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ドラキュラ、アルセーヌ・ルパン、メグレ警視、エルキュール・ポアロ、ペリー・メイスン、スーパーマン、バッドマン、007(ジェームズ・ボンド)、座頭市、眠狂四郎、明智小五郎、車寅次郎、子連れ狼、最近ではハリーポッターなど・・・。
このように、古くから有名になったヒーロー・キャラクターは数え切れないほどで、それらは現在でも大衆文化として定着し、今後も多くのひとびとに親しまれ続けていくものであるように思います。 古典的ヒーロー「怪傑ゾロ」もそのひとつです。特に「ゾロ」の場合は、子供を中心にして、父親や母親、祖父母までの全世代の家族全員を対象にできるヒーロー・キャラクターです。 『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)は、わたしが小学5年生のときの公開(公開年は1975年)であり、父親はタイロン・パワーの『怪傑ゾロ』(1940年)を観た世代(日本公開は戦後)、祖父母も、もし活動写真を観ることのできる環境にあったなら、ダグラス・フェアバンクスの『奇傑ゾロ』(1920年)の世代ということになります。 そして、我々の子供たちは、アントニオ・バンデラスの『マスク・オブ・ゾロ』(1998年)や『レジェンド・オブ・ゾロ』(2005年)などの世代になるわけで、このように考えると「怪傑ゾロ」は、親子4世代に渉る人気ヒーロー・キャラクターだといえましょう。 「怪傑ゾロ」は冒険活劇の原点であり、ヒーローとして普遍の個性を持ったキャラクターなのだと思います。 ところで、映画における「スター・システム」というものがあります。これは映画産業の資本力から企画される商業映画の在り方のひとつであり、その時代の花形スターの出演を前提とした興行PRによって集客プランを立案し、映画作品を製作していくシステムです。 映画における銀幕のスターたちは、そういった意味から、彼ら自身の個性がキャラクターとして確立されているケースも多いように思います。 例えば、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、チャールズ・チャップリン、ジェームズ・ディーン、マリリン・モンロー、ブリジット・バルドー、ハンフリー・ボガード、ジャン・ギャバン、オードリー・ヘップバーン、チャールズ・ブロンソン、ジャッキー・チェン、石原裕次郎、高倉健・・・。 彼らは、スター以外の何者でもなく、映画作品のおいて、登場人物のいかなる主人公を演じても、すべて彼ら本人の個性としてしか表現されえないわけです。 「ヒーロー、すなわち範例となり手本となるような人物は、古代の叙事詩から現代の映画にいたるまで、あらゆる民族と国民の詩の欠くべからざる要素である。(-中略-)ヒーローないしヒロインの精神を体現した肉体の美は、それを讃美する人々の民族的、階級的イデオロギーと憧憬とを正確に表現する。われわれは他人の顔の表情を読むように、その美を読みとることに習熟しなければならない。人々に好ましく思われる美は、ある社会層の欲求を、政治綱領以上によくあらわしている。」 【『映画の理論(第二十四章 ヒーロー、美、スターおよびグレタ・ガルボの場合)』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】 そして、アラン・ドロンという俳優としてのキャラクターも1970年代には、このようなスター達と同様にかなり固定されたイメージで捉えられていたように思います。それは、アラン・ドロンが彼らしくない役を演じると、その作品は失敗作の烙印を押され、どんな駄作でも、従来のアラン・ドロンのイメージに合った主人公を演じていれば絶賛されるというように・・・。 「ギャング役は好き? = ぼくが一ばん好きなのがギャング役ではない 観客が一ばん好きなのがギャング役なのだと思う(-略)」 【アラン・ドロン孤独と背徳のバラード 芳賀書店(1972年)】 恐らく、アラン・ドロンのキャラクターは、1967年に初めてジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出で撮った『サムライ』のジェフ・コステロのイメージから、強く意識され一般化していったように思います。彼の作品を辿ると、『サムライ』で演じたジェフ・コステロ以前と以後に体系付けられることができるような気がするのです。『サムライ』が、『太陽がいっぱい』(1959年)と並ぶ彼の代表作品とされている所以のひとつがここにあります。 もっというと、『サムライ』より以前であれば、「怪傑ゾロ」に類似した体系のヒーロー活劇である『黒いチューリップ』(1963年)や、ハリウッド時代のディーン・マーチンと共演したコメディ西部劇『テキサス』(1966年)など、彼が上手に演じていた作品などに違和感はなく、むしろそれは彼の個性に適した配役であるようにまで感じます。 しかし、すでに『サムライ』以後、1970年代における段階でのアラン・ドロンには、アンチ・ヒーロー的ヒーローとも呼べる個性が確立されており、『シシリアン』(1969年)、『ボルサリーノ』(1969年)、『ビッグ・ガン』(1973年)などでのギャングや殺し屋など・・・男性紳士服ダーバンのCM出演や『栗色のマッドレー』(1970年)、『愛人関係』(1974年)、『個人生活』(1974年)などでの大人の男性としてのダンディズムなども加わり、アラン・ドロン・キャラクターがはっきりと確立されてしまっていたのです。 「ドロンはギャバンとはちがいさまざまな異質なヒーローを演じながら、ドロン=ヒーローとして一貫性をもっている。彼は舞台経験がほとんどないだけに、かえってそういう芸当もできるのである。またそういう自信には一時代まえのギャバンの自信とはちがった近代性がある。TVコマーシャルにでても一向平気なのもそのためだ。1968年に彼は、自分のガードマンだったマルコヴィッチが殺害された事件で、殺人の嫌疑さえかけられ、一時は俳優としての生命をうしないそうになったこともあったが、立派に彼はそれを生き延びた。ヒーロー=ドロンは無傷だった。当時彼はすでに常人ではなくヒーローそのものになっていたのである。」 【引用~「ユリイカ詩と批評1976年6月号~特集映画ヒーローの条件」(映画におけるヒーローと俳優 主としてフランス映画の場合 飯島正)】 完成した映画を観るまでは(もしかしたら観たあとも)、この時期の彼が何世代にも渉って親しまれてきた子供たちのヒーロー「怪傑ゾロ」を演じることに驚くべき違和感を伴ってしまうものだったかもしれません。 特に、アラン・ドロン全盛期の私たちの親の世代から団塊の世代にかけてのファン層が、最も驚いていたのではないかと思います。 高倉健や渡辺謙が、「仮面ライダー」や「ウルトラマン」を演じることを誰が信じることができましょうか!? わたしにとっても、アラン・ドロンのファンになってから30年以上になるにも関わらず、「フレンチ・フィルム・ノワール」や恋愛作品で、大人の男性として最大限の魅力を発揮していた当時の人気全盛期の彼が、少年・少女たちの憧憬する「怪傑ゾロ」を演じたことに対して、何度この作品を再見しても未だに信じられない気持ちになってしまうのです。 しかしながら、アラン・ドロンにとっては、当時12歳だった愛息アンソニーの強い要望に応えた有名な逸話も含めて、 【スターであり同時にプロデューサーでもあるドロンは、前々からヨーロッパ映画には、子供から大人まで家族ぐるみで楽しめる大ロマン、大冒険といった、夢多き時代の大らかな映画が足りないと考えていた。】 【『アラン・ドロンのゾロ』シネフィル・イマジカ版DVDプロダクション・ノーツより】 アラン・ドロンの経験値からすれば、若き日に撮って大成功を収めた『黒いチューリップ』や、残念ながら実現はしませんでしたが、ラウール・レヴィのプロデュース、クリスチャン・ジャックの演出、アンソニー・クインとの共演で制作する予定だった『マルコ・ポーロ』などに、この時代に至るまで、こだわりをもっていたとも察せられ、もしかしたら、それがの『アラン・ドロンのゾロ』の制作動機のひとつになっていたのかもしれないなどと考えてしまうのです。 あらゆる視点において、それがどのような方向の理想であろうと、それを追求する志ほど尊いものはありません。そういった意味でも、アラン・ドロンがこのクラシック作品に挑戦し、完成に至らせしめた意義は本当に大きなものだったといえましょう。 ところで、正義のヒーローの類型を徹底したこのようなジョン・ストン・マッカレーの原作での登場人物において、何世代もの時代を経た現在では、すでに、かなりの硬直した特徴を持つものとなっており、映画化に至っては、いわゆるリアリズム作品とはかけ離れてしまう作品になることは必然でしょう。 しかしながら、このような題材から、人間社会をわかりやすく象徴化し、ファミリー向けの娯楽活劇として、健康的なヒューマニズムを極限まで徹底することが可能な気もするのです。 極論すれば、ここには自由な映画鑑賞においての選択肢はなく、ただ、ただ、アラン・ドロンが扮する正義のヒーロー「怪傑ゾロ」と虐げられた民衆に感情移入し、スタンリー・ベイカーの扮する悪漢総督ウェルタ大佐を心底憎み、当局による独裁が粉砕され、圧政に苦しむ貧しい開拓民たちが解放されることを強く願うばかりの物語であるのです。 「ゾロ」を憎んだり、ウェルタ大佐を敬愛したり、ガルシア軍曹(ムスターシュ)を憧憬することは、ほとんど不可能なわけです。 また、この『アラン・ドロンのゾロ』では、人間の尊厳がかくも高く尊いものだということを容易に信じることができる構成になっています。 ディエゴ(アラン・ドロン)の友人ミゲルの父親としての尊厳。 ミゲルに対する友人としてのディエゴの尊敬と誠実。 女性が社会的に理想を追求したときのオルテンシア(オッタヴィア・ピッコロ)の強さと真の美しさ。 フランシスコ神父(ジャンカルロ・アルベルティーニ)の思想家・宗教家としての勇気の全う。 主人を敬愛し真に忠実な主従の関係、ディエゴに対するベルナルド(エンツォ・セルシコ)。 愛犬や愛馬など動物たち、ミゲルの長男ラファエロや開拓民の少年チコとの友情。 前総督未亡人(アドリアーナ・アスティ)とドイツ人大尉メルケル(ジャコモ・ロッシ・スチュアート)との階級や民族を越えた愛情。 などが描かれているのです。 そして、原作には登場しない友人ミゲロの息子ラファエロや開拓民の有色の少年チコを登場させていることから、この作品でのアラン・ドロンの想い願うものを察することは容易なことです。過去に撮った『若者のすべて』の五男ルーカや『冒険者たち』のレティシアの従弟のような存在を、この作品に再現させようとしていたことわかるのです。 未来の社会を考えたとき、そこに希望をもたらしてくれる存在である子供たち、愛息アンソニーの父として、アラン・ドロンが強く願っていたことなのでしょう。 1950年代後半に突如出現したフランス映画の新しい波「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、旧フランス映画の類型・硬直化を徹底的に批判していったわけですが、この作品の登場人物は、このように全て類型的で硬直したキャラクターであるのです。 が、しかし、それの何が、どこを、批判の対象とできましょうか!・・・フランソワ・トリュフォー監督やジャン・リュック・ゴダール監督は、この作品をどのように批評しえたでしょうか!? 1990年、ジャン・リュック・ゴダール監督は、映画『ヌーヴェルヴァーグ』で、ついにアラン・ドロンを起用しました。現代社会の矛盾に押しつぶされたルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』でアラン・ドロンが演じたロッコ・パロンディを、ロジェ・レノックスとして再登場させ、ブルジョアジーの令嬢エレナに溺死させられる役柄を演じさせたのです。 「神様を悪くいうのはおやめよ!」 と絶叫したロッコ・パロンディ・・・ ジャン・リュック・ゴダール監督が、『ヌーヴェルヴァーグ』で描いたのは、このような現代のニヒリズムを生きる現代人が、近代以前の宗教に従順だった多くの民衆に、その神に代わる【力への意志】が必要だと考え、あらゆる限界を乗り越えるべく存在【超人(超越者)】として生きなければならない宿命を予見した実存主義哲学者ニーチェの思想を象徴させているのです。 また、沼地に映るリシャール・レノックスの登場をシャドウで間接表現しているショットでの 【私は一人の他者】 このアルチュール・ランボーの詩の引用から、ジャン・リュック・ゴダールは、ここでディエゴのゾロへの分身化を再現しているように思えてならないのです。 【この人を見よ!】 このニーチェの言葉とともにロジェ・レノックスは、リシャール・レノックスとして復活、彼は愛を再生させてエレナとともに旅立っていくわけですが、わたしにとって、リシャール登場のシークエンスは、「怪傑ゾロ」見参のそれを想起させるものでもありました。 民衆の精神的支柱として、神の国の伝導者であるフランシスコ派の伝導を全うしていた宣教師フランシスコ神父は、その思想とその実践により民衆から多くの支持を受けていました。このことから、当局により危険人物として逮捕、独裁による恥ずべき虚偽裁判に謀られることになったのです。司法の茶番による有罪の裁決が下され、今まさに鞭打たれる宿命となったそのとき、この腐敗した神をもいたぶる“政治倫理の抹殺”や“道徳の欠損”を食い止めるべく、正義の剣士「怪傑ゾロ」は参上するのです。 【この人を見よ!】 このシークエンスの撮影テクニックもフィルムの編集も音響の効果も素晴らしいものです。 鞭打たれるフランシスコ神父をローアングル、クローズ・アップで撮っていますが、この瞬間わたしはルネ・クレマン監督の『鉄路の闘い』におけるレジスタンス運動家の鉄道員の処刑シークエンスでの主観ショットを想起してしまいました。 鉄路の闘い ビデオメーカー 太陽光で真っ白となったフレームに 「やめろ」 ゾロの声をリバーブレーション(残響)で表現し、その音響に合わせて、フォーカスにおいても正面から歩いてくる彼に敢えて焦点距離を合わせずに登場させるのです。 更に、弦楽器による高音のシグナル音の効果も実にファンタスティックな印象をもたらすものでした。 ロング・のフル・ショットから、まずオルテンシアたち民衆のショットでゾロの歩行してくる方向を示し、ゾロの遠景からのミディアム・ショットを、少年チコの視線、次に悪徳裁判官たち、更に鞭打たれているフランシスコ神父の視線でカットし、民衆の静かな驚きを表現しているのです。 観客においても、このポイント・オブ・ビュー(視点)でのゾロの登場に釘付けになってしまいます。多数の民衆における主観ショットによるゾロの登場は、まさに大スターアラン・ドロンならではのゾロでなのです。 「罪なき者を罰するな」 ゾロのセリフをやはり残響効果で表現し、固定カメラでのゾロの歩行を正面から捉え続け、バスト・ショットでようやくフォーカスをゾロに調整させるトラジッションによって、その勇士をくっきりとフレームに浮き上がらせます。 「正義を教えに来た」 フォーカスに合ったゾロのクローズ・アップとともに、彼の声もこの段階でようやく残響を使わず鮮明ではっきりしたものとするのです。 【とくに印象的なのは、ゾロの初登場シーンだろう。正義を説く修道僧フランシスコが、ウェルタ大佐ひきいる暴虐な軍隊にとらえられて、鞭打ちの刑に処せられているとき忽然と黒フクメン黒装束のゾロがあらわれ、屋根から屋根に飛び移って処刑場に近づいてくる。その勇姿を、“空からやってきた正義の使者”というようにファンタジックに描いたところが興味深い。】 【スクリーンジャンボ ’75魅力サマー号アラン・ドロン ワイドグラフ ビッグ特集 アラン・ドロンのゾロ「スカッとしたドロンの新しい魅力!」深沢哲也】 まさに音響と映像の古典的モンタージュの集大成です。 本当に素晴らしい! ラスト・シークエンスでは、悪徳の独裁者ウェルタ大佐は、自らの欲得のため、民衆の精神的指導者フランシスコ神父を射殺してしまいます。 第二次世界大戦後、イタリア「ネオ・レアリズモ」の体系の創始となった映画として、世界中に衝撃を与えたロベルト・ロッセリーニ監督の『無防備都市』でのラスト・シークエンスで、ナチスがドン・ピエトロ神父を処刑し、ついにその聖域に足を踏み入れたファッシズムの大罪に通ずるものを想起させるシークエンスでした。 無防備都市 アルド・ファブリーツィ / アイ・ヴィ・シー ウェルタ大佐とゾロとの死闘は、ファシズムと闘ったレジスタンスをも想起させるのです。 もしかしたら、この作品は何世代もの家族を対象とした「冒険活劇」としての「ネオ・リアリズモ」だったのかもしれません? そう、まさにニーチェの思想を想起するように【神は死んだ】のです。ヌエボ・アラゴンの政府権力は、神すら殺害するほどの暴虐の限りであったのです。 そして、いよいよ友ミゲルとの堅い約束を破らざるを得ないほど、ゾロは憤慨し圧制者ウェルタ大佐を抹殺する決意をするのでした。 民衆が解放されていく各々のシークエンスでは、クリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』でのフランス大革命達成や、ルネ・クレマン監督の『パリは燃えているか』(1965年)でのレジスタンス運動の勝利などによる民衆の歓喜などが想起されます。 最後の決闘で、ウェルタ大佐に素顔を見せるときのゾロ=ディエゴを演ずるアラン・ドロンは、決死の剣さばきで汗だくとなってしまっているにも関わらず、精悍で美しいヒーロー像を体現しています。 そのシークンスでのディエゴを、焼け付くような夕陽の太陽光をバック・ライトにして露出を下げて捉え、ウェルタ大佐とのクローズ・アップを交互に、二人の表情をカット・ズームで順々と大きくしていく様を撮し出します。両者双方の意識化での相手との決闘への集中力を表現するため、高レベルのモンタージュを駆使しているのです。 ディエゴのクローズ・アップを太陽光シルエットのロー・アングルで捉えた瞬間、彼はウェルタ大佐に向けてサーベルを向けます。ウェルタ大佐の必死の形相をクローズ・アップした瞬間のカットから、0コンマのサブリナルのショットでサーベルの刃のアップをインサートし、、瞬時に二人の横顔のミディアムのクローズ・アップに移って、ディエゴのサーベルが一瞬早くウェルタ大佐を射抜いたことを表現しています。 ここで、わたしは黒澤明監督の『椿三十郎』のラスト・シーン、三船敏郎演ずる三十郎と仲代達也演ずる室戸半兵衛の最後の決闘を想起しました。 椿三十郎 [DVD] 東宝ビデオ また、教会の屋上から落下するウェルタ大佐をモーション・コントロールで捉えているシーンには、ルイ・マル監督の『世にも怪奇な物語 第二話 影を殺した男』のラスト・シーンで、やはりウィリアム・ウィルソンが教会から身を投げるショットなどに想起が至ってしまうのでした。 それにしても、ドウッチョ・テッサリ監督、イタリア製西部劇の傑作を多く輩出した演出家とはいえ、これほどの映像テクニシャンであることには驚きを禁じ得ません。超一流とまではいわずとも、このような優れた職人監督が映画史の片隅に埋もれていくのは、あまりにも惜しいことです。 いつの日か、映画史において脚光を浴びるときが来ることを信じたいものです。 また、ここで忘れてはならないのが、アラン・ドロンにとってのジョセフ・ロージー門下の先輩俳優スタンリー・ベイカーです。ジョセフ・ロージー監督が、彼を使った作品には、『狙われた男』(1959年)、『コンクリート・ジャングル』(1960年)、『エヴァの匂い』(1962年)、『できごと』(1967年)などがあり、『暗殺者のメロディ』(1972年)でアラン・ドロンが共演したリチャード・バートンの親友でもあり、同様にシェークスピア劇の舞台俳優としても有名な名優でもあったのです。 エヴァの匂い [DVD] パイオニアLDC できごと [DVD] パイオニアLDC すでにアラン・ドロンは、『暗殺者のメロディ』(1972年)でジョセフ・ロージー監督の演技指導の洗礼を受けており、これは、ルネ・クレマンやルキノ・ヴィスコンティの演技指導と同様に、彼にとっては最も厳しいものであったといいます。 そのジョセフ・ロージー一家の兄貴分であるスタンリー・ベーカーの絶賛すべき素晴らしい演技と渡り合うことができてから3年後、再びジョセフ・ロージー監督の演出で、あの大傑作『パリの灯は遠く』(1977年)を生み出すことになるわけです。 ジョセフ・ロージー監督は、自分が育てた二人の愛弟子が出演しているこの冒険活劇を観て何を思ったでしょう? わたしの勝手な推論ではありますが、今ではジャン・リュック・ゴダールも、もし生きていればフランソワ・トリュフォーも、この類型的で硬直したキャラクター、正義の剣士「怪傑ゾロ」を絶賛せざるを得ないような気もしてくるのです? 後年、フランソワ・トリュフォーは自ら批判していた「詩(心理)的レアリスム」の二人の映画作家について、次のように述懐しています。 「わたしの考えでは、ハリウッド的なセンスと力量を持っていたフランスの職人監督はジュリアン・デュヴィヴィエとクリスチャン=ジャックぐらいなものでしょう。」 【『わがフランス映画誌(4 ヌーヴェル・ヴァーグ前夜 フランス映画のある種の傾向 P246)』 山田宏一著 1990年 平凡社刊】 ![]() アラン・ドロンのゾロ オリジナル・サウンドトラック盤(歌)オリヴァー・オニオンズ 音楽:グイド&マウリツィオ・デ・アンジェリス
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