『泥棒を消せ』②~アメリカ映画での「ギャング映画」を優先した「アラン・ドロン」②~
2016年 12月 31日アラン・ドロンは、この作品の大きなテーマである移民の生活苦、家族の崩壊などと同様のテーマで、後期「ネオ・レアリズモ」のイタリア映画界の巨匠ルキノ・ヴィスコンティの演出による『若者のすべて』(1960年)に主演した経験がありました。
彼は、この作品で、故郷を奪われたイタリア南部の農民一家が、都市生活に疲弊しきってしまう無産階級の若い労働者、移民一家の三男ロッコ・パロンディを一世一代の名演技で演じ、映画史的な高い評価を残しています。
「この映画以後ドロンは一躍、国際的なスターとなって、劇場側が歓迎するぺてん師やギャング役を演じる映画に次々と出演した。したがってロッコを演ずる彼を見ていない人には、ヴィスコンティの厳しい指導に耐えて彼がこの役で演じ切った、ほとんど輝くばかりの愚直さと、悲哀と、しんの強さを想像するのはむずかしいかもしれない。」
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】
ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯 (1982年)
平凡社
『泥棒を消せ』のエディやその兄ウォルターの設定は、「劇場側が歓迎するぺてん師やギャング」だったかもしれませんが、生活苦から犯罪に手を染めざるを得なくなり、その結果、家族関係が崩壊していく過程を描いた社会派の作品でもあったのです。
また、彼は「フレンチ・フィルム・ノワール」作品である『Quand la Femme s'en Mele』(1957年)で銀幕デビューを果たし、既に敵の凶弾に倒れる若いボディガードを演じており、初めてのプロデュース作品『さすらいの狼』(1964年)は、旧時代の「詩(心理)的レアリスム」のノワール傾向の作品系譜を継ぎ、フランス映画史的テーマである「死の美学」を彼が初めて完成させた作品であったと私は考えています。【<『さすらいの狼』~「フレンチ・フィルム・ノワール」の「アラン・ドロン」の原型~>】
『泥棒を消せ』のアラン・ドロンも、このクライマックスで、誤解した警察官が発砲した銃弾に倒れる、家族から離反した孤独な主人公の死を演じました。
そして、なにより、「フレンチ・フィルム・ノワール」の大スター、ジャン・ギャバンと共演した『地下室のメロディー』(1962年)のカラーバージョンは、アメリカで公開された際のものだそうで、この作品はアメリカ映画界からは一定の評価を受けることに成功しました。なお、その作品テーマは、『泥棒を消せ』のプロットと同様の、カジノの現金強奪を扱った「押し込み強盗」のエンターテインメントだったのです。
アラン・ドロンは、『Quand la Femme s'en Mele』や『さすらいの狼』での「死の美学」、『若者のすべて』での移民の生活苦や家族の崩壊のテーマ、アメリカでも評価された『地下室のメロディー』での現金強盗の設定など、その経験値から、『泥棒を消せ』のオファーには自信を持って出演を受けたことは間違いないでしょうし、ある意味では、現在までヨーロッパで出演した同傾向の作品の集大成になり得るとの判断からの出演だったかもしれません。
そして、恐らく、アラン・ドロンのキャリアにとっても、それまでのルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジュリアン・デュヴィヴィエ、クリスチャン・ジャックなど、ヨーロッパ映画作品での巨匠たちの演技指導、同世代のアイドル・スター女優たち(ロミー・シュナイダー、ミレーヌ・ドモンジョ、パスカル・プティ、ジャクリーヌ・ササール、フランソワーズ・アルヌール、ブリジット・バルドー、モニカ・ヴィッティ、クラウディア・カルディナーレ、ジェーン・フォンダ)や往年の大スター(ダニエル・ダリュー、ジャン・ギャバン)との共演・・・その次のステップアップに果たすべく非常に重要な企画だったと思います。
何故なら、『泥棒を消せ』を演出する監督は、アメリカ社会の映画への反映が顕著であったことも手伝っていたとはいえ、黒人俳優のシドニー・ポワチエがアカデミー主演男優賞を受賞した『野のユリ』(1963年)、そして、『泥棒を消せ』より後の作品ですが、アメリカの西部劇の転換点を作った『ソルジャー・ブルー』(1970年)を生み出していく、当時、気鋭のラルフ・ネルソンだったからです。
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また、共演者のアン・マーグレットは、『バイ・バイ・バーディー』(1963年)や当時の恋人だったエルヴィス・プレスリーと共演したミュージカル『ラスベガス万才』(1964年)などで、当時のティーンエイジャーから支持され、歌手としても人気を博していました。
1962年にマリリン・モンローが謎の死を遂げたばかりのハリウッドにおいて、次の世代のセックス・シンボルとして期待することができる女優としてラクウェル・ウェルチが注目されることになるのは、1966年の『ミクロの決死圏』からです。この当時はアン・マーグレットくらいしかその大役を期待できる女優はいなかったでしょうから、彼女は、今までヨーロッパでアラン・ドロンと共演したどの女優にも引けを取ることはなかったと思います。
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そして、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が、『サムライ』のモデルのひとつとしたグレアム・グリーン原作の『This gun for hire』(1941年)で非情な殺し屋を演じた「B級フィルム・ノワール」のスター、アラン・ラッドと『シェーン』(1953年)で共演したヴァン・へフリン、ジャック・パランスも『泥棒を消せ』の共演者でした。
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アラン・ドロンが、自らの次の本舞台とするための「・・・アメリカ合衆国で一連のもっと重要な企画・・・」、つまり、今後のスタートアップのための作品の一本とした『泥棒を消せ』への出演は、当時の自分の状況や国際市場としてのアメリカ映画の現状などから考えて十分過ぎるほど魅力的なものだったのでしょう。
更に、この企画は、大女優の大器を備えたロミー・シュナイダーとの婚約解消、ヴィスコンティ一家としてのスター俳優としての業績からの遁走までも代償し、自国で席巻している「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品を凌駕することをも可能であると、彼は考えたのではないでしょうか!?
アラン・ドロンがナタリーとの電撃的な結婚を果たし、妊娠中の彼女ーを同行させ、映画の国際市場アメリカ合衆国という大海原に出帆していった状況やその背景をこのように考えれば、ジャン・ピエール・メルヴィル監督からのオファーのあったピエール・ルスー原作の『フルハウス(ラッキー・ジョー)』に興味を示すことができなかったことは無理の無いことだったかもしれません。
そして、アメリカ映画界でのアラン・ドロンのこの行動については、成功、失敗の結果よりも、この生き方そのものこそが重要だったのだと私は考えます。
また、彼は世界中の映画ファンから、どのようなスターになることを期待されていたのか?・・・敗戦国家から朝鮮特需景気を経た神武景気、岩戸景気による所得倍増計画から、東京オリンピック景気を経験し、戦後復興を成功させていた極東の国、日本での爆発的なアラン・ドロンの人気・・・その高度成長の後半期、1970年代初頭のいざなぎ景気を経て、ニクソン・ショックから、第四次中東戦争をきっかけにした第一次オイルショックを経験し、高度経済成長時代の終焉を迎え、日本列島改造論の景気拡張も、現役首相の金脈問題による辞任で大揺れとなっていた頃、北海道に在る人口30万人あまりの地方都市での一家庭で、次のような会話があったことを忘れてはなりません。
実はこれ、今回初めて公開するものを含むのですが、アラン・ドロンの国際スターとしての枯渇に関わる在り方についての貴重な会話ですから、恥を偲んで公開することにしましょう!
>トム(Tom5k)
「アラン・ドロンが出ている『外人部隊』なんて映画ないぞ!」
>父親
「ん~?まあ・・・だけど、そんな感じの映画、アラン・ドロンらしいべ。あっはっはっはっ!」
【<『名誉と栄光のためでなく』~幻想映画館『外人部隊』~>】より
そして、この会話は、その後も引き続き、次のとおり、粘り強く行われていたのです。
>トム(Tom5k)
何だよ、それっ、何か観た映画無いのかあ?
>父親
いや!ある。ホントだ。
この記事を読まれている方に言っておきますけれど、もうこの時点で、この後のブログ記事、あんまり真剣に読まないほうがいいと思います。手の平を返すのが早くて申し訳ありません。
当時、愚かな私はこのような質問を、このような父親に何故、何度もしてしまったのでしょうか?
当然のことながら、昭和50年(1970年代半ば)頃には、インターネットなどはありませんし、雑誌やレコードの解説、各種の映画に関連した著作本、テレビでの映画紹介などが情報源でした。
アラン・ドロンと同世代の父親が何か彼の作品をリアル・タイムで観ているのではないかと思っていましたし、雑誌や本などの情報とは異なるその映画公開のときのリアルな感覚を少しでも父親から引き出したかったのだと思います。
>父親
確か・・・ジャン・ギャバンとのコンビものだ。『ギャ~ァ~ング!』・・・。
>トム(Tom5k)
はっ、なに?「ギャング」???
>父親
なんか、そんなやつだ。あいつの映画、似たようなヤクザものばっかりだから。確か母さんと一緒に行ったな。
母さん、途中で寝ちゃってよ。あれ?『スリ』だっけなあ?
いやっ!あれは観に行った!『やまねこ』・・・フランソワーズ・アルヌールがきれいだったなあ。
『ギャング』(1966年)は、ジャン・ピエール・メルヴィル監督、『スリ』(1959年)は、ロベール・ブレッソン監督の作品で、どちらにもアラン・ドロンは出演していません。『友よ静かに死ね』の原題も『Le Gang』ですが、この時点では、ロジェ・ボルニッシュの原作本はフランスでもまだ出版されていません。
そして、フランソワーズ・アルヌールが出演しているのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(1960年)ではなく、アンリ・ドコアン監督の『女猫』(1958年)です。もちろん、アラン・ドロンは出演していません。
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自分で記事を掲載して無責任かもしれませんが、既に説明することがもう面倒くさくなってきています。
私は1964年3月生まれです。この時代は、母親が子供をどこかに預けてまで旦那と映画を観に行くような呑気な時代でもなかったと思いますから、1967年日本公開の『ギャング』は行ってはいないと思いますし、この地方都市では公開されていたかどうかも疑わしい・・・たぶん、ジャン・ギャバンの名前が出ているので、1963年8月日本公開の『地下室のメロディー』を観に行ったのだと思います。それも本当かどうかはわかりませんが・・・。
後日、母親に聞いたところ、『道』(1957年日本公開)、『刑事』(1960年日本公開)は、父親と行ったそうですが、『地下室のメロディー』は観ているが、テレビで観たのか、映画館で観たのかは、憶えていないとのことでした。
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>母親
『刑事』だけどね。いつの間にかね。後ろ側からカバン盗ってね、あんた!それから新聞紙、脇にはさめてさ、その人ね、全然、盗まれたことに気がつかないの。いやあ、すごかったわあ・・・だけど、アラン・ドロン出てたかい?
(おふくろ、それね『スリ』だよ。ドロン?出てねぇし・・・。)
(※『スリ』は1960年日本公開)
>母親
歌も流行ったんだよ。「アモーレ、アモーレ、アモ~レミ~オ~」
(いやあ、歌わなくていいから・・・まあ、その歌、確かに『スリ』でなくて、『刑事』の『死ぬほど愛して』だわ・・・。)
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なんか、だんだん、どうでもよくなってきたんですが・・・
ようするに、父親の言っていた『ギャング』というアラン・ドロンの作品は、
ジャン・ギャバンと共演した 『地下室のメロディー』 や 『シシリアン』
失敗作であったかもしれませんが、彼のその後のキャリアにおいて重要な作品となったアメリカ映画 『泥棒を消せ』
フランス映画の復帰後の人気を「フレンチ・フィルム・ノワール」作品によって確実にできた 『さらば友よ』
アデル・プロダクション設立初めての作品 『ジェフ』
ライバル、ジャン・ポール・ベルモンドとの互角の共演作品 『ボルサリーノ』
ジャン・ピエール・メルヴィル監督の「フレンチ・フィルム・ノワール」代表作品 『仁義』
これらの作品を一本にまとめた「アラン・ドロン」主演作品だったのだと思います。あながち間違ってもいないアラン・ドロンの幻の作品 『ギャング』・・・
このギャングのイメージで、アラン・ドロンが映画大国アメリカに渡って果敢にチャレンジして撮った『泥棒を消せ』が、ジャン・ギャバンと共演した『地下室のメロディー』とともに、彼のその後の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の原型のひとつとなったことは間違いの無いことだと思います。
>ギャング役は好き?
>アラン・ドロン
ぼくが一ばん好きなのがギャング役ではない 観客が一ばん好きなのがギャング役なのだと思う(略-)」
【アラン・ドロン 孤独と背徳のバラード 芳賀書店(1972年)】