『太陽はひとりぼっち』③~「アラン・ドロン」の原型 ホワイト・カラー層として~

 アラン・ドロンを世に送り出した巨匠たちは、作品のうえで彼のキャラクターを次のように表現していきました。

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、血縁の両親でないにも関わらず、暖かい家庭に恵まれた幸せな青年や、外人部隊上がりの俗物のチンピラとして、
ルネ・クレマン監督は、コンプレックスと暗い欲望から犯罪者になってしまう青年や、不幸な育ち故、幸せな家庭に入り込んで背伸びをしてしまった明るい好青年、悪女たちにしてやられてしまうチンピラカード師、ファシズムを共通の敵にしているレジスタンスの闘志、第三共和政の中心的政治家として、
クリチャン・ジャック監督は、アラン・ドロン特有の二面性を明るい活劇に活かし、
アンリ・ヴェルヌイユ監督は、新旧ギャング・スターの対比で描き、
ルキノ・ヴィスコンティ監督は、封建時代のイノセントな青年が現代社会の毒にまみれる悲劇の労働者階級、そして時代を担う若手貴族として、
ジャン・ピエール・メルヴィル監督、ジョゼ・ジョヴァンニ監督は、映画のスター・システムの中での現代人のアウトサイダーへの共感を「フィルム・ノワール」で表現し、
ジョゼフ・ロージー監督は、完成されていたスター・キャラクターの奥にある彼の暗い異常性を引き出し、
自ら経営する映画会社アデル・プロダクションでは、古き良き時代のフランス映画の古典への懐古を徹底していきました。

 どの巨匠たちもアラン・ドロンの本質を種々の視点から見抜いて、彼の新境地の開拓に一役買っていったわけです。
 しかも、それら各々の主人公は、アラン・ドロンのキャラクターの本質と同一であり、巨匠として描きたかったテーマに沿った主人公そのものでもあったわけです。

 しかし、これらの素晴らしい巨匠たちのなかでも、特にミケランジェロ・アントニオーニ監督ほど、アラン・ドロンの未来を正確に予見した映画作家はいなかったと思います。
 彼はアラン・ドロンのビジネスマンや実業家、すなわちホワイト・カラー層としての素養をいち早く見抜き、それを現代青年の退廃に象徴しているかのような空虚で虚無的なキャラクターとして描き出していきました。

「証券取引所の喧噪のなかで泡のように実態のない儲けを求めて走り回る、株式仲買人たちや彼らを見守る株主たち。彼らもまた、広大な証券取引所の建物いっぱいに群がり押しあう凄まじい力のかたまりでありつつ、そのゆきつく果ての空虚さが、私たちを慄然とさせるだろう。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】


 1920年代ソ連の「社会主義リアリズム」の映画作家セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』を代表とした作品群では、ほとんど素人の一般市民たちを「生きたモデル」すなわち「型・典型」として、俳優に使用していきました。
 これは「ティパージュ」という手法として体系づけられており、職業俳優の演技力やスター・システムによるネーム・バリューに依存するのではなく、その主題に最もふさわしいキャラクターを重視して、あえて素人を登場人物に配置し、モンタージュ技術を駆使することなどによって、俳優を素材の一部として取り扱い、テーマに合致させるという映画特有の理論に基づいたものでした。
戦艦ポチョムキン
/ アイ・ヴィー・シー





 1940年代から50年代のイタリアでの「ネオ・リアリズモ」運動も、この俳優論から多くの影響を受けていたようです。
 当時のヨーロッパの多くの優れた映画作家たちに気に入られ、演技指導を受けていったアラン・ドロンも、職業俳優及び映画スターであったわけですが、種々の視点によって、映画の主題に合致した要素、あるいは素材としての素人俳優であったとも解釈できるように思います。


 ミケランジェロ・アントニオーニ監督と同様に、近代社会の疎外をテーマにして音楽活動をしていたピンク・フロイドは、彼のアメリカでの作品『砂丘』で音楽を担当しました。
 ピンク・フロイドのアルバム『A NICE PAIA』での立川直樹氏の解説によれば、彼らは相性が余り良くなく、ピンク・フロイドはアントニオーニ監督に対して、かなりの過激な発言をしていたようです。

 “アントニオーニの音楽の使い方はイモだった。何もわかっていない。”
                                 (ピンク・フロイド)
 “アントニオーニはクレージーな奴だ。僕達は映画で何にも完結しなかった。
  何故か彼は経験豊かな俳優と仕事をしなかった。
  『砂丘』の俳優は全てを注文通りにした。彼等には自由がなかった・・・。
                                 (ニック・メイスン)
【引用~『A NICE PAIA』ライナー・ノーツ(立川直樹・解説)】
砂丘
サントラ ピンク・フロイド カレイドスコープ グレイトフル・デッド パティ・ペイジ ヤング・ブラッズ / 東芝EMI





 そして、監督自身は映画俳優の使い方を次のように語っています。
「映画俳優は理解しないで、生きなければなりません。俳優が知的である場合には、よい俳優であろうとする彼の努力は三倍にもなります。(-中略-)自分で障害を作り出してしまうのです。(-中略-)
 映画俳優は心理的水準ではなく、想像の水準で働かなくてはなりません。そして想像は自ら発光するのであって、指で押すようなスウッィチはありません。(-中略-)俳優と監督は否応なく敵同士のようなものになります。監督が妥協せず、適切な意図を明らかにすることがよいことです。俳優は監督という城塞に入り込んだトロイの木馬なのです。
 私の好む方法とは、隠れた仕事を通して、確実な結果をもたらすものです。俳優を彼自身も気付かない心の琴線で刺激することです。彼の頭脳ではなく、彼の本能を促すこと。正当化ではなく、啓示を与えること。(-中略-)監督は何を求めるか、自らわきまえていなければなりません。俳優が出してくるものの中で、悪いものと良いものを、無意味なものと役に立つものを選び分けられることです。(-中略-)
 即興的な俳優、いわゆる〈市井の(素人の)〉俳優から好ましい結果を引き出すことを監督に許す唯一の方法なのです。ネオレアリズモは私たちをこうしたことへと導きました。
 この話しは職業俳優についても言えることです。(-略-)」

 そして、『太陽はひとりぼっち』でのアラン・ドロンへの演技指導では、
「・・・アラン・ドロン本人には、後で誘拐に巻き込まれたパオロ・ヴァッサロという手本を与えました。彼は自分の父親の助手として証券取引所で働いていました。ドロンは証券取引所で、このパオロ・ヴァッサロを観察しました。彼が何をして、どのように動くのかを。」
【引用~『アントニオーニ存在の証明―映画作家が自身を語る』カルロ ディ・カルロ、ジョルジョ ティナッツィ編、西村安弘訳、フィルム・アート社、1999年】


 ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』の主人公ロッコ・パロンディ役も、アラン・ドロンは無産階級の典型的なモデルとして、選定・配置されたとも解釈できます。
 しかし、このキャラクター、ロッコ・パロンディは現代には存在し得ない前時代(封建時代)のものとして文学的なドラマトゥルギーをプロットとしていた側面も持っていました。
 現代(金融資本主義社会)に適応させた「生きたモデル」としては、『太陽はひとりぼっち』の主人公ピエロが典型的な登場人物だったとも言えるかもしれません。
 しかも、アントニオーニ監督の表現においては、「その当時のアラン・ドロン」ではなく、彼の未来への資質を見抜いており、その先見は恐ろしいまでに正確なものであったといえましょう。



 リアリズム作品の巨匠二人が、アラン・ドロンの過去と未来を同時期に描いていたこと。そして、その対比ほど、不思議な魅力を放つ視点はないように思います。

 後年、『百一夜』でアラン・ドロンの挿話を入れたアニエス・ヴァルダ監督もルキノ・ヴィスコンティ監督の過去の「ネオ・リアリズモ」作品に出演していた時代と現在の実業家時代のアラン・ドロンとを対比させたドキュメントを撮っていますし、『ヌーヴェルヴァーグ』に、アラン・ドロンを起用したジャン・リュック・ゴダール監督はロッコとピエロのキャラクターにより、二重性行の同一人物として描き出ました。

 愛する恋人を最愛の兄に強姦され、愛憎絡み合う兄の借金のために最も忌み嫌っていた職業を選ばざるを得ず、決して壊してはならない家族の絆さえ守りきれずに、現代社会の華やかな欲望溢れる都会に放り出されたロッコ・パロンディ。彼が、もしその社会に適応してしまった場合には、現代青年ピエロのこの退廃と空虚のキャラクターと同一のものになってしまうのかもしれません。


 アニエス・ヴァルダ監督の『百一夜』でのアラン・ドロン挿話として、極貧の生活からはい上がり、今や実業家・映画スターの座を勝ち取ってブルジョアジーとなった彼が、自家用ヘリコプターでジュリー・ガイエ演ずる若くて美しい女性主人公カミーユをパリ15区までエスコートするシークエンスがあります。その直後のショットに、「ネオ・リアリズモ」の巨匠の一人ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』のパロディがインサートされていました。

 彼女のモンタージュには、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ネオ・リアリズモ」作品から出発したにも関わらず、実業家、そして大スターになってしまったアラン・ドロンへの厳しい問いかけが表現されていたように思います。
自転車泥棒
/ アイ・ヴィー・シー






 彼女が象徴させたルキノ・ヴィスコンティ監督とアラン・ドロンの確執には、彼の「貧困への裏切りと決別」が暗喩されていたというわけです。

 そういう意味での解釈をもってすれば、『太陽はひとりぼっち』での主人公ピエロの退廃ぶりはひどく、わたしが以前の記事で書いたピエロの記載は訂正を余儀なくされてしまいます。
【この作品でのアラン・ドロンの演ずるピエロは、有能な証券マンで、育ちの良いホワイトカラーのエリートであり、ごく普通の明るい好青年です。彼にしては珍しく個性の弱い役柄】(2005-08-27 16:52『太陽はひとりぼっち』①~「愛の不毛」と「ネオ・リアリズモ」~)
 ピエロをこのように見ること自体、今日(こんにち)の時代の退廃と空虚に鈍感になっており、そういう自分に愕然としています。この青年の没落は、考えれば尋常ではなく、人間の孤独や苦悩を全く自覚することすらできなくなってしまった欠陥キャラクターなわけですから・・・。


 株式の大暴落のときの同僚の女性へのパワー・ハラスメントとも言える言動や、常連客の個人投資家達への答弁には眼を覆いたくなるものがあります。
「話す気はないですよ。何だと言うんです?今日の損失は僕のせいだ。でも今までさんざん儲けさせてあげた。あとは自分で何とかなさい」
「そんな・・・」

>顧客
「財産を処分しろなんて。」
>ピエロ
「だって当然でしょう。株が上がれば金を取り、下がれば払う。」
>顧客
「そうだが、でもどうすりゃいい。」
>ピエロ
「最初あなたの資金は50万リラだけだった。」
>顧客
「君のいう通りだが。」
>ピエロ
「2年で800万リラ儲けさせ やめろといのに聞かなかった あの金はいったいどこへ消えてしまった。あなたのせいだ。払うものは払ってもらう。」

 やけになって知り合いの女性とデートするときの言動もひどいものです。
 じろじろと無神経に彼女の髪を観て
>ピエロ
「染めたのか?前はブロンドだった。」
>女性
「これが本当よ。」
>ピエロ
「行けよ。僕は残る。」

 モニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアが、心配して会いに来てくれたときの、盗難に遭った自家用車の交通事故に関わる会話でも
>ピエロ
「ゆっくり落ちたんだ。車体は傷が少ない。」
>ヴィットリア
「心配なのは車体のこと。」
>ピエロ
「エンジンも心配だよ。修理に金がかかる。」
 このシークエンスのピエロの鈍感さには、思わず苦笑してしまいました。

「盗まれた車は泥棒ごと川に落ちていたのだが、その引き上げに立ちあいにいくドロンは、車から腕をなまなましく突き出している死人のことはいっこう気に留めず、車の損害のこと仕事時間のロスばかり気にしている。それらはいずれも、いかにもマネー・ゲームによる人間性の喪失を描いた深刻なシーンなのだが、しかしその傍らにヴィッティの茫漠とあまり表情を動かさない顔が並ぶと、どこかに一瞬はずれた、そしてそのはずれた一瞬のなかに真白な空虚が広がっているのがかいま見えるような、不思議なおかしさを漂わせる。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】

 このように考えれば、アニエス・ヴァルダ監督のアラン・ドロン観は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の描いたアラン・ドロン観を継承したものであるとも言えましょう。

 しかし不思議なことに、アラン・ドロンのスターとしての人気の絶頂は、実業家として活躍していた、このようなホワイト・カラー層としてのイメージにも比例していたような気がするのです。

 何故なのでしょうか?

 アラン・ドロンの人気の絶頂は、『あの胸にもういちど』(1967年)あたりから始まって、『個人生活』(1974年)、三船プロダクションでの『レナウンの紳士服ダーバンのCM』の時期だったのではないかと思います。

 特に、ホワイト・カラー層を演じた彼の作品の経緯をたどれば、

『あの胸にもういちど』はアラン・ドロン主演というより、当時の若者の矛盾を体現していたマリアンヌ・フェイスフルに主演を譲り、インテリゲンチャを演じたものの、それは実に品位の欠落したエロティックな大学教授の役でした。
『栗色のマッドレー』(1970年)では、恋愛に肌の色を持ち込む必要のないことを、プライベートでの最愛の恋人ミレーユ・ダルクとの対比にまで高めて表現し、
『燃えつきた納屋』(1973年)でも、逞しい農民の女性に謙譲してしまう検察官、
ブランド商品で固めたような『個人生活』でさえ、左翼中道の労働者政党の政治家であり、
『愛人関係』(1974年)ではミレーユ・ダルクを誠実に心底、愛してしまっている弁護士を演じて、女性ファンを失望させています。
(その後は『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)や『フリック・ストーリー』(1975年)などから、正義を貫く反骨のキャラクターへと変貌を遂げ、映画スターとしては、自己の内部矛盾を社会への矛盾に解消してしまい、暗いアウトローとしてのスターとしての魅力を半減させ、人気の凋落傾向を辿っていくわけですが・・・)

 いずれにしても、人気の絶頂期に彼が演じたキャラクターは、ブルジョアジーやホワイトカラー層の役柄を演じてはいても、まっとうで純粋な意味でのそれは少なく、常にアウトサイダーとしての誠実さや、時に下層階級の品の無さを垣間見せるものであったと言えましょう。
 むしろ、それが現代のダンディズムやヒーロー観に象徴されていたことが、スターとしての人気を沸騰させていった要因のようにまで思うわけです。

 要するに彼は、どんなに上品ぶったホワイト・カラー層のキャラクターを演じていても、常に下層の人々や被差別者、社会のアウトローに対する親近を忘れたことは無かったのです。

「ドロンはギャバンとはちがいさまざまな異質なヒーローを演じながら、ドロン=ヒーローとして一貫性をもっている。彼は舞台経験がほとんどないだけに、かえってそういう芸当もできるのである。またそういう自信には一時代まえのギャバンの自信とはちがった近代性がある。TVコマーシャルにでても一向平気なのもそのためだ。」
【引用~「ユリイカ詩と批評1976年6月号~特集映画ヒーローの条件」(映画におけるヒーローと俳優 主としてフランス映画の場合 飯島正)】


 『太陽はひとりぼっち』は、アラン・ドロン主演の作品というよりもモニカ・ヴィッティの主演作品という印象が一般的ですが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のジャン・リュック・ゴダール監督は、アラン・ドロンを主演に据えて『ヌーヴェルヴァーグ』を撮ったときのインタビューで、彼の過去の出演作品について、次のように評しています。

「アラン・ドロンの出た『ヌーヴェルヴァーグ』を撮った時、本当にドロンと一緒に仕事をしたいと思ったのですか?」
「そうだ。それはまた、彼の年齢と物腰を思えば、彼が『パリの灯は遠く』や『若者のすべて』や『太陽はひとりぼっち』で見せた何かを再び見たいという欲望でもあったんだ。彼は3本の優れた映画を生みだした。それほど多い数ではないが、それだけあれば充分だ・・・・。」
【『現代思想 総特集 ゴダールの神話』(「映画はその役割を果たす術を知らなかった/リュミエール100年にあたってのインタビュー」ジャン・ピエール・ラヴォワニャ、細川晋 訳)青土社、1995年10月臨時増刊】
ゴダールの神話
/ 青土社




 その言説のとおりに、ゴダール監督は、アントニオーニ監督が未来のアラン・ドロンに見て取った退廃した空虚なホワイト・カラー・ビジネスマンの「愛の不毛」を、「愛の再生」にまで高めました。

「ドロンは電話の受話器をはずしてデートに邪魔が入らないようにしており、受話器を戻したあとも、電話が鳴っても出ずにじっとしている。それは、仕事に忙殺されてきた男の初めての人間性の芽生えのようであるが、同時にそれまでもっていた唯一のコミュニケーション手段ももはや信じられなくなった、孤独の確認、と言っていいのかもかもしれない。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】



 アラン・ドロンは『ヌーヴェルヴァーグ』で、愛憎絡み合う恋人の女性の手をしっかりと握りしめ、ラスト・シーンで楽しそうにジャンプするリシャール・レノックスを演じています。
 彼はヴィットリアのニヒリズムに巻き込まれた「孤独の確認」、すなわち虚無的な無気力に到達してしまったキャラクターを、未来に展望を持った「超・ピエロ」へと進化させているのです。

 もしかしたら、それは、アントニオーニ監督に予言された虚無的な未来を、自らの力で超越したアラン・ドロンに対する、ゴダール監督の絶大なる賛辞であったのかもしれません。
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by Tom5k | 2007-04-08 21:33 | 太陽はひとりぼっち(5) | Trackback(2) | Comments(11)

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Commented by Astay at 2007-04-16 15:35 x
トムさん
文章が素晴らし過ぎるのでいつも思うのですが、これまで書いてきたものを《本》にされたら良いかと思います!
アラン・ドロン関連の本を何冊か読みましたが中身の濃さ、作品分析に関してはトムさんがNo.1のような気がいたします
私がどこかの出版社に掛け合いたいくらいです!

『太陽はひとりぼっち』って不思議な作品です
ラストから察してあの後2人はどうなるのか、まったく予想できません
アントニオーニ監督作品は他に『夜』しか観てませんが、独特の世界かと・・・
モニカ・・・アンニュイ過ぎます(笑)
また来月NHK・BSで放送されますよね、人気があるのですね
Commented by Tom5k at 2007-04-17 21:01
>Astayさん、こんばんは。
わたしの文章は、しなやかさに欠けるので万人向けではないしょう。
でも、ブログ記事を読んでくださっている方が、たくさんいらっしゃるので、とっても満足してるんですよ。特にAstayさんのコメントは、いつもうれしいです。
>中身の濃さ、作品分析・・・
パクリにならないように出典表示は、忘れないようにしていますが、わたしの参考にしている文献がすぐれているのかもしれません。
そして、アラン・ドロンをまじめに評価されている方が少ないからかもしれません。もっというと評価されるに値すると考えている人が少ないのだと思います(特に映画俳優として)。
ヴィスコンティから見たドロン、ゴダールから見たドロン、ロミーから見たドロン、ロージーから見たドロン、ギャバンから見たドロン、アントニオーニから見たドロン、ルコントから見たドロン、各種映画評論・各種映画理論・各種俳優論・・・現在、ルイ・マルやジャンヌ・モロー、ブリジット・バルドーから見たドロンを知ろうとしています。
Commented by Tom5k at 2007-04-17 21:06
>続き
要は、ドロン本人の主張や言説より、彼の周辺の人たちがどうドロンを見ていたか、また見ることができるのか、それは何故かに最も興味があります。
そして、フランス映画史や映画史の中で彼がどう位置づけられるべきかに、常に欲求不満を抱えています。正確ではないからです。
ここ10年から20年、ようやくゴダールやヴァルダがそれに気づき始めていると思いますが、彼らでも、まだ不正確だと思います(いや、不正確です)。フランス国内では、ルネ・クレマンの再評価が行われる素地が、まだないからです。
まだ10数年はかかるかなあ。
それから、アラン・ドロンの本質に迫った本を出版して、どれだけの部数の売り上げがあるのかというマーケティングの問題もあるでしょう。
彼の本で売れるのは、スターとしてのオーラを満載した写真集や生育から記したサクセス・ストーリーだと思いますし、それすら過去の人気ですから、どれほどのマーケティングが可能か?
単に自己顕示や利益を考えるなら、ドロン以外の題材になると思いますし、あまり突き詰めないで万人受けする内容が良いのでしょう。
Commented by Tom5k at 2007-04-17 21:06
>更に続き
今のわたしには、Astayさんや、普段お付き合いのある「エキサイトブログ」や「お気に入りリンク」の人たちに読んでもらったり、コメントを交換することが、最大の歓びです。

>『太陽はひとりぼっち』・・・
アントニオーニの作品では、トップを争うほど素晴らしい作品でしょうね。その前にアントニオーニが映画作家でトップを争うほどの監督だと思いますし。
あの後2人はどうなるのか・・・
その後、激しく憎しみ合って、激しく愛を再生させていくのですよ。
ゴダール監督が作品にしています(笑)。
では、また。
今日はありがとう、うれしかったです。
Commented by mchouette at 2009-01-30 11:09
トムさん 遅くなりました。
以前もこの記事は読んだのですが、「太陽はひとりぼっち」を観て、この記事を読むと更に興味深く読ませていただきました。
ピエロって、資本主義経済社会の、まさにその目の中、競争社会、数字で世界が動く、そんな価値観の世界で動いている人物。まさに現代人の典型ともいえる人物。虚無的、退廃的というよりも、むしろも「関係性の希薄さ」が感じ取れました。
彼の価値観が、人間そのものに向けられているよりも、そこにおける勝ち負けにおかれている故でしょう。
カフェに入ってもゆっくりコーヒーを味わう気などさらさらなく、待合わせした女性の髪の色が好みでなければ、さっさとグッバイしてしまうし……関係の中に自分を置いていないから疲れない。残業して損失を計算して「疲れた」といいながら女との待合わせ時刻になると外へ飛び出す。スケジュールで動く歯車のごとき彼の動きは、まさに現代社会のホワイトカラー族の象徴的な姿。
Commented by mchouette at 2009-01-30 11:09
続きます。
歯車として動く自分に、なんの疑問も疎外感も持たぬピエロ。
彼にあるのは「イエス」か「ノー」の二つだけ。
ヴィットリアは「イエス」と「ノー」の隙間からこぼれる部分の中で、自らを見失っている。物質的な充足感の中で、「愛」という感覚が自分の中で薄らいでいく。
現代人の典型の両極ともいえるピエロとヴィットリアを出会わせ、そこから「愛」が生まれ得るのか……

>結ばれる前からの断絶、空疎な現代社会での「ディスコミュニケーション」という俗語がピタリと当てはまるショット
関わりを持とうとするほどに、二人の間の空気はそぐわない空疎感が漂う。
はしゃぐヴィットリアの姿には痛々しささえ感じる。
Commented by mchouette at 2009-01-30 11:10
さらに続く。
60年~70年代。戦後から急速な経済成長を遂げていく社会の中で、貴族になりかわって台頭してきたブルジョワジーの享楽的な豊かさに、社会の歪が顕著に浮かび上がってくる。
乾いたタッチで、現代社会という時代の内面、まさに「時代の情景」を描きあげたアントニオーニの際立った映像表現に改めて唸りましたねぇ。

追伸:
トムさんの、ドロンに対するシナリオ(だよねぇ…笑)
再度、楽しく読ませていただきました。
Commented by Tom5k at 2009-01-31 18:13
>シュエットさん、こんばんは。
>ピエロ
まさに現代人の空隙を体現してますよね。空っぽなんですよ。
石原郁子氏もおっしゃっているように、ラスト・シークエンスにわずかながらの展望が表現されているようには思いました。
>「初めての人間性の芽生え・・・孤独の確認・・・」
なのだと思います(このシークエンンスでのドロンの演技、本当に素晴らしいと感じています)。
>そこから「愛」が生まれ得るのか……
どうなんでしょうか?
わたしは、ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』のレノックスとエレナの愛の再生の結末に、現代人の未来を見たいと思っています。ゴダールの幻想なのでしょうかね?いやそんなことはない。わたしは、信じます。
>トムさんの、ドロンに対するシナリオ(だよねぇ…笑)再度、楽しく読ませていただきました。
ありがとうございます。この記事、わたしがドロン・ファンであることが、とてもわかりやすいでしょ(笑)。
では、また。
Commented by mchouette at 2009-02-03 17:22
トムさんへ
>わたしは、ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』のレノックスとエレナ
の愛の再生の結末に、現代人の未来を見たいと思っています。ゴダールの幻想なのでしょうかね?
本当のところゴダールはどう思っているんだろう。
映画そのものは語れても、ゴダールは?ってなると、どうもよく分からない。
「愛の世紀」では、そこに登場する監督は孤高の人。かつて出あった女性とは決定的にすれ違う。
Commented by mchouette at 2009-02-03 17:22
>彼が『パリの灯は遠く』や『若者のすべて』や『太陽はひとりぼっち』で見せた何かを再び見たいという欲望でもあったんだ
インタビューでゴダールが言ってる「再び見たい」欲望。
愛と呼びうる関係の構築。
それは、再びパートナーともいえる女性と出会った当時のゴダールにあったことは確かでしょうね。
そして「愛の奇跡」「アワー・ミュージック」
ゴダールは本心はどう考えてるんだろうって思いながら彼を探ってるけど、見えないなぁ。
極論は彼がどうこうより、それを見た私なんですけどね…
まだうまく答らしきものが掴めないけど、『ヌーヴェルヴァーグ』以降、ずっとつきまとっているテーマでもあります。
またどこかで「フォーエヴァー・モーツァルト」「アワー・ミュージック」を書いてみようとも思ってます。
とりとめもない長話してしまいました。
Commented by Tom5k at 2009-02-04 01:10
シュエットさん、こちらにもありがとう。
ゴダールって映画の可能性を常に追求している人だから、わかりにくくなっちゃうんでしょうね。
>ゴダールが言ってる「再び見たい」欲望。
このゴダールのドロンに関わっての言は、本当にわたしにとっては驚愕です。
そこまでゴダールが、ドロンを意識していたことが、初めてわかったんですも、ヴァルダもそこから二人の関係に言及していると思うんですけれど、それで確信に至り、やっぱり驚いてしまいます。
>「愛の奇跡」「アワー・ミュージック」
ゴダール信奉者で、このあたりまで突き詰めていっている人って少ないと思うんで、シュエットさんに期待してしまいます。
きっと、何か見えてくるものがあるんじゃあないでしょうか?
では、また。