『危険がいっぱい』②~『続・禁じられた遊び』ポーレットのその後~

 ルネ・クレマン監督については、これまでも多くのブログ仲間たちと意見交換をしてきて、たいへん充実した記事を多くアップすることができたと思っています。特に、『寄り道カフェ』のシュエットさん、それから『新・豆酢館』の豆酢さんなど、インテリ女性映画ファンとの対話は、わたしにとって実に安心感を得ることができるものでした。

 戦前・戦中派世代としての彼の作品には、第二次世界大戦ヨーロッパ戦線において、ナチス・ドイツによるパリ占領、レジスタンス運動と連合軍によるその解放による歓喜までの経緯が映像としての優れたリアリズム表現として極められています。
 これは『鉄路の闘い』(1945年)、『海の牙』(1946年)、『パリは燃えているか』(1965年)など、フランスの「ネオ・リアリズモ」と呼称された典型的なレジスタンス映画の傑作群において特に顕著に表現されています。

鉄路の闘い

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海の牙

マルセル・ダリオ / アイ・ヴィー・シー



 しかしながら、そこに映画作家ルネ・クレマンの楽天主義が見て取れてしまうことも、わたしの正直な感想なのです。
 第二次世界大戦後のインドシナ戦線やアルジェリア問題を抱えたフランス国家としての国民の意識、特に良識派の左翼映画人にとって、ルネ・クレマン監督のメッセージは理解し難かったことでしょう。1966年から始まったストラスブール大学の学生運動から、パリのナンテール大学へと波及していった学生の大学民主化要求からベトナム戦争反対を唱えていったパリ5月革命への影響力からの視点で見れば、『パリは燃えているか』は、戦後の矛盾を抱えたフランス共和党やアメリカ合衆国への単なる迎合であると誤解されて受け取られても仕方がなかったかもしれません。

【私はいかなる党にも属していないし、いかなる政治家にもくみしない。だからといって私が政治的に無関心な人間だというわけではない。なぜなら、もし私が政治を無視していようと、どっちみち、政治のほうで我々を無視してはくれないのだから。(略-)
(ルネ・クレマン 談)】
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】
海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)
田山 力哉 / / ダヴィッド社





 彼は、『太陽がいっぱい』(1959年)よりも以前の作品で、初期のレジスタンス映画や反戦映画が、フランス国家・国民の誇りによって、フランス共和国を解放し、戦争の悲劇を払拭したこと、それがフランス国民の歓喜となっていったこと、すなわちフランス革命以降の第三共和政のファシズムに対する勝利であったとの見解を、フランス共産党までをも含めた統一戦線の魅力に反映させて映画を創作していたと、わたしは解釈しています。

 しかし、彼は第二次世界戦後の間もなくの頃、自国の共和の精神が現代におけるある種の矛盾、それまで歓喜していた戦後の平和が幻想であることにも気づいていったのではないかと、豆酢さんとのコメント交換によって仮説を立てたことがあります。
 そのことは、『太陽がいっぱい』で、アラン・ドロンという現代の社会矛盾そのものを体現しているような青年俳優に巡り会ったことからも、更に大きく膨れ上がっていったのではないかと推察してしまうのです。

 戦後の凶悪な犯罪事件、現実にこれだけ奇異な犯罪が増加してきたことの、どこにどんな原因があるのか?そんなことに作家主義「ヌーヴェル・ヴァーグ」と異なる視点、また彼らの出現以降の新時代を踏まえて、現代劇、特に「サスペンス」という系統に入りこんでいったのではなかろうかと、豆酢さんと考えたのです。
 これらの体系は、社会から疎外された人物たちに主役を務めさせる題材として、社会問題を最も比喩し易かったものではないでしょうか?そんなところも、ルネ・クレマンが映画作家として、「サスペンス」の分野に傾倒した一因のように思うのです。
 日本でも、社会派推理作家の松本清張の推理小説などには、当時の社会問題を背景にしている作品が多く、その映画化された霧プロダクション製作の『点と線』、『霧の旗』、『砂の器』、『疑惑』、『鬼畜』、『わるいやつら』などは、その典型的な特徴を持つものです。

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 ルネ・クレマン監督においては、それが『太陽がいっぱい』から始まり、『危険がいっぱい』(1964年)、『雨の訪問者』(1969年)、『パリは霧にぬれて』(1971年)、『狼は天使の匂い』(1972年)、『危険なめぐり逢い』(1975年)などと継続していったとも考えられるのです。

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 彼の創作活動にとって、自身の精神分析医としての前歴、そして戦後の挫折感、「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動の台頭、これらが彼の後年撮り続けていった「サスペンス」作品郡の大きな動機付けになっていたことは豆酢さんと一致した意見でした。かつ、アラン・ドロンとの出会い・・・アラン・ドロンにとってのルネ・クレマンとの出会いの世評における注目度、そのような一般論以上に、ルネ・クレマン自身にとって大きな出来事だったアラン・ドロンとの出会い・・・これも大きな要素だったとも考えられます。

 また、1960年代以降、彼の映画的な意味での変化として、登場人物への感情移入の描写、主観描写を多用していったのは、アラン・ドロンを出演させた作品からのようにも思います。観客の主観に任せ切る突き放した客観描写は元来から多用していなかったとはいえ、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン、フェイ・ダナウェイ、ジャン・ルイ・トランティニャンなどを使う作品では、いよいよ影を潜め、世評では商業主義に堕落したと言われる所以となっていったようにも感じます。
 これを透徹したリアリズム描写への衰え、芸術家の堕落として批判するのか、あるいは新しい時代への挑戦と捉えるのかは、意見の分かれるところであるかもしれません。

 彼がそのような矛盾と邂逅していくよりも以前の1951年の作品『禁じられた遊び』は、戦争で家族を亡くしてしまった幼い少女の悲劇を反戦思想に立脚した視点で描写し、その美しい映像表現やプロットから「映画詩」と評せられた傑出した歴史的反戦映画となりました。
 また、その素晴らしいメッセージは、映像、ストーリー、脚本、俳優の演技、音楽、カメラ・ワーク、美術、編集、すべての映画的要素において優れて表現されており、国際的にアカデミックな高評価を得ることになります。

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 しかしながら、映画評論家の淀川長治、わたしのブログ仲間のシュエットさんも評しているのですが、この作品は、反戦思想のみならず男女の恋愛をも描いたものであるという視点からの意見もあります。
 名子役のふたり、ブリジット・フォッセーが演じた主人公の少女ポーレットと、彼女が迷い込んだ農家の末息子、ジョルジュ・プージュリー演ずるミシェルとの間に芽生えた淡く幼い恋愛を描いていることに着目した批評なのです。
 シュエットさんにおいては、反戦映画であることは確かであると捉えながら、ふたりの子どもを通して戦争・反戦というものが浮かび上がるよりも、戦争の悲劇があったから、ふたりの幼い恋が浮かび上がってくるそうなのです。年齢的に性的な意識は無いにしても、ふたりにとっては、これが初恋、幼い恋の物語であると解釈されていて、彼らにとって戦争の悲劇はこの映画の後から始まることを余韻として感じ取られたとのことです。

 わたしとしては、この作品でのポ-レットの描かれ方なのですが、あどけない少女であると同時に、どうしても、いわゆる「女」が見え隠れしてしまうのも確かです。これは言葉・文章として「セクシュアル・ハラスメント」にならないように表現することが難しいのですが、わたしが感じ入るところは、あれだけミシェルを夢中にさせてしまうエネルギーをポーレットが持っていることの凄さなのです。
 女性でも男性でも人間は、マイナスの要因でメンタル的に縮小傾向にあるとき、異性を惹きつけるパワーを持つことは良くあることのように思います。ポーレットが両親を亡くし、ひとりきりになってしまったそのときに、ミシェルという優しい男の子に巡り合ってしまったこと、これは現実的な男女の恋愛でも珍しいことではありません。
 また、わたしは、主人公のミシェルが、ポーレットが望むがまま、神聖な教会の十字架を盗んでしまう行為に、いわゆる「男」としての弱さを感じます。幼いふたりの真に美しい友情を表現することのみで映画のプロットを組み立てるのであれば、彼が兄としての立場でポーレットを戒めるシーンや倫理的に彼が悩むシーンを撮ったとしても、反戦テーマから外れることはなかったように思います。

 このような美しい反戦詩としての映画作品において、わたしとしては大人の男女のセクシュアルな側面を当てはめることに自己嫌悪するところではあるのですが、こんな不謹慎な視点もわたしの正直な感想のひとつなのです。

 さて、そんなところから、わたしは『危険がいっぱい』で、ジェ-ン・フォンダが演じた主人公メリンダが浮かび上がってきます。何度この作品を見ても、わたしにはこのメリンダが『禁じられた遊び』のポーレットの成長した姿に見えてしまうのです。

 彼女は、教会が設置している救済院を訪問する偽の慈善活動家であるローラ・オルブライトが演ずるバーバラとともに生活し、行動を共にしています。
 そして、メリンダ(=ポーレット)が、アラン・ドロン演ずるマルクに、午後からのスケジュールで児童養護施設に訪問する予定を説明するシークエンスに、
「児童養護施設か おれたち二人にふさわしい」
とのマルクのセリフがあります。

 メリンダを演じたジェーン・フォンダは1937年生まれ、『禁じられた遊び』の背景となる時代は1940年です。彼らが育ったとする当時の児童養護施設の子どもたちのほとんどは戦災による孤児だったと推察できます。

 『禁じられた遊び』でのポーレットは、神様への信仰や祈り方を初恋の男の子であったミシェルから教えられ、死んでしまった愛犬ジョッグの埋葬から、両親の死を理解していきます。
 ポーレットにとって、迷い込んだ農家ドレ家は、父や母の死を実感しながらも大好きなミシェルの献身で、その空白感を癒していくことができそうな場所でした。
 しかし、ようやくその生活にも慣れ満足感を覚え始めたころに、戦災孤児を収容する児童養護施設に引きとられてしまうことになり、ママとミシェルのイリュージョンを追って赤十字の戦災難民収容施設の雑踏を駆け抜けていく幕切れで物語は終わるのです。

 幼稚園に入園するかしないかの幼い少女に最も必要な生活環境、その最低限の両親の愛情を喪失せざるを得ない状況の下で健全な成長を経ることなど、どのみち不可能なことです。このような心の空隙を背負った少女は、どのような成長過程を辿るでしょうか。

 両親の死というトラウマと満たされない心の空白とを背負って生きていかざるを得なかった彼女は、ようやく母の代わりとなる従姉の偽慈善活動家のバーバラと巡り合い、大好きだったミシェルに教えてもらった信仰の仕事に携わっていったのでしょうか。
 それは敬虔な宗教家のそれとは異なるものだったかもしれませんが、信仰も祈りもメリンダ(=ポーレット)の生活には、絶対的に不可欠なものとなっていたのでしょう。
 何故ならば、後に彼女に不足していたもの、どうしても充足できていなかったもの、それは幼いころに失った父や母と同等に大切に想ってきた大好きなミシェルであり、その彼との想い出が、神様への信仰や祈りであり、十字架というアイテムであったからなのです。

 そこに現れたのが、マルクです。
 彼は、純朴な農家の息子とは縁遠く、自分に対してはミシェルのようには優しくはありませんし、しかも暴力団に追われている「いかさまカード師」でしたが、利発な若者であり腕白でどこか愛嬌のある魅力的な青年です。
 メリンダとマルクが登場するシークエンスのみに注視すれば、わたしには『禁じられた遊び』のポーレットとミシェルの関係の逆の設定の焼き直しのようにも感じるのです。迷い込んだポーレットはマルクとなり、迷い子を受け入れて愛してしまうミシェルがメリンダとなっているわけです。『危険がいっぱい』が『禁じられた遊び』と異なるのは、時代の変遷に伴う人間の成長後の結末、それが映画作家ルネ・クレマン監督のメッセージの変化であると思うわけです。

 可哀想なポーレットは、愛犬ジョッグの死体の埋葬をミシェルから教えてもらい、モグラやねずみなどの動物の死体でたくさんのお墓を建てます。彼女は美しい十字架に魅せられて、それらの墓を十字架で飾り立てたいと願い、ミシェルは霊柩車や村の共同墓地の十字架を盗んでしまうのですが、その彼の行為のすべては彼女が父母の死の空白感を埋めようとする潜在意識を代弁したものであったのかもしれません。

 メリンダ(=ポーレット)のトラウマは、その喪失感とその空隙を埋めることが出来なかった挫折感にあったのでしょう。
 大好きだったミシェルとの別れ・・・。
 マルクがバーバラと愛し合ってしまったことを知ったときのメリンダ(=ポーレット)の涙は、幼いころにミシェルから引き離されて、ママを想い出し、泣きながら戦災難民の収容施設を駆け抜けたときの涙と同じものだったとわたしは解釈しています。
 
 そのように考えると、この「サスペンス」劇『危険がいっぱい』での小悪魔メリンダ(=ポーレット)の画策、最後には監禁・拘束までしてマルクに執着してしまったことも、少しは理解できるような気もしてきます。
 実のところ本当に恐ろしいことは、女性の執念や魔性の性質そのものではなく、女性を疎外してしまう社会状況にあると、わたしには思えてくるのです。

 現在のわたしにとって『危険がいっぱい』は、必ず『禁じられた遊び』と同時に観るように心がけており、主人公のポーレットとメリンダを同時に理解することが、これらの作品のテーマを理解するうえで最も有意義なことになってしまいました。戦争の悲惨と戦後復興における社会矛盾の闇は、決して断続しているものではありません。原因と結果でピタリと当てはまる継続された様式の変遷でしかないのです。


【(-略)人間は政治的な旗印によってではなく、その行為によってこそ政治的な判断が下されるのだ。そして私の行為とは私の映画だ。私の政治的立場は私の映画を見て判断して頂こう。それに今や映画をつくること自体が政治的行為ではないのかね。たとえば『禁じられた遊び』で私は子供たちの不幸の責任者である大人たちに告発している。こういうことが政治に参加することになるかどうか知らないが、少なくとも私が考えていることを表現することにはなるだろう。
(ルネ・クレマン 談)】
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年」】

海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)

田山 力哉 / ダヴィッド社





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by Tom5k | 2010-10-10 23:32 | 危険がいっぱい(2) | Trackback(3) | Comments(14)

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Tracked from 寄り道カフェ at 2010-10-12 11:23
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LE CRIME ET SES PLAISIRS LES FELINS 1964年/フランス/99分 「太陽がいっぱい」(1960)に続き、ルネ・クレマンがアラン・ドロンと組んだサスペンス。 Allcinemaの解説では「コミカルなタッチのサスペンス劇」とあるけれど、なかなかどうして、「太陽がいっぱい」のようなシリアスなタッチではなくて、どちらかといえば娯楽作品ともいえるけれど、観かたによったらホラー映画よりももっと怖い映画。 アラン・ドロン演じるマルクは、その美貌と手先の器用さ...... more
Commented by 用心棒 at 2010-10-11 20:15 x
 こんばんは!
 う~~む…。ますます高い所へ昇っていきながら、しかも深く広くなってきていますね。

 ドロンにあまり詳しくないぼくなんかが口出ししてもいいのかなあ?という感じがします(笑)

 彼のフィルモグラフィにおいてはこれや『太陽がいっぱい』がその後の方向性を暗示しているのでしょうが、有名な『太陽がいっぱい』よりもこの作品のほうが彼にもファンにもしっくりくるのは何故でしょうね。

 ぼくは実は『太陽がいっぱい』があまり好きではなく、ドロン主演作ではこれ以外の作品のほうがダークな雰囲気というか危険な感じが画面から滲んできているような気がします。まあ、あくまでも門外漢の戯言に過ぎません。

最近はなかなかゆっくりと見れないですし、この前の『地下室のメロディ』だけではなく、大好きなノワール系の作品である『キッスで殺せ!』『過去を逃れて』『アスファルト・ジャングル』なども購入しただけで、机に置きっぱなしになっています。

貧乏暇なしですが、何とか見たいなあと思っています。

ではまた!
Commented by mchouette at 2010-10-12 15:46
トムさん ご無沙汰してます。
またまたルネ・クレマンに戻りましたか。「若者のすべて」のドロンよりも「太陽がいっぱい」のドロンが、いまもなお映画ファンには強烈な印象を焼きつけている。ドロンとともにルネ・クレマンがトムさんにとって映画原点ともいえるんじゃないかな。
<両親の死や、爆撃の恐怖は時とともに薄れていき、後に残るのはミシェルと過ごした時間の、甘美ささえ感じさせる淡い思い出だろう。二人で過ごした時間の愛おしさ、引き裂かれた思いは、大きくなっても二人の胸に痛みとして残り続けるだろう。幸福で愛情に満ち溢れた一人の幼い少女の人生が、戦争によって一瞬にして彼女から全てを奪い去ってしまった。>「禁じられた遊び」でこんな風に成長していくポレットの空洞…少女の頃に味わった喪失感…がその後の彼女の精神に与える影響を思わずにはいられない。
「危険がいっぱい」もトムさんの指摘のようにポレットとメリンダがすんなり重なり、若い時に見たときとは違う視点での本作鑑賞は大いに刺激的でした。
Commented by mchouette at 2010-10-12 15:47
「人間は政治的な旗印によってではなく、その行為によってこそ政治的な判断が下されるのだ。」このクレマンの言葉には大いに肯ける。第二次大戦下で生死をかけて戦ってきた者から見ると、先進諸国で伝染病のように広がった反戦運動そして革命というあの運動は、あえて言うなら「革命ごっこ」と映ったのではないでしょうか。
>本当に恐ろしいことは、女性の執念や魔性の性質そのものではなく、女性を疎外してしまう社会状況にあると、わたしには思えてくるのです。
もっと突っ込むなら、女性に限らず疎外された弱者を社会の枠から排斥・抹殺しようとする社会。そこから人間のエゴ、本性が見えてくる。ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「マレーナ」はまさにそこまで斬りこんで描いている。
ただ、クレマンの本作「危険がいっぱい」から(私が)受け止められるのは、女性の夜叉のごとき執念といった本性。そのあたりがヌーヴェルヴァーグの批判の的にもなったんじゃないかな?そんな風にも思える。しかし、トリュフォーの作品をみていると作風はクレマンとかなり近いように思えるし、クレマンの才能に嫉妬したってそんな考えも頭を掠める。今回の記事も大いなる刺激で満足させていただきました!
Commented by オカピー at 2010-10-12 23:05 x
トムさん、こんばんは。

パワーを感じる記事ですねえ。
短いとは言え毎日書いているとパワーを失って、当方、最近は碌なものが書けていないんですよね。そのせいか元気の源である気持玉も激減して、根気だけは自信があった僕もへたばった感じがしています。もっと昔の映画を見ないとダメかな。

シュエットさんも記事を減らした効果なのか、充実したコメントを寄せられていますねえ。

トムさんの関連付けは或いはその通りなのかもしれないし、クレマンにそのつもりはなかったかもしれない。
しかし、重要なのは、そこまで関連付けたくなるほど映画に、クレマンに、ドロンに力があるということですね。総合芸術だけに、映画は奥深いです。

ところで、allcinema「さらば友よ」にコメントを寄せているTomさんはトムさんですか?(笑)
Commented by Tom5k at 2010-10-15 23:43
>用心棒さん、こんばんは。
まったく根拠のない好き放題の記事へのお付き合い、ありがとうございます。
>ドロンにあまり詳しくない・・・
どしどし口出してください。若いころに「太陽がいっぱい」と「さらば友よ」くらいしか観た事のない先輩から「彼は文芸映画の似合う俳優のような気がする」と聞いてから、ファン以外のドロン評に耳を研ぎ澄ますようになっています。
しかし用心棒さんが『太陽がいっぱい』を好まないとは・・・実にヌーヴェルヴァーグ的なご意見ですね。(笑)
確かにドロンに人気全盛期のキャラクターは、メルヴィルのノワール作品以降ですから、「太陽がいっぱい」は、案外(ほんとうに今気がつきましたが)彼の例外的な作品かもしれません。これは新発見だっ!
>大好きなノワール系の作品・・・
ノワールばかりでも、若干、視野狭窄になる恐れもありますから、観たいときに観たい作品を観るのが一番かと、ゆっくり楽しんでいきましょう。
わたしも新赴任地、ちんぷんかんぷんの難しい仕事をいきなり任せられて、この二週間、映画鑑賞どころじゃなかったですよ。(プライベートはこの記事のアップだけでした・・・)(泣)
では、また。
Commented by Tom5k at 2010-10-16 00:30
>シュエットさん、こんばんは。
そう、わたしにとっては、クレマンがドロンの原点、思い入れが強いんです。
何せ、わたし、若いころからレジスタンスに憧れてましたし(笑)。
ところで、ドロンも「?」のようでしたが中国でのヒット作は「若者のすべて」でなく、「復讐のビッグ・ガン」だったそうですよ。ロッコは現代には存在しないんですね。きっと。
シュエットさんがポレット=メリンダ説を受け入れてくれたんでほっとしています。でも、でもミシェルとマルクは違いますよね。リプリーとも違うんだなあ。クレマンは、そういう意味では人物のキャラクターに工夫を凝らしていますよね。ストーリーにおいては、若干、類型的との批判もあるが、それは浅い見方だと思うなあ・・・。
戦争体験も、そこにジェネレーションのギャップが確かに在りますよね。堕落というのは戦中派にはない(少ない)と思う。
Commented by Tom5k at 2010-10-16 00:31
(続き)
そして「革命」やら「労働運動」など(フランスの戦時においてはレジスタンス)、これは起こしたくなくても起こさなければ生きていけない究極の選択でしかなく、そこには全くの余分な余裕など無いはずですから・・・。
恋愛も学問も趣味も何もかも・・やってる余裕がないところまで追い詰められて必然となるんでしょうね。
>ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「マレーナ」
ジュゼッペ・トルナトーレはシュエットさんの記事でしか知らないのですが、何だか凄そうな監督さんですね。
わたしは弱者という立場で守られていて、それが当たり前であると感じてしまうしたたかな戦後日本に、いささかうんざりしてしまうところもあるんですが、現代においては「居酒屋」のジェルヴェーズでも「太陽がいっぱい」のマルジュでもだめなんだと思い、あっメリンダって魅力的だと感じる今日この頃なんだなあ・・・。
ところで、トリュフォーってクレマンを超えられたのでしょうか?ゴダールは、その後の彼はデュヴィヴィエまで行き着いていないと批判していたようですが・・・。久しぶりの休日、トリュフォー借りてこよう(笑)。
では、また。
Commented by Tom5k at 2010-10-16 01:23
>オカピーさん、こんばんは。
わたしのパワーを感じていただけましたか?(笑)
コメントは残していませんが、オカピーさんの最近の記事、映画評として益々、先鋭的であると思いますが・・・確かに良い作品と巡り合われてないかも・・・。8点は「古都」が直近の最後ですものね。
シュエットさんのコメントは重量級です。映画を映画以上のところで、とらえられているところが凄い・・・さすがゴダール信奉者(笑)。しかし、メッセージや主題を受身でとらえることのみでなく、自由に拡がっていく果てしない想像力・・・姐さん風に言えば「頭っこがいい」のでしょうね。
メリンダ=ポーレットは、何の根拠もないです。
しかし、同じクレマンの描いた同時代において、少なくても似た環境で生きた女性。戦後世代に共通するもの、その時代のある意味で典型的なタイプかも。確かにクレマン&ドロン、力ありますよね。
>総合芸術・・・
商業レベルでも・・・それは商業的であることが可能なだけでしょうし、映画館の動員数もそれは貴重な価値指標のひとつでしょうね。
>allcinemaのTomさん
これは、わたしではないのですが、映画の嗜好が似てますよね。(笑)
では、また。
Commented by 用心棒 at 2010-10-25 22:23 x
 こんばんは!
 本作とは関係ないのですが、スカパー系の衛星劇場というチャンネルがあるのですが、そこで来月についに『黒蜥蜴』が放映されるようです。

 もしスカパーが見られる環境があるか、周りにスカパーを契約している方がいらっしゃいましたら、ぜひご覧ください。土壇場になって中止される可能性もございますし、ぼくはビデオを所有してはおりますが、デジタル処理された綺麗な映像が欲しいので、来月はこのチャンネルを契約するつもりです。

 明日は休みを取りましたので、マン・レイ展に行ってきます(笑)

ではまた!
Commented by Tom5k at 2010-10-30 01:54
>用心棒さん、こちらにもコメントありがとうございます。
>『黒蜥蜴』
おおっ!
とうとう、身近で見る機会が得られそうですね。それにしても三輪明宏ほど、この黒蜥蜴がピタリとはまる役者もいませんよね。
江戸川乱歩の創作したキャラクターは、素晴らしいものばかりですので、もっと着目されても良いと以前から思っています。うまく映像化できる演出家は、なかなかいませんが、ノワールとして、素晴らしい題材になると思うんですがね。
>マン・レイ
表現主義がドイツなら、シュール・レアリスムはフランスでしょうね。シュール・レリストたちが、その後に与えた映像への影響力は思っている以上に多くの作品に反映されているように思います。その視点で、わたしとしては、やはり反ヌーヴェル・ヴァーグの立場に立脚して、クロード・オータン・ララに最も関心があります。決してブニュエルだけじゃない・・・オータン・ララがアヴァンギャルドをどう脱皮して、各種の文芸作品にはまりこんでいったのか???「新しい波」には理解できなかった側面で再評価すべき映画作家であると思っています。
では、また。
Commented by 用心棒 at 2010-11-07 00:29 x
 こんばんは!
岡本喜八作品を堪能されたようですね。色々考えさせてくれるシリアスな作品でもありますが、光と影の使い方や音響も含めてかなりの高レベルの映画だと思います。

岡本作品でしたら、エンタメ性が高いものなら、『独立愚連隊』『独立愚連隊、西へ』『殺人狂時代』が楽しいですし、シリアス物なら、同じ戦争を扱った映画なのですが、『激動の昭和史 沖縄決戦』などは深く考えさせられる内容ですし、見応えは十分ですよ。

なかなかレンタルDVDで見つけるのは難しいですが、ヤフオク等でたまにVHSが1000円くらいで出ているときもありますので、興味がおありでしたらどうぞ。

ではまた!
Commented by Tom5k at 2010-11-07 01:23
>用心棒さん、こんばんは。
本当に素晴らしいですね。このような上質の作品を映画館のスクリーンで観ること・・・。
わたしは高校生の頃に、ATGの「肉弾」を観ていますが、これも確かに鮮烈でした。30年前のTV放映で、その後再見もしていないのに未だに記憶が薄れていませんから、それだけでも岡本監督は凄い映画作家だと言えると思います。大谷直子は可憐でしたが、すでに大器の要素を備えていたように思います。
「殺人狂時代」は確か仲代達也主演ですよね?
「独立愚連隊」シリーズもレンタルしてみようと思います。

アラン・ドロンのB級サスペンス「ショック療法」の無修正ニューマスター版を購入し今日届きました。彼の素っ裸の走行シーンがグラフィックとしてどのように描かれているか興味津々ですよ(笑)。
では、また。
Commented by 用心棒 at 2010-11-12 10:12 x
 おはようございます!
>B級サスペンス
有名作品よりもメジャーでない作品のソフトを手に入れたときのほうが嬉しいですよね。

ぼくもヒッチコック作品を集め続けていて、あと三作品ですべて揃うのですがなかなかその3本が見つかりません。

>仲代
今月はスカパーの日本映画専門チャンネルで24時間仲代特集をやっていましたので、『火の鳥』とか見ていました。

>黒蜥蜴
デジタル修正されているようで、暗くて見えにくかった場面も鮮明になっていて、楽しかったですよ!ぜひ機会があればご覧ください。ではまた!
Commented by Tom5k at 2010-11-13 02:15
>用心棒さん、こんばんは。
「地獄の黙示録」の素晴らしい記事のアップ、読み応え十分ですね。わたしとしては、コメントを入れるには再見が必要だと考えています。本ブログでアップするとすれば、ドロンがアンソニー・クイン、モーリス・ロネ、クラウディナ・カルディナーレと共演した「名誉と栄光のためでなく」の記事としてになると以前から考えていましたが、これは一連のアンジェイ・ワイダの作品と同様に自分のなかにどれだけそれを消化できるものがあるか、自信がありませんよ。
>B級サスペンス
確かに・・・しかし、B級の傑作を創作すると、それはたちまちメジャーになり、本当に残念なことに悪しき例として、その後のコッポラのようになってしまう。
ドロンはその点ハリウッドで失敗しているせいか、後年も誠実にB級ノワールに出演し続け何年かに一度は映画史的傑作を生み出していました。そんな作品はファンとして、たまりません。
>仲代
ふと思ったんですが、彼の明智小五郎なんか観てみたいですね。「黄金仮面」で、ドロンのルパンと対決させてみたいなあ。
「黒蜥蜴」は、まずは三島の戯曲が未読なので、必ず読もうと考えているところです。
では、また。