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映画作品から喚起されたこと そして 想い起こされること

by Tom5k

『パリの灯は遠く』④~社会派リアリズム作品でのアレクサンドル・トローネルの映画美術 その2~

 ジョセフ・ロージー監督のほとんどの作品で美術を担当してきたのは、リチャード・マクドナルドでした。アラン・ドロンがレオン・トロツキーを暗殺したフランク・ジャクソンを演じた『暗殺者のメロディ』の美術担当も彼です。
 彼が、初めてアレクサンドル・トローネルと組んだのは、この『パリの灯は遠く』からです。それ以降、彼のお気に入りとなったアレクサンドル・トローネルは、『南への道』や『ドン・ジョヴァンニ』、『鱒』などで起用されていきました。
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」全2幕
ライモンディ(ルッジェーロ) / / ビデオメーカー





「トローネには一種のプロ意識があってわたしがやりたいことを即座に理解してもらえる。」と監督は述懐しています。
【引用~『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年(以下、『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』)】
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ミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢 / 日本テレビ放送網






 また、アレクサンドル・トローネルが
 アラン・ドロンの敬愛してきたジャン・ギャバン主演作品の多くを手がけてきた美術監督であったこと、「詩(心理)的レアリスム」の代表的な美術監督であったこと、
 美術担当のほとんどを担当していたカルネ=プレヴェール作品の『悪魔が夜来る』で、アラン・ドロンの代表作のひとつ『太陽はひとりぼっち』のミケランジェロ・アントニオーニ監督が助監督を務めてたことがあること、等々。
 アラン・ドロンが製作者として参加しているこの作品の美術監督に、彼が選定されたことは偶然ではなかったと推察できます。


 この作品での最も有名なユダヤ民族の判定をする当局直轄の診療所のファースト・シークエンス、そこからアラン・ドロン演ずるロベール・クラインのアパルトマンの寝室のショットに移るカットの間に女性の臀部を描いた絵画がインサートされていますが、このヌード絵画は彼の描いた作品だそうです。

 その絵からのティルト・ダウンにより、ランジェリー姿のままぐっすりと寝ているジュリエット・ベルト演ずるジャニーヌの姿に繋いでおり、ここは昨晩のクラインとの性行為を想像させるような猥雑なショットでした。
 人間を人間扱いしていないユダヤ民族判定の検査によって、人間としてのセックスそのものを否定したファシズムを象徴するトップ・シーンから、クライン邸のこのセクシュアルな生活場面への転換に、彼の描いた芸術的な女性のヌード絵画を挿入して、三つ巴の女性のコントラストをモンタージュしているわけです。
 人間としての女性の本性が、それぞれの状況において、これほどまでに変化しうるということが表現されていることにより、種々の社会状況が鮮明になります。実にショッキングな連続ショットです。
 

 ユダヤの壁掛けの絵画「胸を矢に貫かれたまま飛び続けるハゲワシ」のオークション、この絵画そのものにも、ここに集まった人々の時代習俗にも、眼を惹きつけられます。
 そして、パリのカフェ、ユダヤ通信の事務所、警察署内の事務室、教会でのミサ等々、1940年代のナチス占領下の陰鬱なパリの様子は、ジャン・ピエール・メルヴィルの『影の軍隊』でのパリとも重なります。
影の軍隊
/ ビデオメーカー





 ロベール・クラインは、誤って配達されたジャンヌ・モローが演ずるユダヤ人のブルジョア夫人フローランスの手紙をきかっけとした彼女との邂逅から、ユダヤ人クラインの身元に特に関心を示すようになっていくわけですが、彼女の邸宅を訪問するまでのショットなども、ジョセフ・ロージー監督の創作イメージとアレクサンドル・トローネルの美術指導との、最も波長のあったシークエンスであったように思います。

 また、その地を訪れたときの降車後の列車それ自体も、それがフレーム・アウトした後の駅構内の様子も、何台かのマルチ・カメラによるワン・ショットで、迎えに来た執事に声をかけられたときのアラン・ドロンの緊張した様子や、手持ちカメラによるクラインの主観描写によった長回しによる廷宅内の様子などの撮し方など、素晴らしいショットの連続でした。
 これらのショットにはロベール・クラインの最も高まった不安、及び緊張状態の心象が実に巧みに表現されており、監督の演出力、セットや装飾等の美術の素晴らしさはもちろん、撮影監督のピエール・ウィリアム・グレンのカメラも、俳優アラン・ドロンの演技も絶賛すべきものだと思います。

「あそこの廊下の床の上に絵が並べておいてあるのを目にしたとき(ラ・ロシュフコー家が居住していた城であり、アルゼンチンに向けて出発する準備を整えていた)、映画のなかで使った通りの映像が即座に浮かんできた。」
【引用~『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』】

 そして、フローランス夫人を演じたジャンヌ・モロー。
「この作品はヒットして20世紀の映画の古典の一つとみなされているものの、彼女は気に入っていない。その理由は複雑すぎて説明できないと彼女はいうが、ナチ占領下のパリで暮らす優雅なユダヤ人女性という役柄は彼女の最高の出来の一つにあげられる。」
【『女優ジャンヌ・モロー型破りの聖像(イコン)』マリアンヌ・グレイ著、小沢瑞穂訳、日之出出版、1999年】
女優ジャンヌ・モロー―型破りの聖像(イコン)
マリアンヌ グレイ / / 日之出出版






>この作品は・・・彼女は気に入っていない。その理由は複雑すぎて説明できない・・・
 何故なのでしょうか?この分析だけでブログ記事が何ページにも及んでしまいそうですので、ここではその分析はしませんが、非常に興味を喚起されるところです。

 そして、クラインが自分の出生のことで、父親を訪れたときの室内のからくり時計、窓から見える教会、クライン家の勲章の額縁への連続ショットなどにも映画のテーマから噴出してくる「美」を感じる取ることができます。
 それらが人間社会の多くの矛盾と虐待のなかから生み出されてきた血の滲んだ美しさであり、社会的弱者からの搾取を維持し続けようとして多くの矛盾に呵まれて、自己を喪失していったロベール・クラインの家系の歴史が象徴されていたように感じます。
 監督の演出力と美術担当監督の指導力で、人間としての「美」の追求の歴史を、美術商クラインに、しかも否定的にシンボライズさせていたモンタージュであったように、わたしには思えたのです。

 ラ・クポル・レストランでのブルジョアジーたちの品の無い食事の様子、彼らの食欲にも飽食の醜悪さを痛感します。
「ラ・クポル・レストランのほうで私がカメラに収めようとしたものは、狂乱のムード、人々の顔に浮かぶ猥雑さだった。」
【引用~『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』】


 また、この作品のリアリズムは、ブルジョアジーたちの陰鬱な生活様式のみの表現に留まりません。
 反ユダヤ主義のキャバレーの舞台レビューでの踊り子たちの、舞台裏での姿やメイクアップ、女工労働者たちが共謀してクラインに対峙する兵器工場の階段でのやり取り等々、これらも実に不気味で不安感を煽るものであり、そういう意味で非常にショッキングなものばかりです。
 ジョセフ・ロージー監督が得意として描く下層市民に追いつめられる有産の人々、眼を背けたくなる残忍で加虐的な表現です。
 実際の当時の劇場の舞台裏や兵器工場周辺の様子も如実に再現されているようで、アレクサンドル・トローネルのリアルな装飾デザインの手腕に頼るところが大きかったと思われます。


 そして、最もショッキングなのは、反ユダヤ主義のキャバレーでの舞台ショーです。
 監督は、親友のラ・グランド・ユジェーヌ劇団のフランツ・サリエリに、この舞台ショーの演出内容を相談したそうです。ここはフランコ・ソリナスのシナリオにはなく、彼らのオリジナルであり、監督自身はこの映画で最も良く出来たシークエンスであると自己評価しています。

 また、『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』では、歌っている喪に服した夫人は、夫を亡くした女性であるように訳されています。
 しかし、このマーラーの原曲は、5曲の連作歌曲『亡き児をしのぶ歌』の第1曲目「いまはれやか陽がのぼろうとする」です。これは、詩人リュッケルトの同名の詩集をテキストとしてグスタフ・マーラーが完成させ、実は表題のとおりに愛児の死をテーマにしたものです。
 しかも、作曲したグスタフ・マーラー自身もこの作品の完成の後に、生まれたばかりの二人の愛娘を実際に亡くしてしまっていたという、人生における最大の運命的悲劇を逸話に持った歌曲なのです。
マーラー:さすらう若人の歌
フィッシャー=ディースカウ(ディートリッヒ) / / 東芝EMI
トラック2 歌曲集「亡き児をしのぶ歌」




 ですから、亡くしたのはこの夫人の夫ではなく、恐らく愛児だったのではないかと思われるのですが、そうであれば、このシークエンスの意味はより陰惨であり、まともな神経であれば決して正視することが出来ない異常な状況設定であるといえましょう。ジョセフ・ロージー監督のリアリズムを信用するならファシズムの狂気は、このワン・シークエンスのみで充分に理解することが可能であり、わたしは何度再見してもこの場面では吐き気を催してしまうほどです。

 もちろんこのキャバレーの一連の舞台装飾や衣裳に関しては、アレクサンドル・トローネルの指揮下にあったことは間違いなく、それも絶賛に値するものです。


 ロベール・クラインは、ユダヤ人クラインの死の確認によって、パリから国外に逃亡することを決断します。列車内では、『太陽がいっぱい』でのナポリの写真のワン・ショットがインサートされます。
 わたしはこの写真から、それはトム・リプリーに殺害されたはずのフィリップ・グリンリーフが、腐乱した死骸となってもまだ、愛する彼を求め続けていたという映画評論家の淀川長治氏の映画批評を思い出してしまいました。ここは、スター俳優であるアラン・ドロンの奇怪な心象風景を連想させる不思議なショットです。

 クラインは、偶然に乗り合わせたユダヤ人クラインの愛人の一人であるナタリーから、死亡したと思い込んでいた彼がまだ生存していることを知らされ、再び、自分のドッペルゲンガーとも言えるユダヤ人クラインを求め、逃亡をあっさり頓挫させます。パリに戻り、ミシェル・ロンダール演ずる友人の弁護士ピエール宅で、初めて彼と電話で話すことになるのです。
 ここでクラインの後方に見える東洋画も印象深く、わたしは仏教でいうところの縁起説から、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の『仁義』の原題『Le Cercle rouge(赤い輪)』を連想してしまいました。

 受話器を置いたときのアラン・ドロンへのライティングは左側の顔だけで残りはシャドウです。アラン・ドロンの表情における演技にも、ライトで反射している彼の美しい眼にも、狂気そのものが強調されていて、わたしは背筋が寒くなりました。
「(-略-)映画のセットはライティングによって初めて生きるもので撮影所のライトが消えたとき、セットは死ぬ。それが映画美術です。」(アレクサンドル・トローネル)
 もはや、アラン・ドロンは映画の美術そのものに匹敵する俳優なのかもしれません。

 電話で話すことができたにも関わらず、ピエールの通報によりユダヤ人クラインは官憲に連行されてしまい、ロベール・クラインは彼との邂逅のチャンスを逃してしまいます。
 
 フランコ・ソリナスのミスだったのか、シナリオにあったロベール・クラインがジャン・ブーイ演ずるユダヤ人から買いたたいたヴァン・オスターダの「ある紳士の肖像」は、実際には架空の絵画であったそうです。
 撮影開始後に、そのことを知ったジョセフ・ロージー監督とアレクサンドル・トローネルは自分たちで、あの絵を制作せざるを得なかったと、後に監督は述懐しています。

 帰宅した深夜にヴァン・オスターダの絵画とした「ある紳士の肖像」を見つめるアラン・ドロンのショットは、監督にとっては非常に重要なシーンであり、ここでの彼の演技を絶賛しています。

「私にとって重要なシーンは、夜中に一人、例の絵と向き合うところ、ヴェル・ディーヴの一斉検挙が始まる直前だが、ここでのアランは実に素晴らしい演技を見せていると思う。キャンバスの中の紳士と同じ強張った姿勢を、アランにとってもらった。アランは絵の人物になりきった。」
【引用~『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』】

 自己のアイデンティティを喪失しているロベール・クラインが、自分が誰で、どこから来たのか、を「ある紳士の肖像」から理解しようとしているシーンなのだそうです。これは彼の分身への憧憬そのものの、ユダヤ人クラインへの変身や同化への願望が如実に表現されたシークエンスであり、分裂したアラン・ドロン、すなわち最も彼らしいドッペルゲンガーへの憧憬を表現できた瞬間であったと言えましょう。

 人間は誰もが自らの存在に否定的になることがあり、自分に立ち戻る場所が無ければ、意識のうえでは平然と自己抹殺を敢行してしまうことも珍しいことではないかもしれません。クラインの場合は、自己抹殺の意識を超越するほどの投影をユダヤ人クラインに求めてしまっていたのかもしれませんが・・・。
 いよいよクライマックスに突入していく前の「嵐の前の静けさ」とも言えるシークエンスでした。

 ついにアウシュビッツ収容所へ向かう中継施設での様子では、ドリー撮影による凄まじい迫力が生み出されています。行き交う大型バス、オートバイ、バスの窓に写るナチス当局の黒塗り公用車などから、ここが周囲から完全に包囲、収容されていることがわかります。
 そして、イエロースターを付けたユダヤ人たち、子どもと引き離される母親等々。
 撮影時のエキストラは、ユダヤ人協会の撮影協力の下での数千名のユダヤ人たちだったそうです。しかし、当時のエキストラの中には、まだ戦争実体験者が多く残っていたこと、あまりにリアルな撮影現場であったこと、などからユダヤ人であることを刻印している胸章イエロースターを、3日間の撮影の間に着用することに耐えられない者が多数いたというエピソードも残っているそうです。

 この作品に描かれているパリは、
「詩(心理)的レアリスム」の美しい芸術的なパリでも、
「ヌーヴェル・ヴァーグ」のロケーションで写し撮られた現実のみずみずしいパリでもありません。

 実際のナチ占領下の最も陰鬱なパリなのです。


 美術担当のアレクサンドル・トローネルも、亡命ユダヤ人であったがために、カルネ=プレヴェール作品の頂点に位置する『天井桟敷の人々』の制作当時にあっては、身元を偽らざるを得ず、この作品の美術指導はレオン・バルサックとの共同作業に終始せざるを得なかったと言います。
 隠れていたニース近郊の山中からバルサックにデッサンを渡したり、セット建設の指示を出す生活であったそうです。
 しかも周囲にはナチスのスパイが常駐しており、命がけの美術指導で、そのデザイン・建設に各々3ヶ月、計6ヶ月もの月日を要してしまったとのことです。

 このように、命までをも賭けた仕事をこなしてきた彼の映画美術には、人間の内奥に潜む醜さや美しさが創り出してきた社会の本質的な美のリアリズムが感じ取られるとともに、若い頃にカルネ一家の中でナチスと闘った本物のレジスタンスのエネルギーがほとばしっているように、わたしには感じられるのです。
by Tom5k | 2007-05-14 00:01 | パリの灯は遠く(5) | Trackback(2) | Comments(13)
Tracked from オタクイーンの「恋するネ.. at 2007-05-20 00:52
タイトル : ご意見ありがとうございました
オタクイーンの「恋するネヴュラ」を気にかけて下さる全ての方々へ先日5月17日、拙... more
Tracked from ジュリアン サントラがい.. at 2008-09-23 21:52
タイトル : 僕の生活からドロンが消えた… 『パリの灯は遠く』
 ブログの中で時折触れてるけれど 大学に通ってた頃から10年くらい全くアラン・ドロンの映画を観ない、大好きだったサントラも聴かなかった時期があった 今、思えばこの10年の間にいろんなレコード、CDなんかが市場に出てたし、もっと色んな物を手に入れる事ができたんやろなと後悔する なんでそれまで大好きやったドロンから離れたのか? 多分この映画がきっかけになったと思う 『パリの灯は遠く』 公開前から雑誌で写真は載せられていたがどれもこれも暗い感じ 髪もなんか妙な短髪 帽子かぶっても『ボルサリーノ』のよう...... more
Commented by オタクイーン at 2007-05-20 01:07 x
先日は私の勝手なお願いに、大変ご丁寧なコメントを頂きありがとうございました。おかげで二年目をスタートできました。感謝致します。
さて。久しぶりにコメント差し上げますが、貴ブログは深い作品解析がなされている為、この作品を未見の私は語る術を持ちません。
ただ文中のアレクサンドル・トローネルによる「照明」のお話。これは私も撮影現場で似た言葉を耳にします。
「現場は照明で決まり、作品は編集で決まる」という言葉です。
どんなに良く出来たセットも、光の当て方次第では台無しになってしまう。逆もまた真という訳です。まあ予算の無いテレビの場合、貧弱なセットを照明効果で豪華に見せる、といった局面の方が多いのですが(笑)。
こんな風に現場はいつも、光の魔術で幻想を見せているのですね。
またお邪魔します。これからもよろしくお願い致します。
Commented by Tom5k at 2007-05-20 13:34
>オタクイーンさん、ようこそ。
ブログはブログに縛られれてしまっては意味がなく、日常の生活を大切にしてこそ、意味のあるものだと思います。
自慢ではありませんが、わたしの更新は早くて2週間に1回、遅いときは2月に1回です(笑)。
人生は短いようで長いのです。
さて、映像におけるライティングですが、なるほど、ご専門のお仕事をされているオタクイーンさんの言葉だと説得力がありますね。ある意味、トローネルの言葉よりも納得できます。
今日の日常の映像と、このような映画史・理論とが整合していることに妙な感動を覚えてしまいますよ。貴重なご意見、とてもうれしいです。
また、現場での体験談からのコメントお願いしますね。
では、また。
Commented by みのり at 2007-05-26 02:53 x
トムさんこんにちは! いろいろ教えてくださってありがとうございます。 早速お邪魔してまいりました。 いろんな意見を聞けるのは楽しいです。 記事と関係ないことを書いてごめんなさい。
Commented by オショーネシー at 2007-05-26 11:56 x
トムさん、こんにちは。こちらではお初ですね(いささか緊張)
リンクの件、OKでございます。私めのつたないブログをリンクしてくれるとは嬉しい限りでございます。
トムさんのブログも私の所でリンクを貼らしていただきました。(事後承諾ですみません…)
トムさんのブログはとても哲学的ですね。それなのに分かりやすくスッと入っていける。う~ん…素晴らしいなぁ…。脱帽。
これから、ちょこちょこ遊びに来たいと思います。
Commented by Tom5k at 2007-05-27 02:55
>みのりさん、こんばんは。
記事と関係なくても気にしないでコメントしておいてください。同様にTBもOKですよ。
では、また。
Commented by Tom5k at 2007-05-27 03:24
>オショーネシーさん、ようこそ。
リンクありがとうございます。
えっ、哲学的でしたっけ?(笑)
分かり易いといっていただいて、うれしいです。興味がある記事などあったら過去記事でも結構ですので、コメント・TB大歓迎でございます。

FROSTさんの「川越名画座」は、いつもよだれをたらしながら読んでいます。
オショーネシーさんは、女性ですのに「フィルム・ノワール」、「ハードボイルド」関連記事が多くて、驚いていましたよ。
40年代の悪女たちは凄いですよね。最近は『ギルダ』を観て、また大いにカルチャー・ショックを受けています。
『大いなる眠り』も再読しているんですよ。映画の『三つ数えろ』のローレン・バコールも良いですよね。
もちろん、『マルタの鷹』のメアリー・アスターには、いつも破滅させられたいと願っています(笑)。
では、また。
Commented by mmamesu at 2007-05-30 22:01
Tomさん、ご無沙汰してしまって申し訳ありません<(_ _)>

そうなんです…そうなんです…(笑)。「暗殺者のメロディ」にも「パリの灯は遠く」にも、語るべき要素がたくさんありますよね。ロージー監督にも右腕となる優秀なスタッフがおりました。中でも、トローネルの仕事は特筆すべきものです。ところで、照明に関するオタクィーン様のコメントは興味深かったですわ。現場では照明が全てを支配するというのは、言われてみなければ本当に気がつかない点です。勉強になりました。

こうしてTomさんの詳細な解説を拝読していると、印象的だったあのシーン、このシーンが脳裏に蘇って参りますね。ああ、途中の緒作品をすっ飛ばして、アラン・ドロン氏出演のこの2作を観直してしまいそうです(笑)。
Commented by Tom5k at 2007-05-30 23:02
>ヤッホー、豆酢さん、ようこそ!来ていただいてうれしいです。
ジョセフ・ロージー『緑色の髪の少年』拝読させていただきましたよ。素晴らしいですね。わたしも再見してみようかなと思っちゃいました。
最近、思うことはハリウッドで痛めつけられたロージーでも、素晴らしい理解者も多かったようで、誠意ある生き様には共感する人も多いんじゃないかなということです。
アレクサンドル・トローネル(レジスタンスのユダヤ系共和主義者)、アラン・ドロン(ばりばりのドゴーリアンいわゆる右翼だが、何故か若い頃から左派系の演出家とウマが会う)などなど。
一本筋が通ると思想信条を超えて友情が通じあうんですよね。これって、不思議なことですけど、実に興味の湧き上がってくるところです。
また、わたしからすると、ドロンとロージーは最高ですが、ロージーのボガードなんかスッゲーッと思います。
同様にスタンリー・ベイカーなんかも魅力的です。
ベイカーなんか豆酢さんはどうですか?わたしは、『ゾロ』の悪徳総督の印象が強烈で、ロージー一家がイタリアで共演したことなんか、当のロージー監督は、どんな印象を持っていたんでしょう?本当に興味は尽きません。
Commented by mmamesu at 2007-06-15 16:34
トムさん、再びこちらに参上いたしました(^^ゞ。
ああ、何度拝読してもトムさんの記事はうっとりしてしまいます。

>一本筋が通ると思想信条を超えて友情が通じあうんですよね。
全くその通りだと思います。映画製作の現場には、それこそいろんな人種、いろんな思想背景を持った人間が集まってくるわけですから、余計にそういった現象がみられるのでしょうね。

ロージーと組んだボガードも、なんといいますか、異様なまでのオーラを発揮しておりましたね。ちょうど彼が俳優として熟してくる時期と、ロージーの演出の冴えが花開いた時期が一致した幸運もありました。ボガードは当初、「暗殺者のメロディ」のトロツキー役をオファーされていたそうです。実現しなかったのはかえすがえすも残念!ドロンとボガードだなんて、垂涎の組み合わせでしたのに…。

私、ベイカーも好きですよ!なかなか地味な俳優さんですが、非常に味わい深い演技をされる方です。思えば、私の好きな俳優さんって、同じ監督さんに起用されることが多いですね(笑)。
Commented at 2007-06-15 16:36
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2007-06-17 09:35
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by Tom5k at 2007-06-17 13:23
>おおっ!豆酢さん!
過分なるお誉めの言葉、もったいない。ありがとう。うれしいです。
>ロージーと組んだボガード
本当に素晴らしいですよね。
彼のトロツキー役も、観たかったなあ。リチャード・バートンも良かったですけれどもね。あのような前衛作品でイギリス王立舞台の性格俳優の素養で堂々と演じた彼も立派な人だと思います。
ボガードだったら、ロージー&ボガード色が強くなりすぎて、ドロンの凄みがあそこまで出せなかったかも?ドロンにとっては、バートンやロミーとの演技合戦であそこまでの新境地を拓けたようにも思います。
ボガードだったらどんな暗殺者になったかなあ?

>私の好きな俳優さんって、同じ監督さんに起用されることが多い・・・
豆酢さんの感性はロージー的なんですよ(笑)。
では、また。
Commented at 2007-06-17 20:16
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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