人気ブログランキング | 話題のタグを見る

映画作品から喚起されたこと そして 想い起こされること

by Tom5k

『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカへの野心① ~【改訂】

 アラン・ドロンの初期の主演作品で出世作でもある『お嬢さん、お手やわらかに!』(1958年)や主演級第3作目の『学生たちの道』(1959年)は、明らかにアイドル映画のジャンルにある作品でした。ですから、この段階では、いわゆる「アラン・ドロン」キャラクターは、ほとんど確立されていませんでした。そして、監督を務めたのは両作品とも、このジャンルを得意としていたミッシェル・ボワロン監督です。
 アラン・ドロンは、その後、ルネ・クレマンやルキノ・ヴィスコンティなど、名巨匠たちの作品に主演した後、ミッシェル・ボワロン監督の三作品目、『素晴らしき恋人たち 第4話「アニュス」』(1961年)に主演します。ロジェ・ヴァデム監督に見出され脚光を浴びていたブリジット・バルドーと共演した若い恋人同士の悲恋のコスチューム・プレイでしたが、やはり前二作品と同様のアイドル系ジャンルの作品でした。

 ロミー・シュナイダーとの婚約にまで発展することになった『恋ひとすじに』(1958年)は、戦前のドイツで映画芸術の先端であった「ドイツ表現主義」の体系にあったマックス・オフュルス監督、マグダ・シュナイデル主演のオリジナル作品『恋愛三昧』のリメイクです。
 この作品の製作国は西ドイツであり、アラン・ドロンが国際的スターになるきっかけにはなりましたが、どちらかと言えば、マグダ・シュナイデルの愛娘、『プリンセス・シシー』シリーズで人気絶頂期にあったロミー・シュナイダーが主演であり、戦前のオリジナルのような芸術大作とは異なる彼女に焦点を当てたアイドル映画でした。

エリザベート ~ロミー・シュナイダーのプリンセス・シシー~ HDリマスター版 [DVD]

Happinet(SB)(D)





 ようやく、アラン・ドロンがその持ち前の陰影の濃い犯罪者としての人物像を初めて演じた作品は、『太陽がいっぱい』(1959年)ですが、この作品を監督したルネ・クレマンへの当時の評価には、新たに台頭していた「ヌーヴェル・ヴァーグ」諸派の旧世代の伝統的作風への批判が当然のことながら存在し、それに加えて、やはりアラン・ドロンを主演にした『生きる歓び』(1961年)も含め、演出家としての力の限界を指摘された批評も存在していました。

【「クレマンが『太陽がいっぱい』で見せてくれたのは、地中海のすばらしい陽の光と、エレガントな色彩撮影と、見当ちがいのディテールと、ショッキングなラスト・シーンだった。」
 ロイ・アームズが、『海の壁』の後に作られた『太陽がいっぱい』(59)について、こんな批評をしている。
 『太陽がいっぱい』、その後の『生きる歓び』(61)とともに、押しよせる“ヌーヴェル・ヴァーグ”に対抗してクレマンが作ったスタイリッシュな作品であった。二本とも、“ヌーヴェル・ヴァーグ”の作品から出てきたアンリ・ドカエに撮影をまかせたのだが、ドカエのカメラは、若い世代の心理をうつしとり得ず、ドラマの構造だけを美しく捉え得たにとどまった。クレマンは、現代の若い世代の心理を活写できるような作家ではなかったのである。彼は、巧みなストーリー・テラーとして、その後の作家活動を続けるようになった。】
【映画評論 1974年3月号(「ルネ・クレマン研究 クレマンの作品系譜をたどる」高沢瑛一)】

 更に、当時のイタリア社会に現れた社会問題をリアリズム描写で創出し続けた「ネオ・リアリズモ」の作品群も第二次世界大戦後から1950年代の隆盛から変遷をたどりながら、その全盛期を終焉させていきます。そこから様々な試行錯誤が行われていくのですが、その傾向はアラン・ドロンの国際的スターとしての出発点であったイタリア映画の『若者のすべて』(1960年)、『太陽はひとりぼっち』(1961年)、『山猫』(1962年)に顕著に現われています。

 そして、ミケランジェロ・アントニオーニについて、アラン・ドロンは次のように後述しています。

>アラン・ドロン
 ブリエの現場は本当に素晴らしかったね。ロージー以来、私はブリエのような人を待っていたんだ。他の監督たちに侮蔑的に聞こえて欲しくはないけどね。でも私にはヴィスコンティ、クレマンがいて、アントニオーニは偶然だがね・・・
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18「回想するアラン・ドロン:その6」(インタヴュー和訳)」

 ミケランジェロ・アントニオーニは、それまでの映画制作での決まりごとを全て否定し、反ドラマ(反ストーリー)の構成により映画のテーマを提示する斬新な手法を取っていた映画作家でした。彼は自らの作品を「内的ネオ・リアリズモ」と定義づけ、映画史的にも「ネオ・リアリズモ」以降の流れを組む映画作家として体系づけられています。
 しかし残念なことに、彼との出会いを「偶然」としているアラン・ドロンのこのような発言には、当時の自身のキャリアを「内的ネオ・リアリズモ」に投入していこうとしていた意欲は感じられません。

 また、ルキノ・ヴィスコンティにおいては、彼自身の「ネオ・リアリズモ」作品の集大成として、アラン・ドロンを主演にした『若者のすべて』(1960年)を演出しました。この作品は1960年度ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞を受賞しましたが、イタリア国内の南北地域格差へのあまりにリアルな描写に、撮影中から公開後まで当局とのトラブルが絶えなかったそうです。特に、主人公ナディアへの暴行や刺殺のシークエンスは、公序良俗に反するといった理由から音声のみのシークエンスとして公開するようイタリア政府からの検閲を受けました。ちなみに、日本で公開されたときの上映時間も大幅に短縮された1時間58分でした。
 そして、第16回カンヌ国際映画祭グランプリ(パルム・ドール)を受賞した『山猫』も、彼のそのキャリアの新時代として、貴族社会の崩壊をリアリズムによって描いた新しい試みであったにも関わらず、その世界配給は20世紀フォックスによる40分に及ぶ短縮版を基軸としてしまいました。
 このようなことから、ルキノ・ヴィスコンティ監督による二本のアラン・ドロン主演作品は、公開当時には、その真価を世評に正確に反映させることが難しかったと考えられます。

 これらの事情を鑑みれば、アラン・ドロンが、その後のイタリア映画界で活躍していくためのモチベーションを高めることは難しかったと察することができます。

 次に、自国フランス映画での「アラン・ドロン」はどうだったでしょうか?
 彼は、ルネ・クレマン監督の演出作品の外に、1962年に戦前のフランス映画の黄金時代を体系付けていた「詩(心理)的レアリスム」の代表格だったジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒第6話「汝、父母をうやまうべし、汝、偽証するなかれ」』への出演を果たします。
 しかし、ジュリアン・デュヴィヴィエは、1950年代中盤から、フランソワ・トリュフォーを初めとした映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」によって、徹底的に批判されていった映画作家でもありました。

 1950年代終盤からの自国フランス映画界は、ロジェ・ヴァデム、ルイ・マル、ジャック・リヴェット、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン・リュック・ゴダール、エリック・ロメール、アラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、ジャック・ドゥミなどの「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちが席巻する時代を迎えていたのです。

>アラン・ドロン
(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa※」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(略-) 
※cinéma de papaとは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーが付けた古いフランス映画への侮蔑的な呼称のこと。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 1960年代の初め、若手の映画人気俳優として大反響を惹起していった新世代の国際スター「アラン・ドロン」には、このような状況もあったわけです。自国フランスのみならず、西ドイツやイタリアでの作品に主演し、国際的に人気の絶頂を迎えていたとは言え、アラン・ドロンに焦燥があったことは否めません。
 そして、そんな先行きの不安を想定し得る状況にあって、彼がようやく巡り会うことができた作品が、アンリ・ヴェルヌイユ監督の『地下室のメロディー』(1962年)だったのです。共演者は言わずもがな、「フレンチ・フィルム・ノワール」の大御所、ジャン・ギャバンです。

【 戦前から戦後を通して、フランス映画界でのナンバー・ワンはいつもジャン・ギャバンであった。今もである。水草稼業にもにて、人気のうつりかわりの激しい俳優世界で、これは稀有のことだといわなくちゃなるまい。もっともフランス人の性へきの中には、大変保守的なもの-伝統を愛するというか、古いものをなつかしむといった傾向があるからかもしれないが、大げさにいえばシネマがトーキーになってからはまずはジャン・ギャバンというのが、彼らの固定観念になってしまった。フランス映画の危機が叫ばれる昨今においても、ナンバー・ワンはギャバンである。ナンバー・ワンというより、別格なのである。(略-)】

【(-略)人間だれしも、お世辞にはよわいとみえて、いつも無愛想なギャバンが、いたれりつくせりのドロンの奉仕ぶりに、うん、仲々いいところのある青年だといったとか。ドロンのほしかったのは、正に、ギャバンのこのお墨附きだったのである。(略-)】
【スクリーン1963年11月号「ギャバン対ドロン」秦早穂子】

 『地下室のメロディー』が公開された1963年当時の日本の映画雑誌には、このようなジャン・ギャバンに対するアラン・ドロン評が掲載されていました。ファンとしては、あまり愉快な内容とは思いませんが、残念ながら的を得た評価であったかもしれません。

 ところで、ジャン・ギャバンが、どんなに別格の存在だったとしても、彼が映画俳優として若い頃から一貫して、それを維持し続けることができていたわけではありません。『現金に手を出すな』(1953年)により、戦後に第二全盛期を迎えるジャン・ギャバンに至るまでには、かなり長期間に渉ってのスランプの期間もあったのです。

現金に手を出すな Blu-ray IVC





 これは、1941年にナチス・ドイツのフランス占領時によって彼が渡米した頃から始まったものだったと考えられますが、それを克服するまでには10年もの年数を要しました。これには、様々な要因があったと思いますが、私は主に次のことが大きかったと考えています。

◯ 40代という彼の年齢とそれまでの「ジャン・ギャバン」キャラクターとの間のギャップが大きくなってしまったこと。
 脱走兵や前科者が官憲に追い詰められ、最期に非業の死を迎える悲劇のヒーローとしてのスタイルによった行きずりの美しいロマンスは、40代の彼には既にそぐわないものになっていました。
 この傾向は、戦前からの名コンビ、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督との『逃亡者』(1943年)、当時の新進気鋭のルネ・クレマン監督との『鉄格子の彼方』(1948年)などの作品において顕著になっていました。

◯ 戦時下におけるアメリカへの亡命時代、ハリウッドでの映画制作の手法が彼のキャリアとは合わなかったこと。
 『夜霧の港』(1942年)への出演ではアーチ・メイヨ監督とのトラブルが絶えず、当時、同様にアメリカに亡命していたドイツの名匠フリッツ・ラングが最後に演出に関わり、ようやく完成させた作品だったそうです。

◯ まだ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の批判にさらされる前時代ではあったものの、戦前から彼の作品を最も多く演出していた「詩(心理)的リアリスム」世代のジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネには、全盛期と比較して既にその演出力に衰えが現れていたこと。
 『地の果てを行く』(1935年)、『望郷』(1936年)や『霧の波止場』(1938年)に愛着のあるファンにとって、亡命時代の『逃亡者』や帰仏後の『港のマリー』(1949年)は、ジャン・ギャバンと往年の巨匠とのコンビネーションに時代の節目を感じてしまう作品になってしまったのではないでしょうか。

◯ ジャン・ギャバンの盟友のひとりであり、フランス映画界においては、別格の映画作家であったジャン・ルノワールはアメリカで市民権を得たことによりハリウッドから帰仏しなかったこと、その後も、インドやイタリアで映画を制作していたこと。
 ようやく彼らが久しぶりに組んだ『フレンチ・カンカン』でしたが、ジャン・ルノワールのフランス映画界への復帰は『現金に手を出すな』の翌年1954年、戦後9年も経っていました。

フレンチ・カンカン [DVD]

パラマウント





 ジャン・ギャバンが、この代表作品にたどり着くまでには、このように多くの困難な時代が存在していましたが、彼が突然長い不調期を脱して、唐突に『現金に手を出すな』に巡り会ったとは信じられません。
 私はスランプの時代を単なる不調期と考えることは短絡だと思いますし、むしろそういった時期だからこそ、次のステップへと飛躍するため、映画スターとして熟成していく過程で、その素晴らしい端緒が現れているはずだと考えてしまいます。「ダイヤモンドの原石」のような作品がどこかに埋もれているはずだと・・・。

 その意味で、私が強く関心を喚起される作品は、レーモン・ラミ監督の『面の皮をはげ』(1947年)とジョルジュ・ラコンブ監督の『Leur dernière nuit(彼らの最後の夜)』(1953年)なのです。どちらも非常に地味な作品ではあるのですが、私には、この二作品に代表作品『現金に手を出すな』以降の全盛期の諸要素の多くが凝縮されているように感じられるのです。

by Tom5k | 2019-10-27 13:51 | 地下室のメロディー(5) | Trackback | Comments(0)
名前
URL
削除用パスワード