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映画作品から喚起されたこと そして 想い起こされること

by Tom5k

『Quand la Femme s'en Mele』~デビュー作品は「フレンチ・フィルム・ノワール」②~

【<『Quand la Femme s'en Mele』~デビュー作品は「フレンチ・フィルム・ノワール」①~>から続く】

 その後、メーヌとジョーがフェリックスとコレットを駅に出迎えに行くシークエンスになりますが、コレットを演じたソフィー・ドーミエは、たいへん愛らしく、一般的には「フィルム・ノワール」の作品には登場しないキャラクターだと思います。この時代の「フレンチ・フィルム・ノワール」の作風への試行錯誤の結果が、アラン・ドロンと彼女の起用だったのではないでしょうか?

 ゴドーとメーヌは二人の間を邪魔するメーヌの以前の愛人ボビーを手下のジョーに殺させます。
 ジョーはコレットをパーラーに同伴し、店の裏手を廻ってボビーたち二人に拳銃を発砲し暗殺します。銃声が鳴り響いた後、彼はコレットが待つパーラーのテーブルに戻るのですが、コレットは彼の背広の袖が破れていることに気づきます。彼女はそのショックからホテルで寝込んでしまいました。

 このシークエンスでは、撃たれて殺害される人物を直接描写せずに「暗殺」を表現しているのですが、結果的に鑑賞者が実際のマフィアの抗争の殺害現場にいるような効果を与えることに成功しています。
 つまり、銃声と背広の袖のショットのみで、ジョーが二人を殺害したことが表現されており、基本的にパーラーに残っているコレットの視点を基軸に描写しているわけですから、映画を観る側は、田舎からパリに上京してきた純朴な彼女の心象への大きなショックに感情移入することになるのです。しかも、二枚目の若くて礼儀正しい好青年が実行したこの行動は、コレットにも観客にも信じられないことなのです。

 警察が到着する前に、パーラーを出たジョーは、ゴドーの運転するオープン・カーに乗り込みますが、彼は車後部のトランクパネルに飛び乗って助手席に滑り込み、彼らの逃走車は前方から現場に向かうパトカーとすれ違いながら遁走します。ここでのアクション・ショットも非常に印象深いシーンでした。

 フェリックスは再婚相手だったデパート「タイユリー」の売り子ジャニーヌを、3年前に火災が原因で亡くしていました。「タイユリー」の所有者であるクデールが多額の保険金を手にしていたことから、この事故は計画的な保険金殺人ではないかと疑っており、このことをメーヌに相談します。フェリックスは、メーヌにゴドーとの間に入ってもらい妻を殺した男クデールへの報復を依頼します。
 一方、ボビーの殺害事件の後、ピエール・モンディ演ずるヴェルディエ刑事が、メーヌやゴドーのナイトクラブを訪れますが、ゴドー一家が犯した犯行だと特定できるはずもありません。
 
 ゴドーのライバルの組織から身内の死体が運ばれます。死体を運んでくるのは冒頭でカードをしているときに口論になったうちの二人です。恐らく、ファースト・シークエンスの口論の相手はボビーの所属していた組織のメンバーだったのでしょう。この時点でマフィア組織間での抗争の火蓋が切って落とされたわけです。

 このあと、ジョーとコレットがオープン・カーで出かけるシークエンスがありますが、ここで彼は、自分が堅気の生活をしたいことを彼女に打ち明けているようです。このシークエンスは「フレンチ・フィルム・ノワール」というより、アイドルの純愛映画のような雰囲気が醸成されており、アラン・ドロンとソフィー・ドーミエの出演により、硬直した古い映画の類型化を払拭して、映画作品としての躍動感を生み出すことに成功しているように感じました。

【>初期の作品を再見すると、あなたには品があったという印象を受けますね・・・
>アラン・ドロン
品は説明できるものじゃない。気付いてもらうものだ。私はある日偶然選ばれて、カメラの前に立たされたんだ。今でも覚えている。ヴィクトル・ユゴー通りで、お菓子屋から出て来てエドヴィージュ・フィエールにまた会うためにソフィー・ドミエと一緒に車に乗るんだ。お菓子の包みを持って外に出る時、こう説明してもらった:「カメラを見ないで、誰もいないようなつもりでね-私はすぐに理解した、毎日自分がやってることじゃないか!」最初から緊張はしなかったね。】
【引用 takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事  2007/6/4 「回想するアラン・ドロン:その2」(インタヴュー和訳)」カイエ・ドュ・シネマ501号掲載

 ゴドーとフェリックスは保険金を支払ったエージェントのキュンストを訪れ、事件の真相について彼に詰め寄ります。
 用件が済んだのか、二人が邸を出るときに突然銃声が響きわたり、驚いたゴドーが邸に戻るとキュンストがピストル自殺をしていたのでした。ゴドーはその現場で彼の遺書を見つけ、それを持ち出すことに成功します。ゴドーとフェリックスは、映画館でメーヌ、コレットと落ち合い、そこで、ゴドーはメーヌに一部始終を告げまました。

 次に、ゴドーはクデールを訪れ、キュンストの遺書をネタにして5千万フランの出資を求めます。ここでクデールの秘書としてブリューノ・クレメールが演ずるベルナールが登場します。ベルナールはジョーと知り合いだったので、ゴドーが帰った後にすぐに彼に連絡を取り呼び寄せます。クデール邸を訪れたジョーは大金と引き換えにゴドーの部屋から遺書を盗むよう二人に依頼されます。

 アラン・ドロンより少し年上のブリューノ・クレメールも、同じくこの作品がデビュー作品ですが、彼が演じたベルナールのキャラクターは、「フィルム・ノワール」におけるピカレスクな魅力を最大限に体現していたと思います。素晴らしい!

 コレットはゴドーのクラブでジョーと落ち合い、そこで彼から堅気になるためにクデールに寝返る決心をしたことを告げられ、ゴドーの部屋に入って遺書を盗み出すことを頼まれます。ジョーと愛を確かめあったコレットは彼に協力しますが、それをメーヌに見抜かれて計画は失敗してしまいます。そして、メーヌは娘の切ない気持ちも察してしまうのでした。
 ゴドーもメーヌも、それぞれジョーを問いただし、結局ジョーは二人に真相を話すことになります。

 若いアラン・ドロンが、ボスのジャン・セルヴェに何度も殴られるのですが、ここもやはり印象深いシークエンスです。殴られて鼻血を拭きながら、自分の言い分を必死に話しているアラン・ドロンを見ていると、情けない失敗をした我が子を見ている親のような気持ちになり、切なくなってきます。

 クデールの手先二人が、ゴドーのキャバレーに張り込みをしていますが、ゴドーは自分の手下のジャン・ルフェーブル演ずるフレッドとともに彼らを脅しクデール邸に向かいます。張り込んでいた二人は、冒頭のカードのシークエンスやゴドーの部下の死体を送りつけたシーンに登場していた抗争相手の組織の一味です。クデール一家とこのマフィアの一味は同じ組織なのでしょうか?字幕スーパーのない映像から、ここの人物設定の関係性はわかりにくいです。

 このシーンでは、都会の夜、パリの街のネオン・サインを実に美しく映し出しています。「フィルム・ノワール」の原点ともいえる典型的な夜の都会の情景描写であり、それは魅惑的な犯罪都市を喚起するショットでした。

 ジョー、メーヌ、フェリックスも彼らを後から追います。
 ゴドーは手先の一人を銃で脅し公衆電話ボックスからクデールに電話を掛けさせます。ここで、その電話に対応するのは秘書のベルナールです。

 ゴドーは二人をフレッドに任せてクデール邸に向かい、先に到着したジョー、メーヌ、フェリックスは、クデールと対面します。メーヌは遺書を彼の目の前で破り捨て、フェリックスはクデールに銃を向け言い争いになりますが、彼は躊躇ってしまい銃を撃てず、しびれを切らしたメーヌがクデールを撃ち殺します。

 何故、メーヌが、怒って遺書を破り捨てたのでしょうか?遺書の内容に憤りをぶつけているのかもしれません。このような激情的な行動を取りながらも、冷静さを失わず緊張の局面にも決して動じないメーヌを演じるエドウィジュ・フィエールは、まさにそのとき「極道の妻」と化しています。そして、大女優の証がこのラスト・シークエンスに凝縮しているのです。母として、ギャングの愛人として、そして元夫への愛情・・・こんな複雑な設定の中、彼女は「超ファム・ファタル」に変貌し、ガリマール社のセリ・ノワール叢書のジャン・アミラのセリ・ノワール小説の原題通リ、ゴドーを待つことなしに(Sans attendre Godot)、クデールを銃で何発も撃ちフェリックスの怨恨を晴らすのです。
 自ら銃でカタを付けた彼女の行動は凄いです。本当に、このシークエンスは恐ろしいほどの迫力でした。

 三人が邸を出ようとしたそのとき、ジョーはベルナールの凶弾に倒れますが、ようやく後から駆けつけたゴドーによって、ベルナールも殺されます。残ったゴドー、メーヌ、フェリックスは、クデール邸を放火しジョーの死体を運び出します。

 ジョーは、先に邸の外に出ようとするメーヌを制し、ベランダに出て外の様子を伺いメーヌとフェリックスを案内しようとしますが、そのとき、後ろから敵の銃弾に撃たれ、邸の石段の手すりに寄り掛かりながら転げ落ちて地ベタに倒れ込んでしまいます。

 アラン・ドロンのファンとしては、いささかショッキングなシーンでした。
 彼は人気の全盛期に、「死の美学」をキーワードとして、多くの作品の結末で主人公の死を演じましたが、既にこのデビュー作品で敵の凶弾に倒れる犯罪組織の若者を演じていたのです。この設定が驚くべきことであることはもちろんなのですが、ここでのアラン・ドロンは、人気全盛期のキーワードであった「死の美学」を提示したというよりも、無念な若者の死としての同情の感情を観る側に抱かせてしまうように思います。
 キャラクターが完成する前の初々しいアラン・ドロンだったのです。せっかくコレットとの未来に希望を見出していた若いジョーだったのに・・・哀しい最期でした。

 事件が終わり、フェリックスは娘コレットと共にグルノーブル行きの列車に乗り込み、ゴドーとメーヌは彼らを見送ります。呆然としているコレット、その娘の様子を悲しげに、そして心配そうに見送るメーヌ。

 そして、二人を見送った後、ゴドーとメーヌをピエール・モンディ演ずる刑事が駅構内で待ち構えているシーンで映画は終了します。

 現在、残念ながら更新されていないようですが、Astayさんのホームページ用ブログ【Cinema of Monsieur Delon】を参考にさせていただきました。おかげで字幕がなくてもストーリーの概略を理解することができました。本当にありがとうございます。


 ストーリーも映像も出演者も決して悪くない作品で、ジャン・セルヴェ、ジャン・ルフェーブル、ピエール・モンディ、ブリューノ・クレメールなど、役柄からも非常にハードな演技表現に徹していますから、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品への登場人物としては、申し分のない俳優の配置、演技で成功している作品だと思います。決して駄作だとは思いません。

 特に、ゴドーを演じたジャン・セルヴェには、ハリウッド作品でレイモンド・チャンドラー原作のフィリップ・マーロウやダシール・ハメット原作のサム・スペードなど、ハードボイルド小説の主人公を演じさせたら素晴らしい作品になるように思いました。


長いお別れ

レイモンド・チャンドラー 清水 俊二早川書房



マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ダシール ハメット / 早川書房







 また、エドウィジュ・フィエールやベルナール・ブリエのような往年の名優たちを配置したことも特筆すべきことだと思いますし、その対極において、アラン・ドロン、ブリューノ・クレメールやソフィー・ドーミエなど、個性的な若手スターが発掘されているのです。
 イブ・アレグレが不振に陥っていったと飯島正の評価があったとしても、この作品を観ていると、「フレンチ・フィルム・ノワール」は、旧時代に見守られながら、新しい時代に向かうための助走を初めたような気がしてきます。

 特に、アラン・ドロンにおいては、後年、家族のためにマフィア組織を脱退して堅気になろうとしたために愛する妻と息子を殺され、自らも敵の凶弾に倒れる悲劇的なプロットで『ビッグ・ガン』(1973年)を製作、主演しましたが、このデビュー作品『Quand la Femme s'en Mele』の出演から16年後においても同様のプロットによって、より徹底した「死の美学」を貫徹していたのです。

 そして、『ビッグ・ガン』の主人公トニー・アルゼンタは、この『Quand la Femme s'en Mele』のジョーが殺されずに、恋人コレットと結ばれ家族を持ったその未来の姿だったように私は見えてしまっていたのです。

by Tom5k | 2016-12-23 12:09 | Quand la Femme s'en | Trackback | Comments(0)
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