『アラン・ドロンについて』⑫~音楽の使い方が好きな作品 その1 クラシック音楽編~
2012年 05月 04日また、アメリカのウォルト・ディズニーの『ファンタジア』(1940年)では、フィッシンガーを模倣して、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「トッカータとフーガ、ニ短調」を第1曲とし、第3曲でも「魔法使いの弟子」を使用していることが挙げられています。
図形や色彩の抽象的な映像の視覚効果を音楽に照応させた試行錯誤の成功例が、ウォルト・ディズニーへの影響により、この作品の成功に繋がったと推論しているのです。
動画配信サイト「YOU TUBE」の検索項目『ファンタジア』
岩崎昶氏は、ウォルト・ディズニーが映画『ファンタジア』で、大衆性と技術的手段によって、バッハやデュカスのほか、イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキーの「春の祭典」、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの「田園交響楽」、アミルカレ・ポンキエッリの「時の踊り」をアニメーション動画の手法に取り入れ、モデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキーの「禿山の一夜」と「アヴェ・マリア」で、シュールレアリズム技巧による映像表現で成功したと結論しています。
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『ファンタジア』については、こちらに素晴らしい記事があります。
用心棒さんのブログ「良い映画を褒める会。」ブログ記事『ファンタジア』(1940)アニメと音楽で、哲学を語るウォルト・ディズニーの凄み。
関連記事として、
オカピーさんのブログ「プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]」ブログ記事 映画評「魔法使いの弟子」
また、日本でも最近、クラシック音楽をテーマとした二ノ宮知子による漫画作品『のだめカンタービレ』を原作としたテレビドラマ、アニメーション、実写映画の作品が好評を得ました。音大生の青年達を主人公とした青春ドラマでしたが、コンサートホールでの楽団やピアノの演奏、その練習風景などをふんだんに取り入れた素晴らしい音楽映画となっています。
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「のだめカンタービレ 最終楽章」については、素晴らしい記事がこちらにあります。
オカピーさんのブログ「プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]」ブログ記事 映画評「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」
オカピーさんのブログ「プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]」ブログ記事 映画評「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」
そして、大好きな今井正監督『ここに泉あり』(1955年)、これは群馬交響楽団の草創期を描いた作品だそうです。
わたしは、全く人気の無い巡業先の公演で、そこに来ていた女学生が、岸恵子演ずるヒロインの佐川かの子に花束を差し出してファンだと告げるシーンが忘れられません。
音響設備もない山の中の学校やハンセン氏病患者の慰問公演・・・真の音楽家は、貧困と闘いながら、このようにして聴衆との対話を確認するものなのだと感動しました。芸術・文化の本質は、民衆の生活の中に根ざし、人々を勇気づけてていくものなのでしょう。
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さて、アラン・ドロンの出演している作品での、音楽の使い方についてなのですが、やはり素晴らしいと思う作品は非常に多く、その映像と音楽の照応効果によるインパクトが強烈であることを主に、クラシック音楽を使用した作品でわたしが特に好きな作品を列挙してみます。
まず、『恋ひとすじに』(1958年)です。
この映画作品のオリジナルとしてのサウンド・トラック盤がアナログのシングル・レコードとして現存しており、これは今でも大切に保管しています。
しかし、わたしがこの作品で最も強く印象深いのが、残念ながら歌っているのはロミー・シュナイダーではなく、吹き替えだと思うのですが、彼女がこの作品で演じているクリスティーヌが歌うフランツ・シューベルトの「アヴェ・マリア」なのです。
原曲は、イギリス詩人のウォルター・スコットの叙事詩『湖上の美人』で処女エレンが父の罪が許されるよう聖母マリアに祈る詩にシューベルトが曲を作ったものです。
わたしにはクリスティーヌの歌う様子が、このエレンと同様に、アラン・ドロン演ずる恋人フランツの罪、その許しを切実に願っているであろうことを想起させる素晴らしいシークエンスであったと思います。
「YOU TUBE」に、わたしの大好きな、エリザヴェート・シュワルツコップ、そして、マリア・カラスが歌う「アヴェ・マリア」がありました。
この映画作品は戦前のドイツでも、マックス・オフェルス監督により、ロミーの母であるマグダ・シュナイデル主演で映画化された作品でした。
その『恋愛三昧』(1933年)で、クリスティーヌが選んだ歌曲は、「アヴェ・マリア」ではなく、ヨハネス・ブラームスのドイツ民謡『Schwesterlein』でした。ですから、「アヴェ・マリア」は、この作品でのオリジナル選曲です。
さて、映画のクライマックスで使用されている「交響曲第5番「運命」第一楽章」ですが、「YOU TUBE」には、ヴィルヘルム・フルトベングラーとアルトゥーロ・トスカニーニの指揮する名演奏がありました。
フルトベングラー指揮の「交響曲第5番「運命」第一楽章」
トスカニーニ指揮の「交響曲第5番「運命」第一楽章」
戦前の日本では、この第5番シンフォニー「運命」が、クラシックの王道であったわけですが、アナログSP時代のファンは、全く異なるこの二人の演奏に関して、激しく嗜好の分かれるものであったと聞きます。
この演奏を現在聴いても、全くもって凄まじい演奏として解釈できます。
その後のヘルベルト・フォン・カラヤンやクラウディオ・アバド、サイモン・ラトルなどが「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」の首席の指揮者となってきた沿革史を鑑みたとき、何という世界文化の体たらくなのだろうかという忸怩(じくじ)たる思いは、多くの人々が持つ本音でしょう。
果たして、彼らは旧時代を超えられているのでしょうか?
『シネ響「マエストロ6」サイモン・ラトル』
「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」については、こちらに素晴らしい記事があります。
シュエットさんのブログ「寄り道カフェ」ブログ記事「帝国オーケストラ」そして「ベルリン・フィル~最高のハーモニーを求めて」
オカピーさんのブログ「プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]」ブログ記事 映画評「ベルリン・フィルと子供たち」
映画では、両作品とも全く同じシークエンスで使用されており、フランツの不倫の恋愛関係にあったレナ夫人の夫との始める前から勝負の結果がわかっている決闘、すなわちフランツの死のシークエンスを友人達やクリスティーヌの父親の焦燥する様子、そして、この楽曲のみで表現しているのです。
クライマックスのベートーヴェン「交響曲第5番「運命」第一楽章」(『恋愛三昧』(1933年)のラスト・シークエンス)
このベートーヴェンの使い方は本当に素晴らしいと思います。
フランツの死とクリスティーヌの絶望を、このような映像と音楽の照応で表現することなど、もう現在の映画作品では、不可能なのではないでしょうか?
次に、『山猫』』(1962年)です。
わたしは、ジュゼッペ・ヴェルディの「「椿姫」の第2幕第12曲:あたしたちははるばると訪れた」で使用されていた「ジプシーの女たち」が大好きです。
【(-略)サリ-ナ家の馬車が見えてくると、市の楽団がヴェルディの「椿姫」から、「われらはジプシー女」を奏でる。これは公爵一家を迎える際の由緒ある挨拶となっている。(略-)】
【「ルキノ・ヴィスコンティ ある貴族の生涯-19 時代の足音をきく生理 老公爵の後ろ姿と《山猫》の世界-」モニカ・スターリング著、上村達夫訳】
ルキ-ノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯
モニカ・スタ-リング / 平凡社
映画『山猫』では、ドン・ファブリツィオ一行が、ドンナフガータ村での夏の別荘に到着したときの公爵一行の歓迎場面で使用されています。一行を歓迎する地元の楽団が「われらジプシー女」を演奏して迎えるシークエンスでの使用でした。
『山猫』でのそれとは、直接関係はありませんが、「YOU TUBE」には、なんと!スカラ座の音楽監督を務め、マリア・カラスとともに、ルキノ・ヴィスコンティとも親交の厚かったトスカニーニが1946年ニューヨークで、NBC交響楽団の指導で楽団を指導しているリハーサル時の録音の録音がありました。
映像が無いのは残念ですが、このような音源が公開されていることは驚くに値します。
【(-略)トスカニーニはヴィスコンティに、今やっている「ラ・ヴェスターレ」のリハーサルを見に行ってもいいかと尋ねた。ヴィスコンティは光栄に思った。そしてトスカニーニが彼の演出を褒め、さらにカラスのことを「美しい声の持ち主で、興味深いアーティストで、たいへん結構」だと思うと述べたのを、うれしく聞いた。その後、トスカニーニが本公演に姿を見せて、舞台わきの特別席に座っていたとき、舞台上のカラスは膝をかがめて客席におじぎをしていたのを中断して、ファンの投げた赤いカーネーションを拾い上げ、それを最も深いおじぎとともにトスカニーニへ差し出した。(略-)】
【「ルキノ・ヴィスコンティ ある貴族の生涯-11 スカラ座への愛 トスカニーニとカラスを識るうれしさ-」モニカ・スターリング著、上村達夫訳】
その他にも、どこの国のどこの楽団なのかは、全くわからないのですが、このような素晴らしい映像がありました。
ヴェルディの「「椿姫」の第2幕第12曲:あたしたちははるばると訪れた」「ジプシーの女たち」①
ヴェルディの「「椿姫」の第2幕第12曲:あたしたちははるばると訪れた」「ジプシーの女たち」②
そして、映画音楽至上の大傑作、『パリの灯は遠く』』(1977年)での、グスタフ・マーラーの「亡き児をしのぶ歌」の使用です。
「YOU TUBE」にはウィーンフィルハーモニー管弦楽団でのアルト歌手のキャスリーン・フェリアー、そして、フィッシャー・ディースカウの素晴らしいの独唱があります。
しかし、わたしは、この人類の至宝ともいえる名唱を凌賀していると思うのが、映画『パリの灯は遠く』で使用されたフランツ・サリエリのラ・グランド・ユジェーヌ劇団での「亡き児をしのぶ歌」なのです。
【-ユダヤ人排斥のキャバレーの着想はどこから得たのでしょうか?
JL
当時ああいうものが実在していて、しかも撮影に使った当の劇場でやっていた。(-略-)私のとても親しい友人であり敬服もしていたフランツ・サリエリは、ラ・グランド・ユジェーヌという劇団で仕事をしており、私は彼らにこの反ユダヤ人の出し物をやってもらえないだろうかと考えた。(-略-)サリエリは、マーラーの歌曲を歌うその異様さや、ユダヤ人を嘲弄するそのやり口の醜悪さといったものは、よもや最悪の反ユダヤ人の輩でもまともに受け取ることのない代物だった。私としてはあのシークエンスは映画の中でも一番出来のよいところの一つだと思う。(略-)】
【引用 『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年】
追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー
ミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢日本テレビ放送網
監督したジョセフ・ロージー自身も、このように述懐しているように、このシークエンスは、音楽・舞台・絵画・思想などが複合的に映像に照応した映画音楽史上の最大レベルの歴史的価値の実現を醸成していると、わたしは感じます。
しかしながら、実際のところ、各国際映画祭等での、例えば授与基準の策定においても、未だこのシークエンスの映像価値を正確に評価するレベルまでに達していない、と考えざるを得ません。
わたしは、この作品のこのシークエンスが、未来においては間違いなく、メディア文化の歴史遺産としての価値を十二分に備えていると評価される時代が来ると信じていますが、残念ながら現時点での各国文化行政、各種映画祭においては、ここに着目している沿革はほとんど見あたりません。
そもそも、現在の映像、メディア文化の振興などの取組みにおいては、コンテンツ産業や商工観光の振興、国際交流の推進などの施策としての価値観を重視しており、映像価値そのものに視点を置くことがなおざりになっている時代であるような気がするのです。
映像が商業的な目的のみで進化し、先端のCGや3D技術に特化された映画産業界の取組のみでしかない現状を危惧してしまいます。
最後に、『危険なささやき』』(1981年)の「The Dancing Bumble Bee」です。
実をいうと、わたし自身は、ニール・ダイヤモンドの「The Dancing Bumble Bee」ではなく、原曲であるロシアの作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフの「Flight of the Bumblebee(熊蜂の飛行)」が最も好きです。
元来のこの原曲は、アレクサンドル・プーシキンの原作の歌劇『サルタン皇帝』の第3幕で、主人公の王子が魔法によって蜂の姿で、悪役の姉妹に復讐する場面で使われる曲だそうです。
『危険なささやき』では、ニール・ダイヤモンドの「The Dancing Bumble Bee」を、冒頭のタイトル・バックのファースト・シークエンスで使用しています。アラン・ドロンが演ずる主人公の私立探偵シュカスが射撃の訓練所から自社の探偵事務所に帰社する際の大型バイクでのパリ市内の疾走シーンへの照応で表現しているのです。
ここは、実に躍動感に溢れる展開であり、物語のスピード感やアクション、シュカス探偵のエネルギッシュな活躍ぶりを、この冒頭から期待させる効果を挙げていると思います。
「YOU TUBE」にはニール・ダイヤモンドの1979年のサンフランシスコでのライブがアップされていました。
また、セルゲイ・ラフマニノフがピアノ曲に、あるいはヴァイオリン曲などにアレンジしたものが有名です。
ロシアのバイオリニストであるアナスタシア・チェボタリョーワの演奏です。
また、わたしの気に入っているマリンバとピアノの演奏による「Flight of the Bumblebee」です。
日本で一般に有名になったものとしては、フレディ・マーチン楽団が発表した「バンブルブギー(Bumble Boogie)」(映像はウォルト・ディズニー)でしょう。最も有名なアレンジかもしれません。
映画作品で使用されている音楽に着目していくと、映像におけるそのショット、シーン、シークエンスにおいて、音楽との照応によるリズムがいかに重要であるのかを感じます。
フランスの映画評論家エミール・ヴェイエルモーズは、音楽の批評も多く著していますが、「影像の音楽」という「光のハーモニゼーションとオーケストレーション」と定義した映画音楽論を展開させました。
彼は、音響と影像の間の芸術上の緊密な関係があり、それぞれの技術が極めて類似しており、それぞれは理論の要請、また同一の生理的反応との上に立っているところからの視神経と聴神経との同一の振動機能によった関係について論述しています。
また、「前衛(アヴァンギャルド)映画」の女流監督のジェルメーヌ・デュラックも「映画芸術」第二集「美学、きずな、純粋映画」という著書で「音楽家が音楽的章句のリズムと音調とを作り出すように、映画人は影像のリズムとその音調とを作ることを仕事とする。」と論説しているそうです。
【『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年】
映画は、サイレント映画の時代から音楽を持つことを必要としていたのでしょうし、トーキー映画以後に確実にそれを持つことになった映像進化には、人類の文化・芸術上の最大の貢献があり、今後においてもその可能性を維持・発展させていく位置づけにおいて、体系化されるべき分野であるのでしょう。
音楽のカテゴリーのある素敵なブログをご紹介します。
武田さんの「終日暖気」です。
武田さんの「終日暖気」では、『のだめカンタービレ』、『のだめカンタービレ 最終楽章 前編』もアップされています。
1940年にアニメーションを使い、映像と音楽を融合させた、壮大な実験作が、この『ファンタジア』です。アニメといえば、どうしても子供向きと捉えられがちではありますが、ここで描かれる映像が表すものは、ウォルト・ディズニーのアニメへの強い愛情と哲学です。... more
リュミエル兄弟の『シネマトグラフ』、ジョルジュ・メリエスの『月世界探検』、エドウィン・ポーターの『大列車強盗』以降、労働や家事で疲れきった庶民が一時の夢を見るため、そして明日また働くための活力とするためのささやかな娯楽の王様として、旅一座などの演劇を一気に抜き去り、新たに君臨し始めたのが映画でした。... more
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最近の上映作品で胸ときめくような映画に出会えず、そんなトーンダウンも響いているんでしょう。 どうもブログに向う気が沸いてこないこの頃だけれど、そんな時、ベルリン・フィルを描いた2本のドキュメンタリー映画で彼らの素晴らしい曲を聴くとやはり感動で胸が満たされる。 それ以上に楽団員一人一人、そして彼らからでてくる音というエネルギーを手繰り音楽という大きなうねりをつくり上げていく指揮者、そんな舞台での彼らの姿にも感動する。 映画からこんな感動をもらうと、その日はすこぶる気持が良い。 ベルリン・フィ...... more
リヒターらアヴァンギャルドからディズニーへの流れ、フルトベングラーの音楽までを一気に語られていて、非常に読み応えがあります。のだめにかんしてはぼくはアニメ版が好きで、第一シーズンから最終シーズンまで全部見ました。
フルトベングラーが戦前に指揮した『ワルキューレ』を数十年前にLPで聴きましたが、鬼気迫る迫力と異様な緊張感があり、80年代後半に発売されたカール・ベーム指揮のモノと比べると、まったく別物でした。
クラシックが苦手の方がクラシックにのめり込むにはダイジェスト版でも良いので、違う指揮者や違う時代の同じ作品を聞き比べて欲しいと思っています。そのほうが理解できるかもしれません。
ファンタジアは映画をもっと理解したいなあという映画ファンが映画マニアになるきっかけを与えてくれる作品だと思いますので、ぜひ見て欲しいですね。
ではまた!
ではまた!
音楽と映画のテーマは、一記事だけではまとめきれるはずがないのですが、無理やりかいつまんだ内容でアップしてしまいました。
さすがオカピーさんの記事も音楽に関する話題が多く、あらためて驚いているところです。
>フルトベングラーが戦前に指揮した『ワルキューレ』
わあ、きっと凄いでしょうね。わたしは、彼の「第9」を超える指揮者は、もう永遠に現れないような気がします。
ベームは、若いころのモーツアルトは素敵な演奏も多いですよ。わたしは、嫌いではないんですが、カラヤンとアバドは論外だと思います。彼らが好きでフルトベングラーは嫌い、というケースは多くあるでしょうが、優劣がはっきりし過ぎちゃって、語る気もおきませんよ。
それにしても、映画の原点を探っていくと、本当に奥が深いものですねえ。
>ファンタジア
時代や世代を超越する「超映画」ではないでしょうか?映画は、視覚や聴覚など人間の五感を総合的に刺激する文化でしょうから、カテゴリー・オンリーでくくりすぎることも良くないような気がしてきましたよ。
では、また。
さてさて、音楽を切り口にドロン作品を語る…ですね。クラッシックは詳しくないので、ただただ拝読だけなのですが、本当に映画ってさまざまな切り口で持ってアプローチできますよね。だから語っても語っても尽きない魅力がある。
映像と重なって音楽も脳裡に刻まれている。そんな映画っていくつもある。あの映画のあのシーン、あの時流れていたメロディを聞きたくって再鑑賞する映画もあります。
音楽の使い方って、日本の監督は、最近のは、さもありなん的な曲の使い方に興ざめしてしまうことも。
そうそうイギリスのキューブリックの音楽センスもたまらんです。私の好きな「バリー・リンドン」なる作品ではハイドンの「サラバンド」をもってくるセンスには、おおっ!って唸りました。音楽ディレクターも居るのだろうけれど、映画監督ってマルチな才能と卓越したセンスがなければつとまらないって、つくづく思う。
ブログのほう、またまたご無沙汰となりますが、今後ともよろしくおつき合いくださいね!
>しばらくブログは開店休業・・・
さびしいですが、無理をなさらずマイペースでいきましょうしょう。
ブログ記事などは書きたくなったら書けば良いんですよね。
>音楽を切り口にドロン作品を・・・
オリジナルの音楽も素敵な作品が多いのですが、原曲があるものを映像との照応で、どう活かすか・・・映画の原点であるようにも思います。
それは、映像に音楽が迎合することなしに、対位関係を保っていること、音楽のイメージを様々な映像で表現することなんかは、オリジナル音楽とは、また異なる魅力だと思います。
>「バリー・リンドン」
おおっ、懐かしいですね。モーツアルトやバッハも使用されていましたね。記事を改訂して「バリー・リンドン」も追記しようかな?(笑)
では、これからもよろしく。
ゆっくり休んで復帰されたら、またブログ意見を交換いたしましょう。