにもう、よだれの出そうな作品ばかりですよね。
では、また。
Commented by 用心棒 at 2008-06-11 01:03 x
 こんばんは!
 いま、ちょうど『パリは燃えているか』の幕間の休憩に入りましたので、コメントしております。アメリカ映画的なスペクタクルはありませんが、敵味方の区別なく、人間をしっかりと描いていますよね。
 では、後半が始まりますので(笑!)
Commented by mchouette at 2008-06-11 11:51
トムさん、TBまで下さったのに、すっかりお返事が遅くなって申し訳ない!ちょっと部屋にすっこんでおりましたもので……。
オカピーさん、用心棒さん、そして豆酢さんと並んでいる中で、ルネ・クレマンといえば「太陽がいっぱい」!「禁じられた遊び」も彼だったんだ!という程度の認識しか持たぬ私がなにをコメントいたしましょうかの心地です(笑)
手元に「居酒屋」「鉄路の闘い」のDVD、そしてハードには「ドイツ零年」も。若いときには何度もみていた「禁じられた遊び」、数ヶ月前NHK衛星で放映されていたのをみて、改めて、彼はこんな形で戦争の悲惨さを描いていたのかと思いました。若い時ってなんて鈍感!
「パリは燃えているか」あれだけスターが登場しているけれど、彼らのスター性がけっして邪魔にならない。
トムさんのルネ・クレマンの記事、興味深く読ませていただきました。
「居酒屋」「鉄路の闘い」観る順番待ちで待機中でございます。
Commented by mchouette at 2008-06-11 11:52
横レスでごめんなさい。
>素直じゃあないんじゃないかな?ヌーヴェル・ヴァーグは・・・ほんと
そう思うところもある!(笑)
その辺が若いときの私にもあって、でも今は素直に、自分の胸に響くものを大事に映画を観ていきたいなってしみじみ思います。
Commented by Tom5k at 2008-06-11 23:47
>用心棒さん、こんばんは
 おおっ!今はもう見終わられた頃でしょうか?
>アメリカ映画的なスペクタクルはありませんが、・・・
しかし、基本的にはパラマウントの作品のようですよ。ハリウッドから見れば逆輸出作品とでもいいましょうか。純粋なフランス作品とも異なる作風かな?
では、また。
Commented by Tom5k at 2008-06-12 00:57
>シュエットさん、こんばんは。
ずいぶんとクレマンのソフトを購入されたのですものね。少し驚きましたよ。何だかブログで扱われている記事とクレマンやロッセリーニが結びつかなかったものですから・・・新たな世界だとおもいますけれど、シュエットさんが、どのようなご感想を持つか、何だか楽しみ・・・。
>オカピーさん、用心棒さん、そして豆酢さん・・・
なんだか『パリは燃えているか』と同様、オールスターキャストかと・・・(笑)。
『禁じられた遊び』は非の打ち所のない作品ですよね。、本当に泣きましたよ。
『パリは燃えているか』も基本的には反戦を訴えていると思います。だって、ナチス側の家族のことがちゃんと描かれていますし、連合軍側の兵士の死もリアルでしたし。
なんと、シュエットさんも素直ではなかったのですか(笑)。しかし、わたしも、時と場合によっては、その例に漏れないかも。人間というのは、自分の存在感を十分に確認できないとメンタル的にダメージを受けるのではないでしょうか?自身を振り返ると、そんな気もします。ヌーヴェル・ヴァーグのエネルギーも、そういう屈折があったのかもしれませんね。
では、また。
Commented by 用心棒 at 2008-06-12 01:17 x
 こんばんは!
 米仏合作映画のようですね。ただ、どう考えても、老獪なフランス人たちに、単純なアメリカ人が母屋を乗っ取られている感じがしますね。
 見直しましたが、かなりレベルが高い作品だと感じております。あのように米仏を代表するスターたちを使いながらもスター臭さを出していません。ブレッソン的にいうと、みなが「モデル」であり、職業俳優的な使い方をしていません。
 とても心地よく、三時間が過ぎます。そこがたまらない魅力なのですが、ハリウッド映画を見慣れた人に言わせると、「キャラが立ってない!」ってなるんでしょうね。
 大規模な戦争映画はある意味、戦勝国のプロパガンダに過ぎない。しかしながら、この映画のように戦争の無意味さや馬鹿馬鹿しさを描きながらも、実は敵味方問わずに人間自体の愚かさが画面から出ています。また、敵味方の区別なく、全員がヨーロッパ人(アメリカ人は除く。)なのだという認識があちこちのシーンで見えます。
 ヒトラーだけが終始ドイツ語でしゃべり続けることにはかなり深い意味があるように思います。その辺も含めた記事になると思います。
 ではまた!
Commented by Tom5k at 2008-06-12 23:51
>用心棒さん、こんばんは
>かなりレベルが高い作品だと・・・
やはり、そう思いますか?
映画の知名度とレベルの高さが合致しないのは、日本人に理解しにくいところもあるからなのでしょうかね?
俳優の使い方は素晴らしいと思っています。特に実写シーンをモンタージュしていることで出演俳優とフランス国民とに壁がなくなっています。
>戦争の無意味さや馬鹿馬鹿しさを描き・・・
クレマンの思想信条は情報不足ですが、平和主義者であったことは間違いないでしょうね。
それでは、用心棒さんの記事を楽しみにしています。
では、また。
Commented by マサヤ at 2008-06-13 00:32 x
トムさん
トラバさせていただきます。
トムさんの素晴らしい記事に比べますと、拙記事など小学生の感想文のようですが。
ブログのデザインも一段と素敵になりましたね。
Commented by Tom5k at 2008-06-13 23:14
>マサヤさん、こんばんは。
TB・コメントありがとうございます。
>拙記事など小学生の・・・
あのような素晴らしいHPの運営をされておりながら、なんということを・・・。おもいっきり大人のHPであると思っております。
最近は、ブログのスキン変更も楽しいな、と思っております。
では、また。
Commented by 用心棒 at 2008-06-15 22:03 x
 こんばんは!ルネの言葉は貴重ですね。
 共通の敵があるうちは、呉越同舟ができても、趨勢が見えてくると、途端に揉めだすというのは人間の本質なんでしょうか。
 主義主張にかかわらず、自分にはどちらも同士だったと言い切ったルネの言葉は重いですね。フランスのために戦った多くの戦士の心情は尊い。しかしナチス後の権力を握ろうとした両陣営の上層部には解放戦線さえも、自分たちが優位に立つための道具に過ぎなかったというのも、映画では白日の下に曝け出されていましたね。
 ルネはよくぞここまでレジスタンスにいたのに、中立的な立場で撮れたものだと感心しました。ではまた!
Commented by Tom5k at 2008-06-15 23:05
>用心棒さん、どうも。
この言葉がクレマンの現実の総括なのか、過去にたいする郷愁・美化なのか・・・それとも、未来に向けた期待なのか?
コルティッツの描き方でさえ、ある意味フランスのための貢献者として賛美しているように思います。決してナチスのみが悪の枢軸のだとはしていないのでしょう。考えればこの段階は映画人としてはヌーヴェル・ヴァーグを経ていますが、フランス人としては、パリの五月危機の前段の時代で、最後の戦後という時代だったのかもしれません。
だからこそ、かつての連合軍、アメリカとの共作を実現できたのでしょう。
しかし、そこまで考えたとき、左岸派やゴダールがその後(60年代後半から)に取り上げていった、自国のアルジェリア問題、共和の連合アメリカのベトナム問題などに関わっては、既にクレマンは過去の遺物だったのかもしれません。左岸派やゴダールのクレマンへの黙殺は、当時の政治と文化(特に映画において)の問題まで突き詰めなければ理解できないかもしれません。
それにしても、クレマン=ドロンの再評価ってたいへんですよ!
では、また。
Commented by 豆酢 at 2008-06-16 11:34 x
クレマンの再評価って、映画作家としての才能云々以上に政治的な問題を抜きにしてはできないものなのでしょうか。純粋に作品のみで評価するというわけにはいかないのかなあ…。なんだか、それも悲しいものがあるなあ…。

そんなわけで、“クレマン監督よもう一度”記事をひとつTBさせていただきます。今の時点での考えなので、また時間をおけば変わる部分もあるかもしれません。
Commented by Tom5k at 2008-06-16 21:53
>豆酢さん、クレマン記事お書きになられたのですね。
何だか楽しみです。
>・・・政治的な問題・・・
ふ~む、飛躍し過ぎたたでしょうかねえ?フランスのドキュメンタリー作家、アラン・レネやゴダールが急進的になって、五月危機とフランスの映画界が密接な関係になっていたことなどの影響など、また、フランスって政治家も文化人が多いので、ついそんなことまで・・・。特に、『希望』のアンドレ・マルローが文化相をしていた時代にシネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワが解任されたこと、など時代的なものに眼を奪われてしまったかしれません。
純粋な映画ファンにとっては、裏舞台というか、映画のフレームの外の社会背景なのですが・・・。
いずれにしても映画を観て、その素晴らしさを堪能する基本から離れる必要もないのでしょうね。
では、早速お邪魔します。
Commented by mchouette at 2008-06-17 00:36
こんばんわ。ブレッソンを記事あげたのでトムさんのところへ検索死にきたら、すっかり模様替え!
サンドベージュが素敵ですね。
最近劇場公開作品みてもちと不感症気味で(笑)若いとき観たまんまの映画とか見直し中。ブログで言葉にしていくと、いかにぼーっツと見ていたか痛感! 用心棒さんも早速に再見されたみたいで、私も最近見直したのは、はや数年前。全く見直したい映画が
どんどん増えてくる!
つい要らぬお喋りなんかしてしまいました。
Commented by Tom5k at 2008-06-17 23:40
>シュエットさん、こんばんは。
スキン変更も楽しいですよ。
最近の映画は、わたしも何だか観る気力がおきないのですが、あまり良くないですよね。極端に言うと素晴らしい作品をDVDやビデオで観るより、映画館に行って駄作を見たほうが結果的には良いことのようにも思います。
でも、じっくりおうちで名作を観るときも、確かに至福のときです。
あっそれから、ブログの記事を書いていくと、おっしゃるとおりいろいろ新しい発見に気づかされます。観たときには気づかなかったことなど。

ところで、ブレッソンですか!?彼の無駄のそぎ落としは、誰よりもそぎ落ちていますよね。ほんとに凄いですよ。
早速、お邪魔することにいたします。
では。
Commented by 用心棒 at 2008-06-17 23:44 x
 こんばんは!
家で探していたら、『アルジェの戦い』『糧なき土地』『革命の夜、いつもの朝』『コマンダンテ』『ニュルンベルグ裁判』『ナチス侵攻』などが出てきましたので、『希望』が終わってから、順次アップしていきますね!ではまた!
Commented by Tom5k at 2008-06-18 01:11
>用心棒さん
オカピーさんが『バルジ大作戦』をアップされていたようですよ。
『アルジェの戦い』はジッロ・ポンテコルヴォですね。『革命の夜、いつもの朝』これは、わたしも近々観る予定です。近所のツタヤにあったんです。
『コマンダンテ』カストロにはちょっと、今は興味をもてませんが・・。
しかし用心棒ライブラリーも、凄いですね。これは映画思想史ではありませんか?用心棒さんも、かつてのゴダールのように疾走しているようです。
記事、楽しみにしています。
Commented by mchouette at 2008-06-21 00:51
こんばんは。なんだか刺激されてしまって、おまけに用心棒さんも再見されてTB下さって、私もついレンタルしてしまいました。
言葉にしていくと、どうも感想が上手くまとまらず、というよりなんか違うなって感覚が沸いてきて、感想を記事にするまで結局3度見てしまった。私には案外と一筋縄でいかぬ作品でした。でこの映画、見る度に面白くなってきた。続きで「鉄路の闘い」をみて熱くなり、こんな熱さを知ってしまったクレマンは、戦後社会で描くべきテーマを見失っていったのではないかしらなんていう思いがわいてきました。
レジスタンス運動を生き抜いた人間にとって、カルチェ・ラタンを解放区と称し、革命を論じ、火炎瓶を投げつける学生達はどう見えたんだろうなって、クレマンのシニカルな視線を感じたリ……(ある一定の評価はしていたとは思うのですけれどね)
いろいろ、ああだ、こうだ思ってしまいました。
次→「居酒屋」いきます!(笑)
Commented by Tom5k at 2008-06-21 14:18
>シュエットさん、こんにちは。
お互いに良い刺激を受け合って、いい映画鑑賞ができれば、それも素晴らしい事ですよね。
それにしても、あの大作を3度も・・・。それだけ魅力のある作品であることと長大でありながら微細なところまで丁寧に創られている作品なのだろうと思ってしまいます。
クレマンのフランス解放の歓びは、逆に現代を真正面から捉えにくくしてしまったほど大きなものだったようにも思います。
>レジスタンス運動を生き抜いた人間にとって・・・
これは、アラン・ドロン論者であるわたしにとっても重要なことなのですが、デュヴィヴィエにしてもヴィスコンティにしてもそうなんですが、アラン・ドロンに出会った監督たちは、彼が現代の矛盾や問題の根源をシンボライズしていることに気づき、戦時の危機感よりは、はるかに気楽に、娯楽と現代の矛盾の両面を表現していったのではないかな?「太陽がいっぱい」や「悪魔のようなあなた」など、そんな作品であるような気がしています。
ゴダールたちより深刻ではなく、でも問題の本質は(特にドロンという現代矛盾そのもののような青年を通じて)見えていた、と思うのです。
では、また。
Commented by mchouette at 2008-06-22 11:03
トムさん、人間って肌と心に刻まれた感覚(それは価値観とか物を捉える時の突っ込み度にも繋がっていくのですが)がその人を規定すると思うの(かなり乱暴な言い方だけど) この場合、理屈じゃねーよ心だよっていう言い方が感覚的にぴったりくるんですが…。
トムさんの<ゴダールたちより深刻ではなく、でも問題の本質は(特にドロンという現代矛盾そのもののような青年を通じて)見えていた>の言葉に重なるわけですが…そうかぁ、そういう視点でアラン・ドロンをみていたのか! こんな新しい視点、本作を今回言葉にすることでルネ。クレマンを監督達の一人から、一人の監督として捉えて作品に迫れたのも嬉しい。頭でなくって感覚としてもてたのが嬉しい限り。では、またお邪魔致します。
 
Commented by Tom5k at 2008-06-22 16:33
>シュエットさん、こんにちは。
>そういう視点でアラン・ドロン・・・
アラン・ドロンは、大スターであり、アイドル的ヒーロー、プロデューサー(そして各種事業家)であることが最も彼を定義づける基本かもしれませんが、それのみでは、あまりにもったいないほど、映画史体系のなかで映画俳優として素晴らしい映画を多く撮っています。
ですから。意識的に、詩的レアリスム、ネオ・リアリズモ、ヌーヴェル・ヴァーグ、フィルム・ノワールなど映画体系のなかで理解してきたのですが、クレマンとドロンの関係は、4作品もあるのに特に映画史的な意味で評価されておらず、長年の欲求不満なんです。日本では『太陽がいっぱい』が、現在でも、これだけ話題になるのに不思議なことです。
Commented by Tom5k at 2008-06-22 16:34
>続き
わたしのそういった欲求不満と、豆酢さんがクレマン作品に興味をお持ちだったこと、用心棒さんが各種戦争映画に傾倒して記事を書くタイミングに『パリは燃えているか』があったことなどが、シュエットさんの好奇心を刺激したのでしょうね。偶然の交差だったのかもしれませんが、このように日本の映画ファンの集いのなかで、このような地味ではあるけれど優れた作品を掘り起こせたことは、未来の映画史に残ることでしょう(笑)。
また、映画は技術、映画史、メッセージの解釈・・・などは理屈かもしれませんが、いくら映像を観るものとはいえ、やはり想像力、すなわち、おっしゃるとおり、感性に訴えかけられる文化であると思います。それは、とても大切なことのような気がします。
Commented by FROST at 2008-06-22 20:54 x
トムさん、こんばんは。
トムさんの記事を読んでいろいろ考えようと思っているのですが、ちょっと余裕がなくなってきましたので、いったんTBだけで失礼します。また、改めて。
Commented by Tom5k at 2008-06-22 23:10
>FROSTさん、TBありがとうございます。
>ちょっと余裕がなくなって
お仕事がお忙しくなったとのこと、けっして無理なさらず、お体にお気をつけて、ブログはあせらず、マイペースでどうぞ。
では、二週間後に。
Commented by booska1234 at 2008-07-15 10:45
トムさん、ご無沙汰しております。TB有難うございます。ルネ・クレマン監督って、こんな痛烈な評価もされていたとは知らず意外でした。素人の私には「居酒屋」「太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」など名作があるのでそれだけでも十分すごい巨匠だと思っているのですが…^^;)。また「「海の牙」や「パリは燃えているか」「鉄路の闘い」は未見なのでぜひ見てみたいと思います。
Commented by Tom5k at 2008-07-15 20:34
>ブースカさん、こんばんは。
TB・コメントのお返しありがとう。相変わらずたくさんの映画作品をご覧になっていらっしゃいますね。うらやましいです。
>「居酒屋」「太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」
とにかく、実際に鑑賞して、素晴らしいと思うだけで良いんだと思います。そう思わない場合の意見も勉強になりますけれど、それに惑わされることもないのではないかと思います。
>「海の牙」「パリは燃えているか」「鉄路の闘い」
ルネ・クレマン監督は、むしろこのようなレジスタンス映画で本領を発揮しているようです。是非、ご覧になって記事にしてください。
では、また。
Commented by mchouette at 2008-07-15 23:12
トムさん、拙ブログに熱きメッセージありがとうございます!
「居酒屋」アップしたのでもってきました。
これね、素直に見ていて感じたまんま書いてるの。
その後でトリュフォーの指摘に出くわしてなるほどなって同調したというわけです。あくまでも「居酒屋」を観ての反応です!
というより、私トリュフォーたちが批判の対象としている作品ってあまり認識ないですし…。
トムさんも拙記事を素直に優しく読んでやってね(笑)
それからご紹介いただいた川越名画座さんにもTBもって初訪問させていただきますね。ちょっとおっかなだわ(笑)
Commented by Tom5k at 2008-07-15 23:50
>シュエットさん、いわゆる「荒らし」に近いコメントお許しいただいているでしょうか?わたしのコメントが邪魔な場合、削除してくださいね(本当に)。
>映画に限らず新が旧を超えようとしたとき、そこに起きうるムーブメント・・・
恐らく、ヌーヴェル・ヴァーグ運動は、旧時代を徹底的に否定したからこそ、生まれ得たものなんでしょうね。
仲良く引き継がれたとしたら、その後の映画の進歩も漸進的すぎたかもしれません。本当に、おっしゃりとおりでしょうね。
>川越名画座
素敵な記事がいっぱいですよ。『居酒屋』では、見事にわたしとバッティングしていますが(笑)。
では、そちらにお伺いします。
Commented by mchouette at 2008-07-17 22:18
トムさん、「居酒屋」②TBしました。
記事にもかいているけれど、何故、ルネ・クレマンは?っていう「しこり」がずっと残っていて、これはトムさんも同じだと思うのですが。先の記事書いているときに、ひょっとして…、案外…、いやどうだろうか…ってあれこれまとまらないまま、しこっていたもの、とりあえずの今の段階での私の捉え方です。というか、あの時、かたすみにあったものをこの際、文字にしちゃえって感じです。そうしないと次の段階にいけませんからね。
ただ、「しこり」のまま終っていたのを言葉にしていくことで、とおりすぎていくだけだったもの似たいし、意識が深まって、これもちょっと嬉しい。
Commented by mchouette at 2008-07-26 07:48
トムさん、おはようございます。
ルネ・クレマンのタグをつくったからにはこの作品をあげないと…で私の「禁じられた遊び」の感想です。感じて思ったこと優先の私には、この映画はポレットとミシェルの幼い恋の物語の切なさで観てしまう映画。戦争を舞台にしているんだけれど、世間でいわれているように子供たちを通して戦争批判の映画ってどうも感じられないんですよね。頭で考えたらそういう構図は容易に出てくるんですけどね。
トムさんのご意見待ってます!
Commented by Tom5k at 2008-07-26 12:20
>シュエットさん、こんにちは。
おおっ!「禁じられた遊び」ですか!
>ルネ・クレマンのタグ
無理にお願いして、何だか申し訳なかったかなあ、と思っているんですけどわたしにとっては、特別に思い入れや多くの疑問もあって、クレマンについては、多くの人のご意見を聞いていきたいと思い続けていましたものですから・・・。
特にシュエットさんや豆酢さんのような方がクレマンに少しでも関心をお持ちでいられる方々に遭遇して本当にブログをやっていて良かったと思っています。
>戦争批判の映画ってどうも感じられない・・・
わたしは、単純にそこはあったようには思うんですが、ただ確かに、それだけではないような気はしてはいました。何か新しい発見もありそうです。
それにしても、シュエットさんは早起きですねえ(笑)
では、早速お邪魔します。
Commented by オカピー at 2009-12-07 01:26 x
弊記事までTB及びコメント有難うございました。

>トリュフォー
頭が良い人は概して狭量になりがちで、その典型ですね。
双葉師匠を尊敬するのは、僕が逆立ちしても到底敵わない頭脳を持ちながら非常に素直な見方をしているからです。
何の作品だったかなあ、「ニューシネマなんてことはどうでも良い」と仰っているんですよ。要は作品ごとに良いか悪いかチェックするのが肝要ということで、詩的リアリズムといった分類は師匠にとっては意味のないことのようです。

>ヴェテラン技術者
今は知りませんが、ある時期まで日本ではこれは誉め言葉ですよ。
「ローマの休日」の批評で、筈見恒夫氏(筈見有弘氏の父親)は「映画監督は何でも作れなければいけないが・・・」と仰り、ワイラーを絶賛しています。
対照的だなあ。

双葉師匠的に言えば、映画作家であろうと、職業監督であろうと、その作品ごとに評価すれば良いと思います。
僕の40年の映画鑑賞の経験から言って、職業監督と言われている監督にも相当傾向がありますよ。
Commented by オカピー at 2009-12-07 01:27 x
一応続きみたいなもの。

>スターがリアリズムに
語弊があるかもしれませんが、特に本作のようなオールスター・キャストでは【スターの無個性化】で、「鉄路の闘い」の【アマチュアのスター化】と裏表の関係になっているわけですね。

大変興味深い発想でした。
いつかこっそり使わせていただきます。(笑)
Commented by Tom5k at 2009-12-10 01:28
>オカピーさん、こんばんは。コメントありがとう。
トリュフォーに関わっては、本当に映画も素晴らしいものが多く、評論にしても説得力もあり、映画の進歩に必要な運動の担い手であったんだとは思っています。そして、そんなことはクレマンもデュヴィヴィエもオータン・ララもカルネも知っていたに違いありません。
だからこそ、「太陽がいっぱい」や「殺意の瞬間」や「パリ横断」や「危険な曲がり角」などが生み出されたに違いない。旧世代の柔軟性も凄いと思います。名付けて旧世代ヌーヴェル・ヴァーグ・・・。
双葉先生の批評は本当に率直で、ときのスター俳優をワーストに選んだり、本当に面白かったです。
Commented by Tom5k at 2009-12-10 01:29
>続き
そう、確かに映画の体系自体は、その作品にそれほどの付加価値を与えるものではないかもしれませんね。わたしは、ついその体系に引きづられて作品を観てしまう習慣になりがちですが、作品の意味や価値は作品そのものですよね。
>ヴェテラン技術者・・・ある時期まで日本ではこれは誉め言葉・・・
わたしもそう思っています。だって、優れた技術があるから、いろいろなものを表現できますからね。
>【スターの無個性化】・・・【アマチュアのスター化】と裏表の関係・・・
以前からの繰り返しになりますけれど、クレマンの素晴らしさはここではないでしょうか?ドロンは、だから輝いたし、ロッセリーニは、ここを失敗してバーグマンの魅力を表現できなかったのだと思います。
では、また。
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