『リスボン特急』②~芸術として難解な「フレンチ・フィルム・ノワール」~

 最近、フィルムアート社から発行されている古山敏幸氏の著作『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』を読んで強い刺激を受け、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品を再見してばかりいます。

映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル

古山敏幸 / フィルムアート社



 その著作の中で、最もわたしの関心を惹いた項目が、「第7章-アラン・ドロン三部作 『リスボン特急』」でした。
 『リスボン特急』には、以前から非常に大きな魅力を感じていました。
 これは、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の遺作でもあり、アラン・ドロンの主演作品としては、彼らの最後の作品です。この著作を読みながら、ファンにとって、こんな当たり前のことを、あらためて再認識することができて、ますます興味を惹かれるようになったのです。

 また、わたしにとっては、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』、ロベール・アンリコ監督の『冒険者たち』に続く、「女性一人と男性二人の主人公(アラン・ドロン・シリーズ)」第四作目としている作品なのです。しかも、シリーズ第一作がルネ・クレマン、第二作がルキノ・ヴィスコンティ、そして、この第四作目がジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品ですから、彼の映画俳優としての最大級の3人の師匠の作品ばかりであり、いわゆる彼の引退作品であるパトリス・ルコント監督の『ハーフ・ア・チャンス』で完結することになるものとして、アラン・ドロン主演作品史としての極めて重要な位置にある作品として解釈しています。
 また、「詩(心理)的レアリスム」の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の遺作『悪魔のようなあなた』と、初めてジャック・ドレー監督と巡り会った『太陽が知っている』、そして最愛のミレーユ・ダルクを主演にして撮った『愛人関係』を、このシリーズに入れるか否かは非常に悩むところではあります。

 それはさておき、この作品は、ほとんどの批評等で失敗作と評価されています。また、主役のエドワード・コールマン警部を演じたアラン・ドロンでさえ、後年、次のように述懐しています。

【>『サムライ』でメルヴィルは刑事モノと言うジャンルを浄化させたと思います。この作品は今活躍している多くの監督たちに影響を与えていますね、タランティーノやジョン・ウーとか。
>アラン・ドロン
>もう少し早くこうなってくれなかったのが残念だ!ウーはメルヴィルに影響を受けているのは間違いない。人はよく誰かにインスピレーションを受けているが、メルヴィルはそうではないことを忘れてしまっているね。彼は自分の世界、彼の映画の考え方、視点を確立していた。誰にでもお手本がいるんじゃないか。私の場合はジョン・ガーフィールドだ。(注:米国俳優1913-1952:代表作に『紳士協定』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』がある)不運にもメルヴィルは若くして亡くなった、まだ一緒に映画を撮るはずだったのに。『リスボン特急』は中途半端な失敗作になってしまったからね。メルヴィルはとても落胆していた。果てしない議論もしたが、監督は本当に頑固一徹でね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/1 「回想するアラン・ドロン:その5(インタヴュー和訳)」

 また、現在では、世界一といっても良いほどジャン・ピエール・メルヴィルの熱烈なファンであり、信奉者であるマサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」での『リスボン特急』のレビュー記事でも厳しい評価となっていますし、『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』でも、「贔屓目にみても傑作とは言い難い」旨の記載があります。
 ですから、これは一般論と言えるでしょう。

 しかしながら、作品が優れたものか否かは別として、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が、この作品を撮った直後に非常に興味深い発言をしています。

【少し前から・・・せいぜい数ヶ月位前からだったが、私は自分がついに芸術家になったことを感じている】

 彼は、何をもって芸術家の自覚に至ったのでしょうか?彼はこの発言の前段で、

【(-略)『リスボン特急』については、少し難解だというような批評もあった。だが、私は最近になって、映画というものは単なるスペクタクル芸術ではないということを発見したのだ。私は非常に長いこと映画はスペクタクルだと信じ込んでいたのだが、ここ数年の新しいアメリカ映画の諸作品を見て、自分が間違っていたことに気がついたのだ。(-中略-)映画は文学、音楽、絵画の三つを結合して、我々の文化に取って変わったのだ。映画は総合芸術だ。多数の芸術なのだ】
【引用 「キネマ旬報」1972年12月下旬号No.595】

とも発言しています。

 わたしは、これが文芸的題材で撮った初期の『海の沈黙』や『恐るべき子供たち』を完成させた時代の発言であれば、彼の映画作家としての自覚として、すんなりと納得はできるのですが、捜査プロットを全面に表出させた典型的な「フィルム・ノワール」作品として、スター俳優のアラン・ドロンとカトリーヌ・ドヌーブを主演させ、1940年代のハリウッドB級「フィルム・ノワール」に最も近づいたとも思える『リスボン特急』の完成時のものですので、たいへん不思議な印象を持ったのです。
 同じアラン・ドロンが主演している「フレンチ・フィルム・ノワール」ではあっても、『サムライ』や『仁義』の方が、その要素が内在している作品のように思います。

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 わたしは、『サムライ』で「サイレント映画」時代、『仁義』で1930年代の「ギャングスター映画」時代のアメリカ映画を再現したジャン・ピエール・メルヴィル監督は、この『リスボン特急』で1940年代の「フィルム・ノワール」を再現し、その実践を完成させたように感じています。
 更に、「『リスボン特急』については、少し難解だというような批評もあった。」という当時の批評も、この作品のテーマを解釈するうえで、やはり非常に不思議で興味深いものです。これは、映画芸術を脱皮してポリス・アクションの閾値に辿り着いた作品であるように感じる印象とは、あまりにも懸け離れている解釈のような気がするのです。
 どちらかと言えば、それは難解ではなく、分かり易い失敗作というのが現在での批評の一般論ではないでしょうか?

 しかし、それが、例え失敗した結果だったとしても、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の意図していた『リスボン特急』、そのエッセンスの理解に努めることは、あながち無駄なことではないと思っています。
 わたしは、彼が映画作家として『リスボン特急』を完成させた意味において、常に自分の過去の作品を超越しようと試みていた実践の帰結であったように思え、そのことを踏まえれば、そろそろ再評価の取組みが必要になってきている時期だとも考えます。

 そこで、わたしなりに、この作品のいくつかの印象深いショットを挙げてみると、

 まず、コールマン警部が殺害現場に向かう途中のパリの街のネオン・サイン、これは「フィルム・ノワール」の原点ともいえる夜の都会の描写であり、それは、クリスマスで賑わう表側の世界から見えない隠れた裏社会を想像させる魅惑的な犯罪都市の情景でした。

 そして、到着した事件の現場での殺害された売春婦の死体と、それを上から覗き込んで検死するコールマン警部のクロ-ズ・アップを交互にカット・バックするモンタージュ・ショット、ここは実に前衛的なフォトジェニーとして映像化されていました。

 また、法医学研究所の解剖室でのアンドレ・プッス演ずるシュミット(マルクの偽名)の検死体を視察するときのポール・クローシェ演ずるモランとコールマン警部の会話でのセリフ
「-人間が警官に対して感じざるを得ない感情が二つある。うさん臭さと嘲りだ。嘲り・・・」
の後、コールマン警部を演じたアラン・ドロンの精神不安定な外観の描写は、権力批判の客観描写にまで昇華させて、そのクローズ・アップを「シャドウ」で撮っています。
 ルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジョセフ・ロージーの演出であったなら、いや、過去のジャン・ピエール・メルヴィルであっても、間違いなくここで「鏡」に映ったアラン・ドロンを撮ったはずです。
 これは、俳優アラン・ドロンのアイデンティティの喪失を描写するには持って来いのショット、18番のカメラ・ワークであり、彼に対する最も効果的な基本描写ともいえます。
 『太陽がいっぱい』、『若者のすべて』、『フランス式十戒』、『パリの灯は遠く』・・・。
 しかし、ここでのジャン・ピエール・メルヴィル監督は、権力の権化である官憲の姿、その表情を「無」として表現したのです。
 わたしは、過去にアラン・ドロンを撮った巨匠たち、そして過去からの自らのカメラワークをも超越させた瞬間だったと考えています。

 警察の公用車の走行シーンも、クレーン撮影により高所から見下ろすショットが多くなっています。これは、権力機構の上部に位置しようとする警察権力を、作品を観る立場に立って、更に上部より見下しているとういう、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の映像作家としてのレトリックであるようにも感じます。

 コールマン警部がリチャード・クレンナ演ずるシモンの経営するバーから出たときの様子を「セット撮影」とし、そこからのパリの遠景や、強盗団の待ち合わせでのルーブル美術館内の様子を、わざわざ「背景画」としていることなどは、映画美術の新しい創造的営みを模索している印象を受けます。この書き割りはジャン・ピエール・メルヴィル監督自らの筆によるものなのかもしれません。

 そして、映画の冒頭、海辺の光景に面した海岸通りでのアパートメントの描写は、『太陽はひとりぼっち』でのあの人影の少ない閑散とした住宅街の描写ともイメージが重なり、眼鏡を掛けたアラン・ドロン演ずるホワイト・カラー、エドワード・コールマン警部が、警察庁舎内で、事件に関する書類を読んでいるときの姿は、まさに『太陽はひとりぼっち』の主人公、その後のピエロの姿のように見えるのです。わたしは、ピエロとコールマン警部の持つ虚無感に実に似通ったキャラクターの特徴を感じます。

 なお、古山敏幸氏は、著作『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』で、シモンとカトリーヌ・ドヌーブが演ずるカティの関係を『恐るべき子供たち』でのエリザベートとポールの焼き直しとしての近親相姦図として解説しており、それは非常に興味深い分析なのですが、わたしが関心を持ってしまったのは、ラスト・シークエンスのコールマン警部とカティの虚しい男女関係の崩壊の結論でした。わたしは彼女に、『太陽はひとりぼっち』でモニカ・ヴィッティが演じたヴィットリアを重ね、現代社会の「不毛の愛」を官憲とファム・ファタルの情愛として描写したのではないかと考えてしまうのです。

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 現代社会でのホワイト・カラーの憂鬱は、イタリアの「ネオ・リアリズモ」後期に活躍したミケランジェロ・アントニオーニ監督が表現し続けました。特にモニカ・ヴィッティという好逸材は、その「内的ネオ・リアリズモ」を鮮明にすることにおいて、素晴らしいモデルだったように思います。

 美しいブロンドの髪と妖しい魔性の美しさを持ち、妖婦としてのキャラクターを発露させた『昼顔』や『哀しみのトリスターナ』は、ルイス・ブニュエル監督に鍛え抜かれたカトリーヌ・ドヌーブの美貌の本質が表現されていました。この美貌の極致ともいえるカティによって実行される強盗団の仲間マルクの殺害は、その原型である『影の軍隊』でのシモーヌ・シニョレを完璧に超越しており、「フレンチ・フィルム・ノワール」においてのファム・ファタルとして、発展的に継承させたものだったようにも思われます。
 彼女は、性的な魅力で男を翻弄して破滅させる魔性の女としての存在感を最大限に発揮しているわけではなく、むしろ、それは、悲劇的プロットを担った役柄であるのですが、カトリーヌ・ドヌーブというスター女優そのものの存在感が妖婦のイメージを表出しているのです。

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 『太陽はひとりぼっち』でのヴィットリアは恋人に対して、常に「わからない」と、その憂鬱を会話にしていました。『カサブランカ』のイルザも、リックとヴィクター・ラズロの間で自己選択を放棄していました。しばしば、女性の主体性は、彼女たち本人にすら理解できていないのかもしれません。
 そういった意味では、『サムライ』でのヴァレリー、『望郷』でのギャビーにも共通の特徴が挙げられるような気がします。彼女たちは、存在していることのみで、結果的に男が破滅してしまう「死の女神」とも言えましょう。

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 これらの女性たちは、『マタ・ハリ』のグレタ・ガルボや『間諜X27』のマレーネ・ディートリッヒが演じた女性主人公が源流となっているようにも思いますが、この作品のカティも、女性特有の謎を持ち、すべての男を不幸にしてしまう結果を招きます。
 彼女は強盗団の首領シモンの情婦でありながら、権力機構の前線で活躍するその象徴的な位置に存在するコールマン警部からの情愛も一身に受けています。結果的に彼らの間で、あいまいな在り方のままに、人生における自己選択を放棄しており、最終的にはシモンを破滅させ、コールマン警部を孤独の奈落に転落させてしまうことから、ファム・ファタルとしての存在だと定義しても誤りではないでしょう。

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 また、コールマン警部にとっては、盗聴していたシモンからカティへの電話が、彼らからの疎外状況の現実を突きつけられた結果となり、それがシモンを抹殺する動機のひとつとなったようにも感じます。
 そして、アラン・ドロンにとってのその行為は、『太陽がいっぱい』でのフィリップとマルジュへのコンプレックスであり、『若者のすべて』での愛するナディアを巡る兄シモーネとの確執であり、『冒険者たち』でのローランを愛しているレティシアに対する報われない憧憬からの哀しみの再現でもあったのです。

 次に、シモンなのですが、彼は何故、自ら強盗団に身を落とし、自己抹殺を遂げなければならなかったのでしょうか?また、コールマン警部に対する彼の友情は、どのようなものだったのでしょう?

 この作品でのシモンは、その年齢を察すれば、戦中派のレジスタンス運動の若き闘志だったと推察できます。そして、現在の彼の生き方も、戦後のフランスのギャングの生態から考えて、稀有なケースでは無かったようにも思うのです。

【1923年パリで生まれる。
第二次世界大戦を契機に、レジスタンス運動の闘士になったが、戦後の平和に順応できずパリの暗黒街に身を投じ、35歳になるまでギャングとして生活を続けた。】
【引用「ル・ジタン~犯罪者たち~」《著者紹介》ジョゼ・ジョヴァンニ】

ル・ジタン―犯罪者たち (1976年)

ジョゼ・ジョヴァンニ / 勁文社



 セリ・ノワールの作家、後の「フレンチ・フィルム・ノワール」の映画作家であったジョゼ・ジョヴァンニは、日本でも人気があり充分に理解された映画監督・脚本家・原作者であり、彼を受け入れることができた日本人に『仁義』のジャンセンや『リスボン特急』のシモンを理解することは、それほど困難なことではないように思います。【注:死後、彼が実はゲシュタポ協力者であったことがわかり、私は少なからずショックを受けています。しかし、こういった逸話が一般にあったことは間違いありません。】

 また、シモンは恐らく、権力の論理に従ってしか生きることのできなくなったコールマン警部に対しては、強い同情心、哀れみのような感情を持っていたように思います。だから、彼が自分の情婦と恋愛関係にあることに気づいていても友人として兄のように温かく彼を受け入れていたのでしょう。

 この関係の設定は、『仁義』でのイブ・モンタン演じたジャンセンとブールヴィルの演じたマッティ警部との関係に更に焦点を絞っていったものだと思います。ジャン・ピエール・メルヴィル監督は映画作家として、彼らの関係を更に超越して描こうとしたのではないでしょうか?
 マッティ警部のような人情派の警察官を主役にした場合には、本質的な部分で警察権力機構の歪んだ矛盾を鮮明に表現するには不十分であり、ヒューマニスティックな情緒表現に終始したところで留まってしまうような気がします。

 また、治安や国益を守るためには、反社会的な行為は徹底的に悪として抹殺しなければならないのが、権力構造の論理なのですから、かつてのナチス・ドイツのゲシュタポのような冷徹な人材育成よって、戦後のフランス国家当局においてもコールマン警部のような警察官を育成してしまっていることを告発したスタイルに進化させているとも考えられます。

 そして、シモンのキャラクターは、強盗団の首領というキャラクターを通してアンチ・ヒーローのヒロイズムを描写したわけですから、彼がコールマン警部に逮捕されてしまうとすれば、その段階で彼が反権力としての存在を徹底することができなくなることを意味します。シモンが自己を抹殺せざるを得なかった必然は、ここにあるわけです。

 その結果、「フレンチ・フィルム・ノワール」の男の行動規範や行動論理は権力機構の歪曲によって、すべてを虚無に帰結させてしまうのです。これは、『サムライ』のジェフ・コステロの純粋なロマンティズムや『仁義』でのマッティ警部の孤独による哀愁を、イデオロギーのうえで、やはり超越させたものだったのでしょう。
 
 『仁義』でのマッティ警部とジャンセンの関係では、コールマン警部とシモンとの関係ほど、権力機構と反社会性のせめぎ合いが人間同士の信頼関係の崩壊と孤独を招いているところまでに昇華させて描写するには至っていなかったと思います。ここも、間違いなく『仁義』からの着実な進歩の実績と評価することが可能です。


 1930年代の「ギャングスター映画」から、1940年代のハリウッドのB級「フィルム・ノワール」への昇華、アラン・ドロンやカトリーヌ・ドヌーブを出演させた商業映画としての「スター・システム」の芸術的活用の実践など、ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、多くの贅沢な自らの願望を達成しながら、人物設定や舞台設定において、過去の作品を自ら超えようと努めていたように感じるのです。

 だからこそ彼は、
「少し前から・・・せいぜい数ヶ月位前からだったが、私は自分がついに芸術家になったことを感じている」
という自覚に至っているのでしょうし、アラン・ドロンから言わせれば
「・・・果てしない議論もしたが、監督は本当に頑固一徹でね。・・・」
などと述懐されてしまうのでしょう。

 いずれにしても、わたしのこの作品の解釈が正しくできているか否かは別として、『リスボン特急』のテーマ、芸術作品としての評価を正確に解釈しようと努めていくことは、今後の映画史での最も大きな課題でもあり、「フィルム・ノワール」の未来を切り開く端緒になることだと思っているのです。


 クライマックスを終えたラスト・シークエンス、新たな事件発生の現場に向かうパトカー内部での業務電話の着信音を無視するコールマン警部、それは現代社会に適応するため、非人間的で冷徹な生き方にならざるを得なかった彼が、ようやく人間的な孤独の感情を取り戻し始めた瞬間だったのかもしれません。

【ドロンは電話の受話器をはずしてデートに邪魔が入らないようにしており、受話器を戻したあとも、電話が鳴っても出ずにじっとしている。それは、仕事に忙殺されてきた男の初めての人間性の芽生えのようであるが、同時にそれまでもっていた唯一のコミュニケーション手段ももはや信じられなくなった、孤独の確認、と言っていいのかもかもしれない。・・・(「太陽はひとりぼっち」のラスト・シークエンスについて)】
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】
アントニオーニの誘惑―事物と女たち
石原 郁子 / / 筑摩書房





 やはり、ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、『リスボン特急』のラスト・シークエンスでのコールマン警部のクローズ・アップで、ミケランジョロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』の主人公、証券取引所のピエロと同系列に位置する現代人の再生に向けて、同様の目的で同様の表現をしたように、わたしには思えてしまうのです。
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by Tom5k | 2010-08-29 23:36 | リスボン特急(2) | Trackback(5) | Comments(8)

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タイトル : 映画評「リスボン特急」
☆☆☆(6点/10点満点中) 1972年フランス映画 監督ジャン=ピエール・メルヴィル ネタバレあり... more
Commented by マサヤ at 2010-09-14 21:51 x
トムさん
いつもながらの深い洞察と見事な論理展開に敬服いたします。
『リスボン特急』を題材としながらも、それにまつわる事象の情報量が多いこともあって、私の脳では文章全体の流れをしっかりと把握しきれていないのですが、確かなのは『リスボン特急』がそれまでのメルヴィルの監督作品のさまざまな要素を超越せんがために作られた作品であるということですね。
“作られた”というのが大げさであるならば、そういう意図が強く感じられる作品となった、と言った方がよいかもしれません。
私自身、そのような深い洞察でこの作品を捉えたことがなかったため、新鮮であるとともに大変勉強になりました。
ありがとうございました。

アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』との類似点も大変に興味深く読ませていただきました。
ご指摘の点を考慮しつつ、近く『太陽はひとりぼっち』を見返してみようと思います。
Commented by Tom5k at 2010-09-15 01:55
>マサヤさん、こんばんは。
過分なお褒めの言葉、恐れ入ります。
また、勝手に直リンさせていただいたことに関っても、ご報告の怠慢お許しください。
>『リスボン特急』がそれまでのメルヴィルの監督作品・・・超越せんがため・・・
わたしには、そのようにしか解釈できなくなっています。ともあれ、何せ『リスボン特急』が好きで好きで、どうしようもなくなっているんです。もちろん、快心の大傑作ではないのでしょうけれど、今のわたしは「サムライ」より好きかもしれません。ドロンの役作りも凄いなあ、と感嘆してしまいます。
そして、もし、この時点で本当にメルヴィルがアントニオーニと同様の視点に立っていたのなら、記事本文の「自らの芸術家の自覚」も理解できるような気がしているんです。
また、彼は元来コミュニストであったこと、その後、その思想信条に絶望していったことなど・・・このことの経緯はメルヴィル作品を紐解くキーワードになるような気がしています。これはルキノ・ヴィスコンティにも同傾向のものを感じるのですが、メルヴィルの場合は、とてもわかりにくいです。

コメント、とてもうれしかったです。ありがとうございました。
Commented by 風まかせ at 2010-09-17 13:51 x
はじめまして。
「映画伝説ジャン・ピエール・メルヴィル」は、私も興味深く一気に読みました。ガイドブックみたいな解説本に見えて、従来の定説に異を唱えているところが刺激的です。
特に「リスボン特急」で、カティをシモンの情婦ではなくシモンとカティは、兄妹で互いに近親相姦的な感情を抱いているのでは……という指摘には驚きました。でも、そう解釈すると三人の間の妙な空気が妙に納得できるんですね。
シモンはカティを肉体的に愛することができないから、コールマンとカティの関係を黙認している、と。
でも、それをはっきり描くと、刑事ものじゃなくなるわけで、そこのところが「リスボン特急」の妙味、隠し味ではないでしょうか。
Commented by Tom5k at 2010-09-18 02:29
>風まかせさん、はじめまして。
「映画伝説ジャン・ピエール・メルヴィル」のような、わかりやすくて本質的な内容の本が一般化すると、映画ファンには強い刺激になって、それがまた良い映画作品を増やす契機になるような気がします。
それから、恥ずかしながら、記事中でカティとシモンの関係での記述でシモンではなくコールマンと間違えておりました。即訂正いたしました。
それにしても「恐るべき子供たち」でのエリザベートとポールを再現したとの分析には説得力がありましたね。
メルヴィルは映画作家としての自覚が強い映画監督ですから、作品は、あやふやな表現を多用して、見る側の自由な想像力を喚起するものだと思います。
彼のヌーヴェル・ヴァーグ先行者としての力量を証明するものだと思います。
Commented by 用心棒 at 2010-10-25 00:30 x
 こんばんは!

 ドロンと映画への愛情が感じられて良いですね。読んでいて楽しいですよ。『間諜X27』とか『恐るべき子どもたち』とかまで出てくるのには驚きました。

 2本とも7年位前に見たっきりになっています。コクトー作品は見る度に新しいインスピレーション的なものをくれますね。

 しかし、フィルム・ノワールって、冷静に考えると「なんで、そうなるのかな?」と欽ちゃん的な話の持って行き方のものも多々ありますが、影の見せ方とカット割りの良さですべて超越してしまう力強さを持っているような気がします。

ではまた!
Commented by Tom5k at 2010-10-30 01:32
>用心棒さん、こんばんは。
好き放題に自分の書きたいことを書くのって、何て楽しいのでしょうか。
つくづく思います。
>『間諜X27』、『恐るべき子どもたち』
これも思いつくまま並べただけなのですが、ガルボとディートリッヒはトーキーになってからの伝説の二大スターであり、彼女たちがスターであり続けた(今でもあり続けている)のは、そのヒロイズムが現代女性のすべての矛盾を体現していたからでしょうね。
また、コクトーの芸術性も普遍ですよね。良く美術館の事業なんかで催される体系になっているレベルだと思いますが、完成された現代芸術だと思います。
そういえば、11月6日(土)北海道立近代美術館のミュージアム・シアター(映画上映会)でジャック・ベッケルの「モンパルナスの灯」を上映するそうです。行ってみようかどうしようか悩んでいるところです。
>フィルム・ノワール
映画としては絶対的に三流なのに、この魅力は何なんでしょうね?とにかく、たまらなく魅きつけられてしまいますよ。
Commented by 用心棒 at 2011-05-19 00:22 x
 こんばんは。おひさしぶりです!

仲良くさせていただいて方々が一斉に更新休止状態になってしまったので、かなり心細かったですよ(笑)

『アルジェの戦い』以来、久しぶりにアラン・ドロン出演作を記事にしました。メルヴィルとの三部作中ではもっとも評価が低いようですが、つじつまが合うかや必然性があるかどうかなどは犯罪に手を染める登場人物たちやフィルムに焼きついた雰囲気を楽しむフィルム・ノワールには関係ないのだ!と言い聞かせながら見れば、何の問題もないのでは。

 かなり乱暴かもしれませんが、これを見て楽しめないという映画ファンは可哀想だなあとすら思います。

ではまた!
Commented by Tom5k at 2011-05-19 23:42
>用心棒さん、こんばんは。

シュエットさんは、心配ですね。一体どうしてしまったんだろう。

>アラン・ドロン出演作・・・
これは用心棒さんに観てもらいたい作品も多くあるんですが、なかなか一般化しない作品も多いんですよね。

>メルヴィルとの三部作中ではもっとも評価が低い・・・
そうなんです。しかし、これほど面白さが凝縮されている作品もメルヴィル作品でもそう滅多にないですよ。
観る側も構えすぎてるんじゃないかな?最もユニークな出来映えの作品だと感じています。最も映画的で、最も「フィルム・ノワール」的だと思っています。
 それにしても、ファム・ファタルのキャラクターの弱さは、フランスとアメリカの文化の違い、国柄の違いなんでしょうかね。しかしながら、カトリーヌ・ドヌーブの妖しさと哀しさもうまく表現されていたようには、わたしには思え・・・カティ役は、ジェーン・フォンダやブリジット・バルドーなんかでも面白いキャスティングになったようにも思っています。

では、また。